goo blog サービス終了のお知らせ 

雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

読書案内「動く壁」 吉村昭著  要人の命を守れ

2022-09-09 06:30:00 | 読書案内

読書案内「動く壁」 吉村昭著 要人の命を守れ

         安倍元首相が暴漢に襲われた。あれからもうすぐ60日が過ぎようとしている。
  2022.7.9付の各社は、激しい口調でこの暴挙を非難した。
  銃弾が打ち砕いたのは民主主義の根幹である。全身の怒りをもって、この凶行を非難する。
                                         (朝日新聞 社説)
  暴力の卑劣さは、何度非難しても避難し足りることはない。(略)
   どんな政治であっても、それをただすのは言論、そして民主主義の手続きである。
                                                                                                                         (天声人語)
    話を聞き、問うための場を、命を奪う場にしたのが、現場で逮捕された41歳の容疑者だ。
   (略)待ち構えていた行動の裏に、どんな暗い熱があったのか。
                                     (天声人語)

  事件の背景がまだ解明されていない発生直後の発信であり、
 論理があまりに飛躍しているのではないか。

 文面にはテロという言葉はないが、内容は「テロ」を想定するような文言が踊っていた。
 文面を読めば、奈良県警発表として、
 「(安倍氏の)政治的信条に恨みはない」
 「特定の(宗教)団体に恨みがあ」
るとも供述していると書いてある。
  しかし、この日の朝日は、興奮気味に紙面を飾っている。
 「安倍氏テロの銃撃にたおれる」という匂いが漂っている。

  日を追うごとに、事件は政治的な要素から離れ、
 政治家と特定宗教団体のつながりが表面化し、

 「要人警護」の不備が紙面をにぎわすようになった。
  事件現場のビデオを見ながら、
 私は安倍氏の後方が、手薄であり、
 まるで丸腰の安倍氏が不用意にも
敵に背中を見せているような陣形だな、と思った。

     ----- 〇 ----- 〇 ----- 〇 ----ー 〇 -----

 『動く壁』
   吉村昭の初期の短編のタイトルだ。
   作者35歳のときの60年も前に書かれた小説で、オール読物に掲載された短編。
   小説では食えず、翌年には
   次兄経営の繊維会社に勤務しながらの文学修行の時代に書かれた小説でした
    小説では要人警護を任務とする者(SP)は、命を張って要人の『壁』になることを要求される
    吉村昭はこれを「動く壁」と表現した。
       (1994年フジテレビ放映のドラマ 2021年に再放送)
            日本の要人警護(SP・セキュリテイ・ポリス)について
              創設当時のSPは、要人の前には立たない、目立たないようにする、
              という警護が主流だったようです。
              創設のきっかけは、1975年「三木首相殴打事件」が発生。この事件は、
              佐藤栄作元首相の国民葬会場で、内閣総理大臣の三木武夫氏が右翼団体
              の襲撃を受けた事件で、創設当時の前面に出ない警護スタイルのすきを
              ついて発生した事件といわれている。
               この事件をきっかけに、当時アメリカで実践されていた前面に出て目
              立つ警護をするSS(シークレットサービス)型警護が採用されたと言われて
              います。
  ……わびしい葬儀が営まれていた。会葬者も少なく、
 忌中の簾の中から漏れてくる読経の声も低かった。
 しかし、その路を偶然通る人々は、家の前にただ一基立てられた花輪を目にすると、
 例外なく足をくぎづけにし、花輪を驚いたように凝視し、そしてからいぶかしそうに
 小さな祭壇の灯のまたたく家の中をうかがった。(冒頭から引用)
    
  通りすがりの人々が驚き、いぶかしんだのはこの場末の街のただ一基飾られた花輪の豪華さであり、
 更に送り主の名札に現職総理大臣の名前を見た時だった。
  冒頭から一気に読者を引き込んでいく素晴らしい書き出しだ。
 若い警察官の死と総理大臣との間にどんな関係があるのだろう。
   と、期待に胸躍らせながらページを繰る。

  身辺警護員に任命され、
 彼はブローニングの小型ピストルを支給され総理の身辺警護の任務に就く。
 拳銃の使用は原則、禁止されている。
 拳銃を使用して市民を殺傷してしまう恐れがあるというのが、その理由だ。

襲ってくる者は、必ず凶器を身にひそませているのが常識だ。
それを防ぐ警護員たちに使用できる武器がないとなれば、
筋肉で骨で襲来者のひらめかす刃先を、
弾丸を、防ぎ止めねばならないのだ。
 
総理が私邸や官邸から出るあさから、夜戻るまで緊張の連続の中警護が続けられる。
 
 ひとしきりわびしい葬儀の描写が終わると、
 三日前の夜半に起こった彼の死亡事故に関する記述に移っていく。
   緩いカーブを疾走するオートバイ。不意に前方にタクシーのヘッドライトが見えた。
   若者の運転するオートバイはハンドルを切ったまま、スピードの慣性のまま、歩道に
   乗り上げ横転。歩道を歩いていた男は事故に巻き込まれ、街灯の鉄柱に頭をぶつけて即死した。

 警護という職業で身体に染みついた反射神経が、
 音や光、人の声などに、感応し無意識のうちに体が動いていく。

 オートバイの交通事故に巻き込まれた事故死なのか。
 警護を職業とする警察官の死亡事故として処理するには、あまりにもあっけない事故だ。
 オートバイとタクシーのライトが緩いカーブで交差する。
 なぜ彼がそこにいたのか。
 体に染みついた反射神経がなぜ働かなかったのか。
 疑問を残したまま、彼の死は事故死として処理される。

  小説では警護員たちの私生活まで犠牲にしながら、
  ストレスと戦い要人警護に従事する警護員の姿が描写される。
  再び描写は事故当日の現場に戻る。
  作者は読者を寂寥感で満たすような最後の三行を用意して小説を終る。

  女は、小走りに歩いた。そして、裾をひるがえしながら、道を曲がって去って行った。
  サイレンの音が、また一つきこえてきた。
  ……夜空は、冴え冴えとした満天の星空だった。
 
      (読書案内№186)              (2022.9.8記)    

 

 

 

 

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日航機墜落事故 37年目の夏 ③ 慰霊の園・慰霊の塔

2022-08-31 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

日航機墜落事故 37年目の夏 ③ 慰霊の園・慰霊の塔


慰霊の園 慰霊の塔
 

                                                     (図3)                  (図4)

 慰霊の園には次のような案内板があります。全文を掲載します。
   
昭和60年8月12日夕刻、日航機JA8119号機が上野村の御巣鷹の尾根に墜落し、
  五二〇名の尊い命が昇天されました。
   本来ご遺族の元に帰り供養されるべきご遭難者の遺体の一部が行方不明処置となり、
  上野村に骨壺の姿で残されることになりました。
   上野村々民は事故処理のお手伝いを通して、事故の凄まじさ、ご遺族の悲しみを目の
  あたりにし、このような事故が二度と起こらないように願い五二〇の御霊を祀ることが
  上野村々民に課せられた責務であると考えるに至りました。
  上野村は険しい山々に囲まれ平坦な土地のほとんどない所ではありますが
  この趣旨に賛同した村民有志が土地を供出し慰霊の園を建設することができ
  御巣鷹の尾根に向かって合掌した形の慰霊塔が末永く聖霊をお守りすることとなりました。
   ここ慰霊の園にご参拝いただく皆様と共々、末永くお御霊をお慰めし、
  交通安全を祈ってまいりたいと存じます。
                                     合掌

        平成元年
          財団法人 慰霊の園

 
 
             (図4)        (図5)
慰霊の塔(図3)(図4)の真後ろには123の壺に納められた身元識別不能として、
この地で荼毘に付された犠牲者の遺骨が納められています(図5)。
当時はまだDNA型判定技術が難しかった時代です。
バラバラになった身体の部分なかなか特定することが難しく、
遺族が面接してはっきり確認できた遺体は520の犠牲者のうちの60体のみだったという。
もっとも破壊された遺体は身体の部位すらわからない分離遺体(骨肉片)であった。


墜落遺体がいかに悲惨であったかわかります。
 最終的に身元の確認されたのは518名だが、
分離遺体の納められた101の棺はその年の12月20日に荼毘に付され、
慰霊の園の納骨堂(図5)へ納められた。
5カ月にわたる検屍会場となった市民体育館は、
遺体の腐敗臭が消えず解体され、現在は公民館になっている。

 身元確認作業が終了した12月18日までの延べ127日間で、
出動した医師、歯科医、看護師は2891名に及ぶ。
身体に食い込んだブローチ、アクセサリー、歯形、手術痕などを頼りに
バラバラになった身体の一つ一つに身元確認の手がかりを発見していった
遺体確認にたずさわった人たちに敬意を表したい。

 群馬県上野村について
   航空機墜落事故の現場となった上野村。当時の人口は2122人634世帯の村全体の95%が山林の
  交通の不便な山峡の村だった。ちなみに37年経った現在の人口は1095人(令和4.8.1)。
  群馬県で一番人口の少ない村といわれている。裏を返せば、自然豊かで、ゆったり生きられる村で、
  移住支援やシングルマザー支援などにも力を入れていると言われています。
   村のホームページの『観光』のページを開いても、自然を謳う観光施設は出ているが、
  航空機墜落事故の現場であることには一切触れていない。
  これは、村の方針が「事故関連現場と施設は失われた御霊を慰霊する鎮魂の場」と
  位置付けるとしていることに由来する。
   だから、慰霊の園は国道から遠くない所にありながら、観光バスの乗り入れは禁止とされている。


 事故の責任はどうなったか
  1987(昭和62)年6月(事故から2年後)、
  運輸省航空事故調査委員会は事故の原因を、後部圧力隔壁の修理ミスと報告書をまとめた。
  捜査にあたった群馬県警は1988(昭和63)年、業務上過失致死の疑いで、
  日航とボーイングなどの関係者20人を書類送検した。
  しかし、前橋地検は1989(平成元)年、
  ボーイング社がミスを認めている(このことは拙ブログ「日航機墜落事故 37年目の夏 ①」でも触れた)
  にも関わらず全員を不起訴処分とした。

  

  1990(平成2)年8月12日、公訴時効が成立する。
  37年を迎える2022年にあっても、この事故は単独機の航空事故として犠牲者数が
  世界最多となっている。
                       (この項はBusiness Journalの兜森 衛氏の記事参照)                         
             (昨日の風 今日の風№135)    (2020.8.30記)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日航機墜落事故 37年目の夏 ② 昇魂之碑

2022-08-27 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

日航機墜落事故 37年目の夏 ② 御巣鷹の尾根 昇魂之碑

    (図1)                  (図2)
   (図1) 昇魂之碑の前でシャボン玉を飛ばす遺族の皆さん。この碑の前は小さな広場になっているが
       ここは事故当時ヘリコプターの発着場所として開発されていた。
   (図2) 8月12日を前に毎年群馬県警の4月に入校した初任科生たちによって、
      昇魂之碑およびその周辺を清掃し、献花をしている。今年は12月8日に行なわれた。

     運命の時刻 1985年8月12日午後6時12分、
     日航123便は、東京・羽田空港から大阪・伊丹空港に向かって離陸した。
     
伊豆半島南部の東岸上空に差し掛かる直前の午後6時25分ごろ、
     「ドーン」という音とともに機体に異常事態が発生し、操縦不能になった。
     同56分、群馬県多野郡上野村山中に墜落した。
     
機内には、乗客509人と乗組員15人の計524人が搭乗していた。
     うち乳児12人を含む520人(乗客505人、乗組員15人)が死亡、
     乗客4人が重傷を負った。一家全員が亡くなったのは22世帯に上ると言われています。
     
日没を迎えたため墜落地点の特定に手間取り、
     場所がはっきり特定されたのは翌13日になってからだった。

      当時、メディアは墜落現場を「御巣鷹山」として報道したが、これは間違い。
     正確に言えば、墜落地点は群馬県・上野村高天原山の斜面(標高1565㍍)である(報告書による)。
     事故後、警察関係の報告書を作成するにあたって、正確な場所の名称を求められた当時の村長
     が、墜落地点を『御巣鷹の尾根』と命名した。
      
     事故直後は、登山口から沢づたいに2時間以上も歩かねばならなかったものの、
     地元、遺族らの努力で登山ルートの整備が行われ、
     現在では10台程度収容の駐車場が設置された登山口から、
     30分~40分程度、約180メートルの標高差を約1㌖登って、
     たどり着く事ができるようになった。
     真夏の暑い日、180㍍の標高差を上っていくのは多くのエネルギーを必要とする。
      事故から37年目の夏、遺族も歳をとり、子どもの代や孫の代になっている。
     コロナの影響もあり年々遺族の参加も減少している。

      昇魂之碑は、墜落現場にきずかれ、遺族にとっては個人を偲ぶ聖地として
     認知されている。
      一方この場所から『慰霊の園』までは、車で20㌖およそ1時間。520人の遺体は、
     損傷が激しく、検死総数は2065体におよびます。バラバラになった遺体の手や足や
     部位さえ判明しない肉片が一つの遺体として検死を待つ間2065体の遺体となったそうです。
     こうした遺体を『分離遺体』といいますが、最後まで誰の遺体か特定できないものが、
     101あり、これらは引き取り手のいない遺体として慰霊の園の納骨堂に埋葬されました。

      次回は「慰霊の里」・「慰霊の塔」について掲載します。

       (昨日の風 今日の風№134)         (2022.8.26)

 
 

   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日航機墜落 ① 37年後の夏

2022-08-14 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

 

日航機墜落 ① 37年後の夏

1985年8月12日午後6時56分ごろ、
羽田発大阪行きの日航ジャンボ群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落。
520人の尊い命が失われた。上空で圧力隔壁が壊れ、
機体尾部が吹き飛び操縦不能となる。
過去の修理ミスが原因と事故調査報告書には記載されている。

        事故発生の約1年4カ月前。製造元の米ボーイング社から、日本国内の駐在員を介し、
       日本航空の技術者に渡った英文のテレックス。事故機を含む同型機について、事故原因
       となった後部圧力隔壁を含む胴体部分の疲労度に懸念を示した上で、運航する日航に対
       し、機体を詳しくチェックする補足的な検査の「前倒し」を求めていた。
        運輸省航空事故調査委員会(当時)の事故調査報告書によると、日航は早期に補足検
       査をする計画を立てた。にもかかわらず、隔壁部分については実際に着手する前に事故
       が発生した、とされる。事故調は、その経緯や計画自体については問題視していない。
          (西日本新聞のスクープ記事から抜粋 2022.8.13記事)
       上記の米ボーイング社の文書は事故調にも一部引用されているが、西日本新聞は全文を
       入手した。

 あれから37回の暑い夏が巡ってきた。遺族も歳をとり、世代も代わった。
日航によると、全社員約1万4千人のうち事故当時在籍していた社員は284
人(今年3月末時点)。
約98%の社員が、事故を話でしか聞いたことがないことになる。
 裏を返せばたった2%の社員しか体験した社員がいないことに、ある種の危惧をいだき、
事故の教訓を風化させずに守り、伝える運営をお願いしたい。
遺族も高齢化が進み、墜落現場となった「御巣鷹の尾根」(群馬県上野村)への慰霊登山ができなくなった人も少なくない。
 
墜落現場のふもとを流れる神流(かんな)川に浮かぶ犠牲者追悼の灯籠(11日
)

 マスメディアも私たちも時の経過の中で、当時の鮮烈な想いは薄れ、
風化の波が少しずつ事故の悲劇を忘却の彼方へと押し流してしまうのは、
仕方のないことなのかもしれないが、
決して忘れてはならない尊い命の代償を強いられた250人の犠牲者の御霊を
せめて私たちは思いおこし、伝えていかなければならない。
飛行機墜落事故の再発が無いように……。

 8月12日の朝日新聞は、関連記事の中で次のようなエピソードを掘り起し、記事にしている。
   37年前小学3年生だった美谷島健君は、高校野球が大好きな少年だった。なかでも大阪の強豪
  PL学園にあこがれていた。
   1985年8月12日。甲子園でPL学園を応援するのを楽しみに、ジャンボ機に乗った。
  初めての一人旅。……その機体は墜落した。当時、9歳だった。この年のPL
学園は、
  桑田真澄さんと清原和博さんの「KKコンビ」を擁し、夏の甲子園で優勝。
  事情を知った同校から遺族のもとに選手のサイン色紙ゃ野球帽が届き、健君の棺に納められた。

   37年後の今、御巣鷹の尾根にある健君の墓標は好きだった「ドラえもん」のグッズや
  電車の模型などに加え、いまも、たくさんの野球ボールに囲まれている。


          250人の鎮魂の御霊の安からんことを願う。

  (昨日の風 今日の風№133)                      (2022.8.13記)

 

以下の記事は2年前の墜落事故35年目の夏に書いた記事です。
併せて読んでいただけれは幸甚の至りです。

読書案内「風にそよぐ墓標」
       父と息子の日航機墜落事故
 
             ブックデータ: 集英社2010年8月12日刊 第1刷 門田隆将 著

35年前の8月12日午後6時56分、羽田発伊丹行きの日本空港123便(ボーイング747ジャンボジェット機)が、群馬県上野村御巣鷹の尾根に墜落した。
 乗員乗客524人の内520人が犠牲となった。
 単独機としては、史上最大の事故だった。
 標高1500メートルの尾根筋の急斜面に、樹々をなぎ倒し、ボーイング747はほぼバラバラになり長い帯
 のように残骸をさらし、人の原型をとどめぬほど損壊の激しい遺体も事故現場を埋め尽くしていた。

  灼熱灼熱の太陽にさらさらた愛する者の肉体は、みるみる変質し、異臭を放って腐敗を始めた。日が
 経つにつれ、それは耐えがたきものになった。しかし、家族は、肉親を家に連れて帰るために、その中
 で気も狂わんばかりの身元確認作業をおこなった。

 「風にそよぐ墓標」冒頭に描写された、事故現場の状況であ。(この記事を書くにあたり、他のルポル
 タージュにも目を通してみたが、あまりにも悲惨な現場の状況を一切の感情を抑えて、燦燦たる状況を
 描写したものもあったが、ここではそれが目的ではないので、紹介を控えた)

  息子、娘、夫、妻、父親、母親……何の予兆もなく突然、愛するものを奪われた家族たちは、うろた
 え、動揺し、泣き叫び、茫然となった。(略)
 極限の哀しみの中に放り込まれた時、人はどんな行動に出て、どうその絶望を克服していくのか、また
 哀しみの「時」というのは、いつまでその針を刻み続けるのだろうか。

「はじめに」で述べた著者の言葉が、このルポルタージュの目的だ。
   今から25年前に、遺族に会い、書かれた本である。
   事故に遭い、それぞれの哀しみを背負った遺族たちが、重い口を開いて語り始めた。
   心の整理が進み、あの時の哀しみを語るには、25年という長い時間が必要だったのだろう。
   哀しみに沈み、成す術もなく暮らした最初の10年。
   次の10年は生活の立て直しと、生きる気力をを立て直すための10年。
   時が流れ、遺族たちの子供たちが成長し、子供を亡くした親は年を重ね、
   苦労の重みで白髪も増えてきた。
   何年たとうとも、「哀しみ」は浄化されることはないだろう。
   あるとすれば、時の流れの中で、鮮烈な記憶が少しずつ遠ざかっていくことだろう。

  「風にそよぐ墓標」は、ブックデーターにも示しましたが、今から10年前の2010年、
つまり、事故から25年目に書かれたノンフィクションです。
6人の遺族に焦点を当て、辛い25年を振りかえり、
その辛さを乗り越えていく「強さ」を描いていく著者の優しい思いがある。

 第一章「風にそよぐ墓標」
   舘寛敬(ひろゆき)さんが、御巣鷹山で父を亡くしたのは15歳の夏だった。
   あれから25年。40歳になり、結婚もした。
   だが、この25年間8月が近づいてくると、きまって悪夢にうなされる。
   あの日、御巣鷹の事故現場に向かうバスの中で、日航の職員に食ってかかった。
   「(パパを)返してください! 今すぐ!」
           夜になると、弁当が運び込まれてきたが、母は相変わらず食べようとしない。
   「食べんと死ぬぞ」15歳の少年・舘寛敬は母を諭すように告げる。
   「パパは食べてないやん。私もいらん」
   常軌を喪った母に15歳の少年は、無理に即席のうどんを食べさせた。

   現場に行きたい、現場に行ったら、あの人に会える……
   現実と夢や妄想の区別が、
   この時の須美子には、つかなくなっていたのかもしれないと著者は記録する。

   事故現場へつづく道は、森と藪を切り開いて作られていた。
   今でこそ、麓の駐車場から30~40分で到着できる道が整備されているが、
   上野村側のルートは閉鎖され、
   当時は自衛隊や地元の消防隊員が切り開いた岨道を行くしかなかった。

          歩いても歩いても先が見えない道。
     森や林を縫うようにして歩く。いったい、どれだけ歩けば事故現場にたどり
つけるのか。
     突然、道が開け、想像もしなかった景色が飛び込んできた。
     目の前に広がるお花畑。
     憔悴してぼろぼろになった母。
    「ああ、きれい…」「親父は(死ぬ)直前にこのきれいな景色が見れたんだ…」
          そう思うことで、一瞬哀しみで一杯になった心が癒された。

     もう引き返さなければ部分遺体の公開に間に合わない。
           「親父、行きたいけど、これ以上は行けない……」
   背負っていったリュックから紙を出し、須美子は次のように書いた。
   舘 征夫 昭和十七年九月十三日生
   ここはとってもお花のきれいな所です。
   やすらかにねむって下さい。
   もう苦しくありません
    それを、木の枝に差し込み、持って行った果物をその前に置いた。
    須美子はその「紙の墓標」に手を合わせ、
    寛敬は詩文の靴の靴ひもを抜き出し、紙の前に置いた。
    「親父、ここまでしか来れなかったよ。もう引き返さないといけない。ごめんね」
    四十歳になった寛敬は、この時のことをはっきり記憶しているという。

    母子が残したお花畑の「紙の墓標」は、ここを通りかかった新聞記者の手によって、
    八月十八日、読売新聞朝刊に報じられた。
    墜落現場に通じる三国峠近くの登山口から約一キロ歩いた急斜面のお花畑に十七日、
    犠牲者の家族らが供えた「紙の墓標」が建てられた。ヤマユリ、アザミ、リンドウなどに囲まれ 
    た、はがきほどの大きさの白い墓標は吹き渡る風に静かに揺れていた。
    記事は写真入りで紹介された。

    この後、親子にとっては、損傷が激しくぼろぼろに千切れた遺体の確認作業が待っていた。
    哀しく、辛い地獄を彷徨うような作業を、母に代わって十五歳の少年は果敢に挑むのだが、
    私の拙い表現力では、とても紹介できるものではない。
    墜落事故から25年を経た時間の経過が、その過酷な作業を母子は丁寧に語り、筆者はそれを
    感情を抑えて冷静に受け止め、淡々と文章にしている。

    この章の最後に筆者は次のように書いて章を閉じる。
    寛敬が、とてつもなく大きかった父という存在を客観的に捉えることができるまでには、四半世
    紀という気の遠くなるような歳月が必要だったのである。と。

    PS: 「風にそよぐ墓標」を紹介するにあたり、
      六章に分けられた家族の「父と子」の物語を全部紹介するつもりだったが、
      それは非常辛い作業だった。
      結局、表題にもなっている第一章「風にそよぐ墓標」のみの紹介になってしまった。
      このノンフィクションに流れているものは、
      「どんなに辛く、悲しい体験をしても、人間は時間の経過とともに立ち直っていく強い力を
      持っている」という著者の心なのかもしれない。
      この本の扉の裏に引用された明治の文豪・田山花袋の詞を引用して、
      このブログを閉じます。

      絶望と悲哀と寂寞とに堪へ得らるるごとき勇者たれ
                    運命に従ふものを勇者といふ
                               田山花袋
     この本の内容にふさわしい含蓄のある詞である。
     日航機墜落35年目の夏、コロナ禍の影響や高齢で御巣鷹山登山に参加できなかった
     遺族も多いと聞きます。
     尾根は、1500メートルを超える急斜面にある。登山道の整備が進んだとはいえ、
     急な階段がいくつもあり、入口の駐車場から40分ほどかかる険しい道だ。
     35年の時の経過は、人々の記憶を少しずつ忘却の彼方へと押しやってしまう。
     私たちは、人知れず風にそよいでいた「紙の墓標」のことを、忘れてはいけない。
     お花畑を渡る高原の風が、今日も「紙の墓標」を人知れず揺らしているのでしょうか……

     全ての遺族の方々に奉げたい言葉である。

    (読書紹介№153)         (2020.08.17記)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書案内「顔」松本清張著

2022-08-07 06:30:00 | 読書案内

読書案内「顔」松本清張著

 (ブックデーター:新潮文庫初期ミステリー傑作集収録2022.8刊 「殺意」「反射」「市長死す」「張り込み」「声」「共犯者」「顔」「なぜ星図が開いていたか」を収録)
 清張ほど同一の小説が異なる出版社から刊行されている作家も少ない。
たとえば今回取り上げる「顔」は、わたしの蔵書の中に本書を含めて4冊ある。

 傑作短編集5「張り込み」収録(新潮文庫)      1957年刊 
 日本推理作家協会賞受賞作全集9「顔」 (双葉文庫) 1995年刊
    顔・白い闇 (角川文庫)               2003年刊
    初期ミステリー傑作集なぜ「星図」が開いていたか   2022年刊
                                                (新潮文庫) 松本清張歿後30年記念出版

  ミステリーの世界では、「清張以前と以後」という言葉に象徴されるように、
  清張以前は、本格ミステリーとしてトリックを重視するミステリーが主体であ
  った。
  清張は事件または出来事を、従来の探偵小説や推理小説の堅固な「密室」から、
  より広く複雑な「社会」へと連れ出した。
  従来の推理小説が謎解きを重視していたのに対し清張は殺人に至る動機を重視し、
  日常の中で生活する人々の生活を描くことに視点を置いた。
  「社会派推理小説」といわれるゆえんだ。

  一見穏やかな日常から時折立ち上がる『なぜだろう、なぜだろう』という疑問を入
  口に、人と社会と国家の暗く危うい秘密と、それを隠蔽する様々な力を少しずつ暴
  露し、告発し続けた。(文芸評論家・高橋敏夫)

  「点と線」「眼の壁」「ゼロの焦点」「黒い画集」「霧の旗」「球形の荒野」「砂の器」など、私は
  リアルタイムで清張作品を読み漁り、そして、今でも時々読み返してみる。
  蛇足ですが、新婚旅行は金沢・能登半島を選びました。
  「ゼロの焦点」の舞台となった地を巡る旅をした、少し変わった新婚旅行でした。

「顔」
  成功と名声への階段は、同時に破滅へと彼を導く階段だった。
  この相反するテーマが面白く、多くの読者や映画人に好まれたのだろう。
  日常のチョットしたしぐさが、伏線となって思わぬ破滅を招くことになる。

        ある劇団員に、映画会社からオファーがきた。
   映画に出演し、名前が売れれば俳優への道が開け、確かな地位を気付くことができる。
   何度目かのオファーを経験するうちに、彼の隠れた魅力は、監督によって引き出され、
   彼はスターへの階段を上りはじめる。
   だが、名前が売れるにつれて、彼は不安と破滅への恐れを味わうことになる。
   いったい彼が抱えている「不安と破滅」の原因は何なのだろう。
   彼の日記にはその心境を次のように書かれていた。

   ぼくは幸運と破滅に近づいているようだ。
   ぼくの場合は、たいへんな仕合せが、絶望の上に揺れている。
   ……小さな疵から化膿して病菌が侵攻するように、ぼくを苦しめた。

   ぼくの幸運が、あんな下らぬ女を殺したことで滅茶苦茶になることへの恐れが、
   俳優として「顔」が売れれば、人気のバロメーターが上がると同時に、
   破滅へのバロメーターも上がってくることに、
   彼はたった一人の目撃者を消してしまおうと、ある行動に出る。
   忌まわしい愛人殺しの過去を消すための行動が、
   彼を奈落の底に落としてしまう陥穽(かんせい)になろうとは……

   破滅への扉は、不幸にも彼の主演した映画に現れていた。
   
   映画は彼の顔をスクリーン一杯に大写しにする。
     窓をじっと見ている彼の横顔。
     煙草の煙がうすく舞って、彼の眼に滲みる。
     彼は眼を細めて眉根に皺を寄せる。
     その表情。顔!
   彼が最も得意とする「顔」の表情。
   この映画の観客の中に、9年前に目撃者となった男がいた。
   男に9年前の記憶がよみがえってきた。

      「名声と破滅」の対比が面白く、主人公の心の焦りをよく表現している。
      また、潜在光景など、過去に見た景色が既視感の中からよみがえる過程が、
      事件解決の糸口になることなど、当時としては斬新なキーワードとして
      用いられている。
      
   
(読書案内№185)      (2022.8.6記)

   

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祭囃子が聞こえる 騒音 雑音 妙音

2022-07-31 06:30:00 | つれづれに……

祭囃子が聞こえる 騒音 雑音 妙音
  
祭囃子が聞こえてくる。
   午後5時から8時まで、7月末の祇園祭りのための練習が、
   本番2週間前頃から各町内ごとに行なわれる。
   夏休みに入ったばかりの子どもたちが会所に集まり、
   大人たちに混じって、子どもたちも横笛、鉦、太鼓練習に励む。
         
  多くの町内が、「お囃子」のメンバーが確保できず、
  太鼓とカセットに吹き込んだテープを流して場を凌いでいる。
  私の町内はお囃子も太鼓も本物で、毎年練習を重ねて、本番でお披露目をしている。
  事件が起きた。
  近所のお年寄りが、包丁を片手に練習場に来て、「うるせー」と威嚇してきた。
  幸い、周りに居た若い衆のはからいで事なきを得た。

  祭りは、郷土芸能の一つであり、五穀豊穣を願う「祇園祭り」は、町の大イベントである。
  しかし、こういうものにさえ、「うるさい」とクレームをつける人がいる。


  守り育てて来た地域文化は、そこで生き、
  生活している人たちが長い時間をかけて育て、守って来た文化である。
  寄付はしない、打ち合わせにも出てこない。
  でも、自分の思い通りにならないと文句を言う。
  離れて暮らしている孫たちが来れば、率先して孫たちを祭りに参加させ、
  握り飯弁当を貰い、お土産の花火セットを貰っていく。

  あなたは寄付もしないし、地域の打ち合わせにも出てこないから
  弁当もお土産花火もありません、なんて野暮なことはことはいわない。

  ある人にとっては、祭囃子の笛の音や鉦、太鼓の音がうるさく聞こえるらしい。
  郷愁を呼び起こすような囃子も、雑音や騒音に聞こえてしまう。

  地域社会の中で起こるクレームには、我がままにしか思えないことが沢山ある。
  学校部活のテニスの練習の「かけ声」がうるさいから、かけ声を止めさせろ。
  これで聞き入れられなければ、「教育委員会」に連絡すると脅しともとれる言動に、
  学校側は、「沈黙の練習」を生徒に強いることになる。
  長い歴史の中で育んできた部活にクレームをつける人、
  それを了承してしまう弱腰学校運営。

  道路のキワに植えてある桜の木の花びらが風に舞い、
  民家の屋根に落ち問いが詰まるから桜の木の枝はらいをしろ。

  街のはずれにある大きなしだれ柳は、地域のシンボルであり、
  小さな村社があり、枝垂れ桜やサルスベリの木などがあり、
  縁日には屋台が出る。
  この地に新興住宅地ができ、新しい住人が増えた。
  秋になれば落ち葉が落ち、新しい家の屋根に落ち場が落ち、雨どいを詰まらせる。
  だから、木を切って欲しいと、自治会にクレームをつける。

  保育園建設反対、施設建設反対。
  総論賛成、しかし各論反対という意見が多い。
  なんでこの地域に…と虫のいい自分勝手な意見が多いようだ。

  朝日新聞7/20の記事にこんな話が紹介されている。
     作家の宮本輝さんが軽井沢に別荘を買った。避暑地として有名なここには、
     文化人の別荘が多く、静かな林の中に無点在する別荘があり、静かな書斎で
     仕事ができると宮本氏は思っていたが、窓の外に広がる林は、野鳥の生息地
     でもあり、野鳥が巣をつくり、子供が生まれると餌を求めて泣く泣き声が癇
     に障り、気が散って小説が書けない。かんしゃくを起こした氏は家族に八つ
     当たりする。
      鳥のことで怒鳴り散らす息子に、氏の母は次のように言ったという。
     「鳥が気になって書かれへんのやったら、小説家なんてやめてしまいなはれ」
     と。
     この随筆を紹介した記者は、コラムの最後を次のように結んでいる。
     神経を逆なでするような音も、どう感じるかは聞く人の意思や気分によって
     大きく変わる。
     雑音と妙音の間を揺れ動く音に、人は常に試されているようにも思えてくる。

     最後の一行は自分への戒めとして記憶にとどめておこう。

       (つれづれに……心もよう№130)         (2022.7.31記)
    

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

逝きて還らぬ人を詠う ⑦ 「ありがとう」を言うと最後になりそうで……

2022-07-24 06:30:00 | 人生を謳う

逝きて還らぬ人を詠う ⑦ 「ありがとう」を言うと最後になりそうで……

      『大切な人が逝ってしまう。
    
人の世の宿命とは言え、余りに辛い体験はいつまでたっても心が癒されない。       
    悲しいことではあるけれど、
人間(ひと)はいつかはこの試練を乗り越えて生きていかな
 ければならない。
死は予測された時間の中をゆっくり訪れる場合もあり、突然訪れる
 場合もある。
どちらの場合も、無常観と切り離すことはできない』

〇 聞こえるかお前の好きなあの頃の軽いロックが出棺の曲
                         …… (神戸市) 松本淳一 朝日歌壇2021

      最期のお別れだ。お前と俺が今でも共有している軽いロックを聞きながら送りだす葬送曲だ。
      出棺の時は、なんの憂いもなく、ただこの曲ももう一緒に聴くとはないのだと思うと寂しさがこみあげて
      くる。「あの頃」をなつかしく思い出している作者がいる。


〇 
花を待つ人亡くて花咲きにけり
              ……(横浜市) 生田康夫 朝日俳壇 2021.04.11

      主のいなくなった朽ち果てていく廃屋の庭に今年も花が咲いた。花の咲くのを待っている人もいな
      いのに花は咲いている。この句を詠んで、今ではあまり使われなくなってしまった『苫屋』(とまや)
      という言葉を思いだしました。屋根を菅(すげ)や萱(かや)などで葺いた古い民家という意味かと思いますが、
      『われは海の子』という歌を思い出しました。
      われは海の子 白波の   さわぐいそ辺の松原に
      煙たなびく苫屋こそ    わがなつかしき 住み家なれ

       今と違って地方文化が生き生きと営まれていたころに、海を故郷として真っ黒に日焼けした子どもたちが
       パンツ一枚になって遊ぶ姿が描かれています。「煙くたなびく」というところに当時の生活の実感がこも
       っています。
       この句は、過疎化で年々さびれていく苫屋に咲く花に思いを託し、さびれていく過疎の村の風景を謳って
       いるのでしょう。また、『年々再々花相似たり、年々再々人同じからず』と昔の中国の人が詠んだ漢詩を
       思い出し、変わりのない自然の営みと、人の世のはかなく移りやすいことなど、想像の翼を広げました。

 

〇 「ありがとう」を言うと最後になりそうで言えないままに父を看取りぬ 
                       …
… (前橋市) 町田 香 朝日歌壇 2021.04.25
       ついに言えなかった父への最期の言葉。これを言ったら父がすぐに逝ってしまうようで言えなかった
       「ありがとう」。「あの時、言えばよかった」と悔恨の気持ちがわき上がってくる。
       「ありがとうって言えなくて、父さんごめんね」という声が聞こえてくる。


〇 
十年は昔にあらず慰めは未来にならず子の墓洗ふ 
                    
…… (盛岡市) 及川三治 朝日歌壇 2021.04.04
       子を亡くした親の気持ちが、『墓を洗う」という最期の言葉に表現されています。
       子との想い出が昨日のことのように浮かんでくる。
       やさしい慰めの言葉をかけられても、いやされることもなく、
       生きるすべを奪われたような寂寥感が胸のうちを漂う。
       墓を洗いながら子を失った現実を噛みしめる。
       わたしの母は二女をお産で母子ともに亡くし、残された3歳の子を前にして、
       「私が代わってあげるから、戻ってきておくれ」ともの言わぬ娘に何度も何度もささやいていた。

〇 徘徊の妻を語りて涙ぐむ友を励ます妻なしわれは 
                    
…… (小美玉市) 津嶋 修 朝日歌壇 2021.02.28
       男どうしの友情が感じられる一首です。日々子どもに還っていく妻。やさしく、美しかった妻が
       少しづつ壊れていくのを見るのがつらいと涙ぐむ友人を励ましながら、
       「それでも、生きていてくれるだけでいい……」と、妻を亡くした哀しみを新たにする。


〇 知らなくていいことまでも知りそうで父の遺品は手つかずのまま 
                     …… (相馬市) 根岸浩一 朝日歌壇 2021.02.28
       喪の作業は逝ってしまった人を偲び、残された人の悲しみを癒していくプロセスです。
       遺品整理は故人を偲び、個人の在りし日の姿を思い出す作業ですが、悲しくつらい作業になることもあ
       り、整理した遺品を形見分けするにも時間がかかる場合もあります。腕時計、眼鏡、財布などを見れば
       在りし日の元気な姿が蘇ってきます。一つひとつに思い出があり、時によっては個人の知らなくてもいい
       秘密まで知るようなことになります。
       大切な人を亡くし、情緒の不安定な時期が訪れます。孤独で、とても辛い時期です。
       同時に「どうして私を置いて逝ってしまったの」「どうして私だけが…」と相手を攻める、
       自分を責める時期が同時進行的に起きてくるようです。そして最終的には、死を「受容」できる段階に至
       ります。個人差はあるものの、人生の定離を認め人生の終わりを静かに見つめることができて、
       心に平穏が訪れる時が訪れます。と、書いてしまうと何だか味も素っ気もない文章になってしまいます。
       「グリーフケア」のセオリーはセオリーとして、悲しみを克服し、立ち直るには個人差があり、
       いつになったら悲しみが癒されるのかはわかりません。
       残された遺品を見て、故人に思いを馳せることが、故人からの大切な贈りものなのでしょう。

       

           (人生を謳う)          (2022.07.23記)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニュースの声(15)  狂気の凶弾に倒れた安倍さん

2022-07-15 06:30:00 | ニュースの声

ニュースの声(15)  狂気の凶弾に倒れた安倍さん
  安倍元首相撃たれ死亡む  (朝日新聞7/9一面トップ)
   自民党をはじめ、警護に当たった警察関係者、突然の凶事に号外を出し、
   唖然としたのは関係者だけではない。
   テレビのテロップを見て一瞬目を疑い、「まさか」という気持ちがやがて数時間後に
   流れたテロップは、「心肺停止」の後流れた「死亡」の文字だった。
   信じられない思いと同時に、泡立つような鳥肌が沸き立ち、私はオロオロした。
   
   朝日は一面に社説を張った。特別の措置に事件の重大性と驚きが厳しい言葉で綴られていた。
   銃弾が打ち砕いたのは民主主義の根幹である。
   前身の怒りをもって、この凶行を非難する。
   ……戦後日本の民主政治へのゆがんだ挑戦であり、決して許すことはできない。
   その罪の危険さ、深刻さを直視しなければならない。
   民主主義をなんとしても立て直す。決して手放さない。
   その覚悟を一人ひとりが固める時である。
         感情を抑え、冷静に伝えるべき内容を吟味し、主張し、ときには啓蒙し
         世論をリードしなければならないジャーナリストとしての理性が揺らぎ
         部分的には感情過多な社説になっている。
         衝撃の深さを物語っている。
   天声人語も、抑制されたてはいるが激しい言葉を紡ぎ出している。
   世を震撼させる事件だが、(テロは)前代未聞というわけではない。
   ……まさか現代の日本で、と書いたが、政治家への暴挙は残念ながら時折
   起きている
   ……どんな政治であっても、それをただすのは言論、そして民主主義の手続
   きである。
         道半ばにして倒された戦前、戦後の政治家の事例をあげながら、
         「暴力の卑劣さは、何度非難しても避難し足りることはない」と
         天声人語氏の激しい息遣いを時々のぞかせる。
         だからこそ私たちは明治半ばの自由民権運動で「言論の自由」や
         「普通選挙制」を獲得し育ててきたのだ。
         
  どんなに立派な法律や条文を作ろうとも、社会は変容しその中で生きている私たちの
  考え方や行動も変わっていく。人間にとって基本的な規範は変わらなくても、いつの
  世にも規範から逸脱してしまう人間や社会的規範から落ちこぼれ、底辺を漂い鬱屈し
  た生活をせざる得ない人間は存在する。
   ただ近年は、動機の曖昧な事件や自分の不遇を他者に転化してしまう事件が多くみ
  られる。どちらの事件も短絡的で、無責任極まりなく自己の正当性を主張するのみで、
  倫理観の欠片も持ち合わせないような人物が存在する。
   例をあげれば、「大阪キタ新地クリニック放火殺人事件」(令和3(2021)年12月17日)
  の谷本盛雄被告や、「京都アニメーション放火殺人事件」(令和元(2019)年7月18日)の青
  葉真司被告の事件などが思いおこされる。安部元首相を襲った事件も短絡的で無節操な、
  自分の不遇を他者に転嫁し、手製の銃を作り負のエネルギーを一気に特定の人にむけてし
  まった事件なのではないか。
   
   歴史に残るようなこの襲撃事件で、無節操な暴漢によって、有為な人材が失われたとす
  れば、倒れた本人の無念さは計りがたく、遺族の方々の悲しみは深く時の流れを経ても癒
  されないだろう。
   
         前回の「 ニュースの声(14)」で次回「ニューの声(15)」では、招待者に「長年にわたりふ
  るまい酒」を提供したのは誰なのかを掲載することを約束した。
  しかし、安倍元首相は凶弾に倒れてしまった。
   バイタリティに富んだ政治活動は評価され、在任中は政治家としての資質を充分に発揮し
  た安倍氏の死を惜しむ声は日本ならず世界の国々や地域からも聞こえてくる。
   「モリカケ問題」は安倍氏の大きな汚点として残ってしまった。同様に「桜を見る会」に
  於いても政治資金規正法違反と公職選挙法違反の疑いがもたれていた。このことを私は私な
  りに糾弾したかったのだが、凶弾に倒れた安倍氏に、死者に鞭打つような行為は今の私には
  できない。従って「桜を見る会」のシリーズは前回の「ニュースの声(14)」で幕を閉じるこ
  とにしました。
   「余人をもって代えがたい」政治家の一人として、私は元総理の安倍氏が大好きだった。
  今はただ、安らかに眠れと祈り手を合わせるばかりである。
 
             (ニュースの声15)       (2022.7.14記)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニュースの声(14)  安倍晋三「桜を見る会前夜祭」②ふるまい酒 

2022-07-08 06:30:00 | ニュースの声

ニュースの声(14)  
  安倍晋三「桜を見る会前夜祭」②ふるまい酒
                          (2022.5.29号 赤旗日曜版)
     前回の会費補てん問題に続く赤旗日曜版のスクープ記事だ。
     以下、ヘッドラインから引用する。
      「桜を見る会」前夜祭をめぐる新たな重大疑惑が浮上しました。
      安倍晋三・元首相側が会費を上回る費用を補てんしただけでなく、
      会場に大量の酒を持ち込み、有権者に提供していました。安部氏の
      秘書の供述調書によると、大量の酒の持ち込みは、公職選挙法違反
      の指摘を怖れて、補てん額を抑えるためのいわば、『隠蔽工作』。
      しかも、違法寄付の疑いもーー。
           ※ 「費用補てん問題」は前回ニュースの声14を参照にしてください。
     「安倍晋三後援会 桜を見る会前夜祭」の会場となった某高級ホテルの職員が作成
    した「宴会ファイル」には、酒の種類や本数まで明記されています。

     安部氏側が会場に持ち込んだ酒と本数
      2017年             2018年              2019年
       ウイスキー30本         
  ビール        80本           ビール500ml 20本
       赤ワイン 24本           ウイスキー30本            ウイスキー  42本
       白ワイン 24本           赤ワイン 24本          赤ワイン   24本
            焼酎   12本           白ワイン 24本                白ワイン   24本
                         焼酎720ml 12本          焼酎     12本
     これまでに判明しているホテルへの補てん額
      2017年              2018年              2019年
       186万860円            144万9700円           250万7732円

            ※ 会費は安倍氏の地元後援者らを対象に、一人5000円を参加者から徴収したが、
              不足分は安部氏側が補てんしていた。
              補てん額など政治資金市有志報告書に記載がないということで、
              安倍氏の公設第一秘書は政治資金規正法違反で、略式起訴された。
               一方選挙区内の有権者への寄付を禁じた公職選挙法違反容疑について、
              「参加者に寄付を受けた認識がなかった」などとして不起訴処分(東京地検)。
              不起訴処分となった安部氏は検察審査会で「不起訴不当」の議決を受ける。
              つまり、わかりやすく言へば、「安倍氏への不起訴処分」は、
              納得がいかないということなのだ。
               だが、21年12月に嫌疑不十分で、再び不起訴処分になった。
              「持ち込みふるまい酒」であっても、「参加者に寄付を受けた認識がな」ければ、
              その是非は問われないことになり、なんともすっきりしない事件の顛末である。
    秘書供述によれば、費用補てんが公選法に違反する恐れがあると認識し、
   その補てん額を抑えるために大量の酒を持ち込んだという。
   これは隠蔽工作で、悪質な行為だ。
    有権者への利益供与は、
     会費不足分の補てんだけでなく、酒の提供があり、該当する支出の記載もない。
    政治資金規正法違反と公職選挙法違反に抵触するのではないか。
           会費収入で不足する支払い分を補てんするのは有権者への寄付になり、
            
公選法違反になるということを秘書は認識していた。これを検察が公選
             法違反で起訴せず、嫌疑不十分で不起訴にしたのはふとうなしょぶんで
             ある。企業からの酒の無償提供を受けたのは政治資金規正法違反になる
             ので収支報告書にも記載しなかったのではないか。
                               (神戸学院大学教授 上脇博之)
  ホテルが作成していた「宴会ファイル」には、
 酒の本数と共に「〇〇様より持ち込み」として電話番号が付記されていた。

 
『持ち込みふるまい酒』はどこから持ってきたのか。
                                   (つづく)

(ニュースの目№14)       (2022.7.7記)


       

   

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニュースの声(13)  安倍晋三「桜を見る会前夜祭」① 

2022-06-30 06:30:00 | ニュースの声

ニュースの声(13) 安倍晋三「桜を見る会前夜祭」  
    日曜版がスクープした、安倍晋三後援会主催の「桜を見る会前夜祭」にサントリーが無償の
      酒を提供した問題で、上脇博之教授(神戸学院大学)が安倍元首相や元公設第一秘書ら4人を、
     15日付けで刑事告発した。
     告発の内容は次の通り。
      酒の無償提供は寄付にあたるのに、
      政治資金収支報告書に記載したなかった政治資金規正法違反(不記載)の疑いです。

       「桜を見る会前夜祭」の疑惑を過去にさかのぼって調べてみた。

   ① 会費補てん問題

      安倍氏側、「桜を見る会」前夜祭(夕食会)に5年で916万円負担 
                      (朝日新聞デジタル2020.11.25)
          夕食会は、安倍氏の公設第1秘書が代表を務める「安倍晋三後援会」が主催。
          地元支援者らを招いて、13~19年に年1回、都内のホテルで1人5千円の会費制で開
          いた。
            安部氏側が2019年までの5年間に、費用の不足分として総額約916万円を負担
           していた。
           しかし、この不足分補てんの記載が政治資金収支報告書には記載されていない。
           これは明らかに政治資金規正法違反(不記載)にあたる。同法違反(不記載)罪の
           時効(5年)なので13年と14年時効を迎えているので、違反不記載が問われるの
           は19年までの5年間になる。
           公表されている5年間の政治資金政治報告書には、
           前夜祭(夕食会)の支出に関する記載はなかった。
            記載のないことを安倍氏は次のように国会などで説明している。
           「(夕食会の費用について)ホテル側が設定した額を参加者が支払った」と安倍
                       氏側の負担を否定。「事務所や後援会の収入、支出は一切ない」と述べ、収支
             報告書の記載も不要とした。明細書についてはホテルから発行がなかったと説
                                          明した。
                   それでは、次のような報道をどのように説明するのか。

    夕食会の費用総額と、会費・補塡(ほてん)額の内訳

            費用総額   会費     安倍氏側の補塡額

        2015年  427万円  270万円  157万円

         16年  407万円  229万円  177万円

         17年  427万円  241万円  186万円

         18年  448万円  304万円  145万円

         19年  634万円  384万円  251万円

          合計 2343万円 1428万円  916万円
   
会費・補てん問題を次のように締めくくる。(読売新聞2021.8.1)
  
   
この問題では、安倍氏の元公設第1秘書が後援会の政治資金収支報告書に、
  補てん額などの収支を記載しなかったという政治資金規正法違反で略式起訴され、
      100万円の罰金刑を受けている。
  一方、安倍氏は嫌疑不十分で不起訴になり、市民団体などが審査を申し立てていた。
  議決を受け、安倍氏は「当局の対応を静かに見守りたい」と述べた。
  今後の再捜査にも、全面的に協力することが不可欠だ。

   安倍氏は当初、国会で「事務所の関与はない」「補填はしていない」などと述べていた。
  事実と異なる答弁は、2019年11月から20年3月までに計118回に上ったという。
  安倍氏は昨年12月、答弁の誤りを認めて謝罪した。
        『会費・補てん問題』も発端は赤旗日曜のスクープ記事から始まった。

       『会費・補てん問題』は、安倍氏の二枚舌、三枚舌でなんとなくモヤモヤの五里霧中の
   永田町御殿の闇のなかに消えていきそうな気配である。
    冒頭で示したように、
    「桜を見る会前夜祭」の第二のスクープ「サントリーによる無償の酒の提供」について
    次回は具体的に述べてみたい。
                            (つづく)

   (ニュースの声№13)       (2022.6.29記)  

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする