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雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

輸入依存の食料自給率38% ①自給率低下の現状

2023-10-22 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

輸入依存の食料自給率38%
 ① 自給率低下の現状

 「日本は資源がないので、外国から資源(材料))を輸入し、
それを加工し外国へ輸入する。こういう貿易を加工貿易というんだ」
遥か昔、今から六十数年前に私は小学校の社会の授業で教わりました。

大東亜戦争の愚かしい夢を敗戦という現実が訪れ、戦後復興を合言葉に
みんなが必死に働いた。
終戦直後、生産手段を持たない人たちは、食料確保に汲々した時代があった。
闇市が軒を並べ、闇物資が横行し、着物などを食料と交換した食料難時代が続いた。
コメは食糧管理法で管理され、配給制で自由には購入できず、
ヤミ屋が運ぶヤミ米購入しなければ多くの人は、食糧危機を乗り越えることができなかった。

やがて、食料危機がなくなると経済は安定し、
政府や人々の関心は、働いてお金を稼ぎ経済的な安定を求めるようになります。
社会の変容に伴う政策の転換及び人々の意識の変化は、
第一次産業の農業、林業、漁業、鉱業などの自然界に携わる産業の衰退を速めていくようになった。

 1965(昭和40)年、73%をピークに、2000年度以降は、40%前後で低迷しています。
38%というのは、2019年の実績で、2018年には過去最低の37%を記録しています。
 (農林水産省調べ)

 政府は、2030年度に食料自給率を45%まで引き上げるという目標を掲げましたが、
達成には程遠い状況です。

 コメや野菜については、自給率が高いが、大豆、小麦などの自給率が低いために全体の自給率を引き下げています。

 畜産物の自給率が低いのには訳があります。
国内で育てられた牛や鶏でも食べるエサが海外から輸入したものであれば、
その分は自給したとみなされません。
何故なのでしょう。
例えば、鶏の卵は96%が国産ですが、鶏のエサとなるトウモロコシなどは海外に依存しているため、12%まで下がってしまいます。同じように牛肉や豚肉などもその飼料のほとんどを外国産に頼っています。
 気候の変動で不作になったり、最近のように戦争によって輸入の道が閉ざされてしまえば、飼料の価格は高騰し、生産価格の高騰につながってしまうので、自給とみなすことができないのです。
大豆も小麦もトウモロコシも経済の行く末を確保する重要な資源なのです。

 自給率のアンバランスは日本の農業政策の失敗ではないか。

農地面積の減少
 1961(昭和36)年から2021年までに農地の減少面積は、
 東京都の総面積の7.9倍にもなります。
耕作放棄地の拡大
 東京都と大阪府を合わせた面積よりも多いと言われています。
農業従事者の減少と高齢化
 この20年間で約3分の1に減少。
 しかも、農業就業者の7割が65歳以上の高齢者です。さらに高齢化が進めば
 耕作放棄地になるか、委託農地になり、農業の先行きは不透明になります。

 食生活の多様化により、畜産物や加工食品などの消費が伸びる一方で、
コメなどの自給率の高い品目の消費が減っているため、
自給率のパーセンテージが低くなってしまいます。

 何故こんなことになってしまったのか。
                                                                                                    (つづく)


   (昨日の風 今日の風№137)      (2023.10.20記)

 

 

 

 

 

 

 

 

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読書案内「帰艦セズ」吉村 昭著 ②新しい事実 

2023-10-14 06:30:00 | 読書案内

読書案内「帰艦セズ」吉村 昭著 ②新しい事実 
 調査が進むにつれ次のことが分かった。
乗船していた軍艦は「阿武隈」で、事件当時北海道小樽港に碇泊。
記録は「昭和十九年七月二十二日〇〇四五ヨリ七月二十三日〇六一五マデ」の上陸許可を申請し、
下船を認められる。 

成瀬機関兵は旅館に一泊し翌早朝帰艦するため旅館を出たが、

官給品の弁当箱を忘れたことに気付き、狂ったように旅館を探し回ったのに違いない。帰艦時刻が迫り、商店の者に懇願して自転車を借り、桟橋に向かってペダルを踏んだ。館に戻ったかれは、弁当箱を持たずに帰ったことを報告、激しく叱責されて官紛失の、罪の重大さを知り、再び上陸した。が、それを探すことができず、そまま桟橋に足を向けることをしなかった。

 調査員の橋爪は、官品の弁当箱を紛失したまま帰還した場合の想像される過酷な制裁と処罰に恐怖を抱き、帰艦の気持ちもすっかり萎えてしまったのだろう、と想像する。
兵員死亡報告書には『死因………自殺セルモノト認ム』とある。

また、「変死状態ノ概要」によると、
「小樽港碇泊中ノ軍艦阿武隈ヨリ逃走 前記ノ場所ニ於テ自殺ヲ遂ゲ 其ノ後死体ハ風雪ニ晒サレアリタルモノト推定セラ」るとある。

 出航時間までに帰艦できなかった状況を、公文書は「逃走」と位置づけている。
 遺骨とともに届いた戦死報告は戦死ではなく「飢餓ニヨル衰弱死」とあったから、
 遺族は、機関兵の息子の不可解な死を容認することができずに、戦後三十数年を経てなお、
 調査員の橋爪が電話した時、「生きているのですか?」と、期待に胸躍らしたのだ。

 「飢餓ニヨル衰弱死」が軍艦から逃走し自殺をしたと、兵員死亡報告書は伝える。
 官給品の弁当箱を紛失し、処罰を恐れ逃走した機関兵は小樽市の山中で自殺したことになる。

 「逃亡したあげくに自殺」という不名誉な息子の死に、年老いた母の胸中を思えば、
 隠れていた真実を掘り起こし、遺族に伝えることが果たして良いことなのかどうか。
 週刊誌の記事のように、相手のスキャンダルを暴き、
 個人のプライバシーを白日の下にさらけ出してしまうことに、
 ある種の後ろめたい思いをするに違いない。
 さらに、「有名人にプライバシーはない」などと言う。
 ジャーナリストである前に、人間であれ。
 人間として品性を欠くような記事は許されない。
 
  多くの記録文学を上梓してきた吉村氏は、
 個人の秘密を白日の下に晒さなければならなくなった時、
 遺族の承諾を得られず、書いた原稿を反故にしたこともあったに違いない。
 小説とはいえ、不用意に真実を発表すれば、
 関係者の人間関係をぎこちなくし、心の平安を乱すことになってしまう。

  
事実を歪曲するのではなく、事実を冷静に見つめながら
 「優しさ」というスパイスを振りかけることが必要ではないか。
 他人の過去に踏み込むことに
ためらいを覚えるときがあるのは、人として当然なことと思う。
 文章にされた事実は、時には凶器となって対象者の人生を狂わしてしまうこともある。
 事実であれば、何を書いてもよいというわけではない。
 書いたものに責任を持ち、節度を持つことが必要だ。

 官給品である弁当箱を紛失し
たことから、機関兵は乗っていた巡洋艦に戻れず、
「逃亡兵」の烙印を押される。山中に隠れ住み、ひとり飢えて死んだ。
自殺ではない。公文書に残る「餓死ニヨル心臓衰弱死」は、正しかったわけだが、
公文書の裏に隠れた真実を吉村氏は追及し、無残で悲しい事実を追及する。

 調査員橋爪の口を借りて吉村氏は次のように語らせている。

 一人の海軍機関兵の死因を探るため調査をしたが、それは結果的に遺族の悲しみをいやすどころか、新たな苦痛を与えている。三十数年の歳月を経てようやく得られた一人の水兵の死の安らぎを、かき乱してしまったような罪の意識に似たものを感じていた。

 物語の最後。橋爪は機関兵が白骨となって発見された現場を訪れる。
現場は、眼下に港が見下ろせ、海洋の広がりも一望にできる高台にあった。
長い引用になるが最後を締める大切な箇所なので、ネタバレついでに紹介します。

不意に、一つの情景が(橋爪の)胸の中に浮かんだ。
水兵服をつけた若い男が、灌木のかたわらに膝をついて港を見下ろしている。
巡洋艦「阿武隈」が、
煙突から淡い煙を漂わせ、白い航跡を引いて港外に向かって動いてゆく。
彼の胸には、様々な思いが激しく交錯していたのだろう。
弁当箱を見つけることができずこの地にのがれたが、
その間艦にもどろうという思いと、もどれぬという気持ちが入り乱れ、
何度も山を下りかけたに違いない。
 五日間が経過し、彼はこの場で「阿武隈」が出港していくのを見下ろした。
叱責とそれに伴う過酷な制裁を恐れてこの地へ逃れたことを、どのように考えていたのだろうか。

 艦は港外へと向かっていて、すでに戻ることは不可能になった。
かれは、自らが逃亡兵の身となり、
両親をはじめ家族が、軍と警察の厳しい取り調べをうけ、
周囲の侮蔑にみちた眼にかこまれることに恐怖を抱いていたに違いない。
かれは、艦が港を離れ、外洋を遠く去っていくのを、身を震わせながら見送っていたのだろう。


 一切の感情をそぎ落とし、簡単明瞭に事実に基ずいて作成された死亡通知にかくされた、
機関兵の餓死に至る心象を見事に表現している。
物語の最後にふさわしい文章だ。
無味乾燥な死亡通知書から掘り起こされた機関兵の心象と、
調査員橋爪の心象が見事に表現されている。

 さらに、この心象風景は、作者・吉村昭氏の優しさと、節度ある姿勢と一致する。
ノンフィクションや記録文学では、三十数年前に、官給品の弁当箱を紛失して、帰艦のタイミングを逃して、逃亡兵として死んでいった機関兵の白骨が散らばった丘に立つ調査員・橋爪が外洋に広がる港を眼下に見下ろすシーンで幕を引いてもおかしくない。

 読者が最後の文章を読むことによって、「帰艦」できなかった機関兵の悲しみと不幸に感情移入できることを吉村氏は十分に計算している。
これが吉村氏の優しさと、節度である。

 文春文庫版の「帰艦セズ」の本の表紙の写真を見てほしい。
眼下に広がる外洋に向けて、「阿武隈」が出港していく。
高台に立った機関兵が見た光景だ。
機関兵の悲しみと絶望が画面いっぱいに漂っている。
心憎い装丁だ。

 官給品のアルマイトの弁当箱を紛失したために、死んでいく男の悲劇が読者の心をとらえる。
                                       (終わり)
(読書案内№190)    (2023.10.13記)

 

 

 

 

 

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読書案内「帰艦セズ」吉村昭著 ①飢餓ニヨル衰弱死 

2023-10-07 06:30:00 | 読書案内

読書案内「帰艦セズ」吉村昭著
       ブックデータ: 文春文庫 2011.7第三刷 短編集 
                      「帰艦セズ」の初出掲載誌 新潮 昭和61年1月号
   
戦争で息子が戦死した。届いた箱の中には石が一つ入っていた。
   お国の為に戦い、英霊として靖国神社に祀られる。
   大義の為に命を捧げざるを得なかった人の死に対して、
   赤紙一枚で、個人の事情などまったく勘案することなく、
   強制的に兵役を課せられた人の無念さを思えば、
   なんと軽々しい戦死の扱いか。
   木箱一つを送り付けられて、
   最愛の夫や息子を戦死させてしまった遺族の後悔は計り知れない。
   どのような状況で戦死したのか、
   遺族としてはどんな些細なことでもいいから戦死に関する情報を知りたいと思うはずだ。
   「帰艦セズ」は一人の逃亡兵の話である。
    死亡者は成瀬時夫、大正十年七月十九日生まれで、海軍機関兵、死因の欄には「飢餓ニ因ル心臓衰
    弱」とあり、死亡の場所は小樽市松山町南方約二千米の山中とあり、どのような死であったのか記述
    されてない。

 死亡者は海軍機関兵であり、
軍に籍を置いたものが飢えて衰弱死するなどということはあり得ない。
しかも、死亡場所が山中で、なぜそのような地に海軍機関兵が行ったのかも疑問に思われた。
 死亡通知を受けた遺族の思いもまた複雑だったに違いない。
「戦死」という報告なら、無念さ故のくやしさを抱きながらも、
あきらめざるを得ないが、「飢餓ニ因ル心臓衰弱」ではどう解釈していいか困ってしまうが、
死を究明する手立てがなければ、疑問を抱えながらもあきらめざるを得ない。

 過去の出来事を掘り起こす作業は、根気のいる仕事だ。
糸口を発見するための努力のほとんどは、成果のない徒労に終わってしまう。
「死亡者住所」を手掛かりとして遺族を探し出すのが常道であるが、
戦後三十数年が経ってしまえば、遺族を突き止めるのにも可なりの労力を要する。
記載された住所の地区の成瀬を名乗る家の番号を電話帳から抽出し電話をかける。
橋爪は成瀬時夫の遺族であるかを電話の相手に向かって、確認する。
やっと遺族に辿りついた。
 年老いているらしい女の弱々しい声が流れてきた。「時夫は私の倅ですが、生きているのですか?」
声が急に甲高くなり、夫を13年前に亡くした84歳になる
女は叫ぶように言った。手元にある資料を読み上げ、
「飢餓ニ因ル心臓衰弱」と記録されていることを伝え、あなたが知っていることを教えてほしいというと、電話口で夫人は次のように答える。

 息子が北海道のどこかの港で休暇をもらって下艦した折、軍艦が緊急出港したので帰艦できず、そのまま行方不明になっている」と答えた。それから一年過ぎた頃、骨壺が贈られてきたが、内部は空で、母親は、遺骨がないことから息子がどこかに生きているのかもしれない、とひそかに考え続けてきたという。
                     
               (つづく)
  (読書案内№189)      (2023.10.6記)

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秋は夕暮れ

2023-09-16 06:30:00 | 季節の香り

 今年の夏の暑さは尋常でなかった。
寝苦しい夜が続き寝不足気味の朝を迎える。
寝汗をかいた体を幾分冷たくしたシャワーで体温を下げ、
すっきりした状態で朝食をとる。

「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますが、今年の夏はどうなのでしょう。
朝晩、幾分涼しく感じられますが、日中はまだまだ暑く、
麦わら帽子をかぶっての畑作業は老いの身にはかなり応えます。

 やがて田んぼのあぜ道や、河川の土手に彼岸花が咲き始めるでしょう。
秋がひそやかに忍び寄ってくる残暑の一日が暮れていく。
  
 清少納言は「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」がいいと、
また「夏は夜」、「秋は夕暮れ」「冬はつとめて(早朝)」と日本の四季の美しさを見事に表現しています。「枕草子」

 待ち遠しい秋の作品を集めてみました。
 
 

 秋は夕暮れ
    秋は夕暮れ。
    夕日のさして山の端いと近うなりたるに
    烏のねどころへ行くとて
    三つ四つ、二つ三つなど、
    飛びいそぐさへあわれなり
    まいて雁などのつらねたるが
          いと小さく見ゆるはいとおかし。
    
    日入り果てて風の音など
    はた言ふべきにあらず
                枕草子  清少納言
                       
            現代語超意訳
             秋は夕暮れの黄昏どきがいいね。夕日が差してきて、西の山端におちか
             かるころ、カラスがねぐらに帰ろうとして、三羽四羽、二羽三羽と、急
             いで飛んでいく様子は、しみじみとして、心にしみる。まして、雁など
             が連なって飛んでいくのが、とっても小さく見えるのは、これまたとっ
             てもおもむきがある。
             日が沈んで、風の音がさやさやと聞こえ、虫の音などが草むらから鈴虫、
             クツワムシ、マツムシなどの声が聞こえてくる。
             そんな秋の夕暮れは、言葉では言い表せない風情がある。
             ススキ、女郎花、吾亦紅、萩などが、決して華やかではないが、秋の夕
             暮れを彩る風情は、「さみしい」というのではなく、その一歩手前にある
             こころの琴線に触れて来る感情のひだが揺れている状態。それが秋。人生
             の黄昏どきと重なる秋の夕暮れである。
             
 与謝蕪村   戸を叩く狸と秋を惜しみけり
            ひとざと離れたわび住まい。傾いた屋根の上には草が生えている。
            「秋を惜し」むと歌っているので、晩秋のおそらくは黄昏時が過ぎ
            て夜のとばりが下りるころは、何となく寂しさを感じる季節である。
            咲き誇った花たちも、その使命を終え葉を落とし冬ごもりの準備が
            始まる。萩の花も、吾亦紅もささやかな彩の使命を終了する。
            ススキがさやさやと風に鳴る。かすかに冬の予感を孕んだ風の足音
            が戸を叩く。まるで人恋しさに山から里山に下りてきた狸が、隙間
            風の吹きこむ荒れ屋の戸を叩いているような時雨でも降りそうな晩
            秋の里の風景だ。
            去年より 又さびしひぞ 秋の暮
             老いの身にはこれから冬を迎える秋の暮は、一層寂しさが募ってく
             る。「去年より」という言葉に込められた老年の孤独が感じられる。

     松尾芭蕉   この道や行く人なしに秋の暮

              妻子も持たず、人生を旅になぞらえ孤高の俳諧道を歩み、「わび さび」
            の境地を極め俳聖といわれた芭蕉翁の孤独がじんじんと伝わってくる秀
            句だ。
            思えば長い旅であり、「わび さび」の道もまた先の見えない厳しく、寂
            しく思えるときもある。旅の行く先々で句会を開き、主(あるじ)の歓待を受
            け、やがて宴の時もおわり、
師と仰ぐたくさんの人から解放され、用意
            された床に横になれば、よる年のせいか疲労も重なり、すぐに眠りが訪れ
            る。
            旅に病んで夢は枯野をかけめぐる 
            旅の途中で病んで床に伏しても、夢に現れるのは枯野を歩んでいく自分の
            姿だ。4日後、俳聖芭蕉翁は帰らぬ人となった。享年50歳。元禄七年10月
            12日。遺骸は去来、其角ら門人が船に乗せて淀川を上り、13日午後滋賀県・
            近江の義仲寺に運ばれた。14日葬儀、遺言により木曽義仲の墓の隣に葬ら
            れた。焼香に駆け付けた門人80名、300余名が会葬に来たという。
                                       (ウィキペディア参照)

            (季節の香り№40)        (2023.9.15記)

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海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑩さらなる試練

2023-09-07 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑩さらなる試練

  太平洋戦争の末期、
 
本土の長崎港に向けて出港した学童疎開船・対馬丸は、
 吐噶喇列島の一つ、悪石島沖で米潜水艦・ボウフィン号の魚雷攻撃によって沈没した。

 対馬丸は沖縄から出向した最初の学童疎開船だった。
このことが公になってしまうと、
10万人の非戦闘員の疎開に支障をきたしてしまう。
もう一つ、この学童疎開船には別の目的がありました。

 前述したが、『本土防衛の要となる沖縄決戦』を敢行するために、
人口40万の沖縄に、各地の戦地から10万人の兵士たちが、
続々と沖縄に上陸してきました。
その食料調達には足手まどいになる児童を含む非戦闘員の本土輸送だったのだ。

 最初の学童疎開船対馬丸が撃沈されたことが島民に知れると、
輸送作戦に支障をきたすことを危惧し、
沈没の事実は『箝口令』によって、長い間隠されていました。

箝口令
 見たことは誰にも言うな
 聞いたことは胸にしまっておけ
 絶対に誰にも言うな

 おおよそ280名の人が助かりました。
このうち学童は59名という記録もあり、正確な人数は分かりません。
海の藻屑と消えた人たちの悲劇もさることながら、
助かった280名の人全員にさらなる試練が待ち受けていました。
友達を失い、親を失い、茫然自失の遭難者たちを追い詰めたのは、
箝口令でした。

「対馬丸のことは誰にも言うな」。
苦しく、辛い体験は人に話すことによって、和らいでいきます。
心のしこりを言えない辛さを抱かえ、
戦後沖縄に帰ってきた児童たちは、
対馬丸沈没の事実を親にも語ることはなかったという証言がある。
戦後のある時期を、
「箝口令」の呪縛に縛られたまま生きてきた生存者の苦しみはいかばかりだったでしょう。

  中学三年の夏休み、中野さんは祖父から対馬丸の話を聞いた。
その祖父の体験談。

 船から投げ出され、おぼれて顔をゆがめる人、人、人。沈み始めた船の底のほうから、悲鳴と船体のきしむ音が重なるように湧き上がってきた。
 海に飛び込んだ祖父はいかだで約三日間漂流。海軍の船に救助されたが、乗っていた人たちを救えなかった後悔にさいなまれた。
 事件後、沈没について話したら死刑だと憲兵から脅され、口を閉ざす。
 対馬丸の三十三回忌の慰霊祭に参加したとき、多くの人が体験を語っていることを知り、ようやく自らも語り始めた。(2023.8.22朝日新聞記事)

 中野さんの祖父が「箝口令」の呪縛から解かれ、体験談を人に語れるようになってから、33年の苦しい月日があったのだ。
那覇市にある対馬丸記念館によれば判明しているだけで、
 1778人が乗船、1484人の犠牲者を出し、そのうち学童784人がなくなった。
 当時、軍や警察によって箝口令が敷かれ、そのため被害の全容はわかっていない。 
    おおよそ280名の人が助かりました。
 このうち学童は59名という記録もあります。実に生存率6%でした。

  疎開先から来るはずの手紙が来ないことなどから、
  たちまち対馬丸の沈没は島民の知るところとなった。
  このため一時は疎開に対する反発があったが、
  1944(昭和19)年10月10日の那覇市への空襲があってからは疎開者が相次いだ。
  厚生省の調査では、
  1945(昭和20)年3月までの沖縄から187隻の疎開船のうち犠牲者を出したのは対馬丸が唯一の
  事例だ。(ウイキペディア)

   疎開した民間人の多くは疎開先の九州、鹿児島県や熊本県、宮崎県や台湾で終戦を迎えて
  いる。1950(昭和25)年10月、遺族会が発足し、
  当時占領下の沖縄で、対馬丸事件の悲劇を伝え始めた。
  1953(昭和28)年、「
小桜之塔」が建立された。
   
              碑文
               
昭和十九年八月二十二日夜半 学童疎開
                  船対馬丸は 米潜水艦の魚雷攻撃を受け
                  て 悪石島沖で轟沈し いたいけな学童
                  と付き添いの人・一四八四人の尊い生命が
                  ひと時に奪われてしまいました
                  これらのみたまを弔い慰め 世界の恒久
                  平和を念ずるために 多くの人々の善意
                  で 小桜の塔 は建立されました

           参考文献  対馬丸事件 沖縄の悲劇          石野啓一郎著 講談社文庫
        海に沈んだ対馬丸 子供たちの沖縄戦    早乙女 愛著 岩波ジュニア新書
          対馬丸                  大城立裕著  理論社
        対馬丸 さよなら沖縄(アニメ絵本)       大城立裕原作
        海なりのレクイエム(対馬丸遭難の友と生きる)  平良圭子著  民衆者
          私たちの戦争体験6 沖縄対馬丸の沈没
         他人の城(短編集「脱出」に収録)       吉村昭著   新潮文庫
                                おわり
           
       (語り継ぐ戦争の証言№34)         (2023.09.06記)


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海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑨ 小さな命が海に沈んだ

2023-08-29 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 小さな命が海に沈んだ
   

  沖縄出身の芥川賞作家・大城立裕は「対馬丸」の著書の中で、
  沈没を経て漂流者となった人たちの様子を次のように表現しています。
  「無数の叫び声が」、刻々ひとつづつ減っていく。

  死だ。
  いくつもの死。
  次々と無造作に作られていく屍体が、海面を次第に分厚く覆っていった。
  あがき、叫ぶ人たちは、流れていくうちに、それらの屍体に行き当たった。
  それらは、今さっきそこで筏を奪い合った相手かもしれないし、
  昨夜一緒に「さらば沖縄」を唄った仲間かもしれないし、
  ふとしたことで仲たがいした親友かもしれなかった。
  あるいは、わんぱくでてこずらせた恩師かもしれないし、
  よくできて可愛がった教え子かもしれなかった。
  ……生きている者は、
  漂っているそれらの屍体にぶつかると、反射的に屍体をはねのけた。
  運の良い者は、翌日の夕方には救助されが、
  10日間も漂流し、島に漂着した者もいる。
  
  何人の疎開者が乗っていたのか
  一体、何人の人が生存し、犠牲者は何人だったのでしょう。

  先に私は乗船者1661名、という数字をあげましたが、
  この数字もあてにならないことが分かってきました。
  1661名というのは疎開を希望し、登録された人数で、
  必ずしもこの数字が正しいと言い切れない状況があったのです。
  
  出航間際に辞退した者、または、無届で乗船した者があり、
  この沖縄から本土への集団学童疎開が、
  いかにあわただしく性急に進められたかがわかります。
  だから、正確な数字を把握しきれないまま、
  現在も研究者によって人数が異なるのです。

  吉村昭氏は1680名という数字をあげていますが、
  人によっては、1788名という人数をあげる人もいて、
  はっきりした人数は分かりません。

      (語り継ぐ戦争の証言№33)        (2023.8.26記)

 

 

   
  
  

 

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海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑧ 沈んでゆく疎開船

2023-08-20 06:30:00 | ニュースの声

海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑧沈んでゆく疎開船
 わずか12分で対馬丸は、悪石島海域の海底に沈んだ。1944年8月22日22時23分ごろ。
海水は冷たく、すさまじい水圧がかかってきた。
沈んでいく対馬丸に伴って、大きな渦が起こり、体が激しい勢いで回転し始めた。
「船が沈没したらなるべく早く船から遠くに逃げろ」と、
疎開船の不安を煽るような注意はされなかった。
ただただ大人たちの「逃げろ!
」という叫びに、
子どもたちは船倉から狭い階段を、甲板にに向かって必死で登って行った。
傾いた甲板に出て、「海に飛び込め!」という大人たちの声に、
暗い海面を見てしり込みする児童もいる。
恐怖にすくみ、甲板に座り込んでしまう児童は、
大人たちに抱きかかえられ、暗くうねる海に放り込まれた。

 闇の世界に埋もれながら、意識が遠のいていく。
……どれほどの時間が経過したのか、
自分の体が仰向けに浮いているのに気付いた。
船は跡形もなく、
海面には小さな渦がところどころにできている。
対馬丸沈没の名残の渦だ。
周囲を見回した。
海面は浮遊物に満ちていて、孟宗竹、ドア、木片、畳などに交じって
救命衣をつけている人の体も浮いていた。
傍らの体に触れてみた。
が、その体には頭部がなく、改めて周囲の人々の体を見つめなおしてみると、
救命衣をつけた死体ばかりであった。
と、作家・吉村昭は対馬丸事件を扱った「他人の城」の中で表現しています。
沈没する船の引き起こす渦に巻き込まれ、
海底に引きずり込まれ溺死したのでしょう。

 船の爆風で救命ボートは転覆し、
生存者は台風襲来の中、孟宗竹で編んだ筏で漂流しながら救助を待った。
漂流は、風雨、三角波、真水への渇望、周辺を泳ぐフカへの恐怖、
錯覚や幻聴との戦いでもあった。
           対馬丸沈没 語り部の平良恵子さんが29日、88歳で死去されました。
             疎開船「対馬丸」の生存者で、語り部として長年活躍されていました。
             9歳だった1944年8月、国の疎開方針に伴い沖縄から長崎に向かうため乗船した
             対馬丸が米潜水艦の攻撃を受けて沈没。平良さんは筏で6日間漂流した後、流れ
                着いた無人島で救出された。沈没事件には箝口令(かんこうれい)が引かれ戦後になっ
                                               ても語れない生存者がいるなか、平良さんは早くから語り部として体験を伝え                                                   る活動をした。(朝日新聞2023.7.31記事を要約)
                                                                                                                        (つづく)

                          (語り継ぐ戦争の証言№32)  (2023.8.19記)

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海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑦ 待っていたのは……

2023-08-13 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇  ⑦ 待っていたのは……
 付き添いの保護者や学校関係者の心配や不安をよそに、

学童たちは初めての航海に興奮し、

まるで修学旅行の夜のようになかなか寝付くことができなかった。

 ちょうどその頃、

米国潜水艦ボウフィン号は学童疎開船団の進行方向の海域20㌔先で、

船団が近づくのを待ち構えていた。

船団から発信された暗号は、米国軍によって解析され、

航路や到着時刻まで正確に把握されていた。

 夜10時監視員の交代があって間もなく、

左舷の遠くに五本の白い線の動きを発見。

次の瞬間彼は、

伝声管に向かって叫んでいた。

「雷跡発見! 距離500! 本線に向かって失踪中」

第一魚雷は船首前方を掠め、

第二魚雷も船倉左舷を通過した。

運命の第三魚雷は左舷船倉の第一船倉、

第四魚雷も同じ左舷の第二船倉に命中。

いずれも学童を収容した船倉の真下です。

最後の魚雷は左舷第七船倉の一般疎開者の入る真下に牙をむいた。

時刻は22時12分をさしていた。


 船体は中央から裂け、

泡立った海水が甲板にせりあがってきた。

 1944(昭和19)年8月22日22時23分頃、

吐噶喇(とから)列島の悪石島付近の海域にて沈没。

最初の魚雷攻撃から船が沈没するまで、

わずか12分の出来事だった。
 (對馬丸の沈没地点 毎日新聞2018.8.16)
 攻撃を受けた船団は、海軍佐世保基地に遭難の緊急信号を打電する。
しかし、この緊急発進も米軍は把握していた。
 沖縄 奄美大島等の西南諸島海域は米軍の制海権下にあり、
日本側の情報は筒抜けであったと言われている。

 
過日、顎鬚仙人様から次のような短歌を紹介していただきましたので掲載します。

   いつまでも消ゆることなき少女らの声
              「宮城先生」と細りゆく声

                           新崎美津子
  紹介者の長谷川櫂の解説
     對馬丸に乗っていた教師の短歌。作者は筏で漂流して生き残った先生で「宮城」は作者の旧姓。
                       (読売新聞2023.7.13 長谷川櫂の「四季の歌」より)
   ※短歌の作者・新崎美津子さんは、2011年2月に90歳で逝去され、たくさんの短歌を残されました。
    「對馬丸番外編」として後日紹介したいと思います。
  

                       (つづく)

(語り継ぐ戦争の証言№31)  (2023.8.12記)

 

 

 

 

 

 

 



 
 
  

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海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ⑥悲劇の夜が近づいてくる

2023-08-05 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 
                ⑥ 悲劇の夜が近づいてくる
   834人の学童を含む1661人の疎開者たちと、

 
船舶砲兵隊員41人、船員86人、合計1788人を乗せた対馬丸は

 他の疎開船和浦(わうら)丸、暁空丸(ぎょうくう)と共に砲艦「宇治」と駆逐艦(護衛艦)「蓮」に護られて、

 1944(昭和19)年8月21日午後6時35分那覇港を出港した。

  ドラを鳴らし、テープを投げ合う旅立ちを祝福するセレモニーはなかった。

鹿児島までの3日間の航海です。

8月22日の朝、周辺海域は台風の影響で風が強く、

老朽船の對馬丸は船団の速度についていけず、

しだいに遅れはじめ、これを見守るように護衛艦「蓮」が対馬丸の後ろをついていきます。

 こうして、22日も無事に終わろうとしていました。

後、2日たったら本土鹿児島に到着する。

親たちとの別れは悲しかったが、

児童たちはまるで修学旅行気分でなかなか寝付かれない旅を、

暗くて、汗臭い異臭の立ち込める船倉で過ごしていた。

 航海一日目、学校関係者や親たちの心配と不安とは別に、

児童たちの興奮でなかなか眠れない夜が訪れる。

 老朽船對馬丸は、先行する「和浦丸」や「暁空丸」の速度についていけず、

船団の最後尾を、不規則なエンジンの音を響かせながら

護衛艦「蓮」に護られ、台風の接近に伴う風の影響を受けながら、

夜の海を目的地の「博多港」に向かって航行していた。
                                                                    (つづく)
 (語り継ぐ戦争の証言№30)                           (2023.8.4記)

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海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ⑤

2023-07-30 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇  通達文書に示された隠された疎開の理由

 県から各学校や役場等に届いた『学童集団疎開準備に関する件』という

通達文書に示された集団疎開の目的として、

『戦時中といえども少国民の教育に差し支えないようにするため』という他に、

『県内食糧事情の調節を図るため』とあった。

 つまり、急激に増員された10万人の兵隊の食料確保のために、

10万人の学童や学校関係者及び保護者を県外に疎開させるという、

帳尻合わせの学童疎開でもあった。

 あまりに急な要求に、学校関係者や保護者達は戸惑うばかりで、

希望者はなかなか集まらなかった。

『残っているより行ったほうがよい、たとえ敵が上陸してこなくても、空襲はあるでしょう。

空襲されたら、那覇なんか吹っ飛んでしまうだろう』

 さまざまな噂がささやかれたが、

『これは国策ですぞ』という一言に、学童疎開時の募集には、

有無を言わせない強制力が潜んでいた。

  もう一つ隠された目的として、なるべく成績優秀な児童と引率の教師にも

優秀な者を選ぶという不文律がありました。

もし、沖縄が全滅したとしても、優秀な沖縄(日本)の血すじを残すという、

沖縄が激闘の戦場として民間人をも巻き込んでしまうことを暗に認めた事例です。

 
  戦争とはかくも人を狂わし、ばかばかしい計画を作戦と称して大真面目に実践に移してしまう。

 戦争という非日常の中で、人間の中に潜む『狂気』が、

 無限に拡散され、無力の民が犠牲になっていく。
                                      (つづく)

        (語り継ぐ戦争の証言№29)             (2023.07.29記)











 

 

 

 

 

 

 

 

 

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