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雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ⑤ 番外編・その後の酒巻和男 

2024-01-25 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

 真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ⑤ 番外編・その後の酒巻和男

 

捕虜になってから4年。
太平洋戦争で最終的に日本が敗れるまで、
酒巻はハワイを経てアメリカ本土に移され、6か所の捕虜収容所を転々としました。
この収容所の中で、
アメリカの民主主義や合理主義への理解も深め、
続々と収容されてくる捕虜たちのリーダー的存在となっていきます。
 
 
日本に帰ってから書いた「捕虜第一号」には、
収容所で死を望む記述がある。
 戦陣訓の中に『生きて虜囚の辱めを受けず』とあり、
捕虜になる事は最大の屈辱であると、教育を受けてきたからだ。
「撃ち殺してほしい」と米兵に懇願する。
しかし、願いがかなうはずもない。
また、顔写真をとられたとき、
彼は自分の顔にタバコの火を押し付け、人相を悪くした。
自分が生きていることが判明した時、別人になるための行為だったのだろう。
その写真は現存するが、顔面に押し付けられたタバコの火の火傷の跡がたくさん見られる。

自殺願望をもち、これが叶えられないと
やがて酒巻は、収容所を転々とするうち、
英語を習得し次第に捕虜のリーダーになっていく。
「何の理由をもって非国民と呼び、死ななければならないと言ひ得るのであろうか」と考え方を変える

帰国後の酒巻和男

4年間の米国での捕虜生活の後、1946(昭和21)年1月4日に無事帰国する。
翌1947(昭和22)年3月には「俘虜生活四 ケ年
の回顧」を出版。愛知県のトヨタ自動車工業に入社
続いて1949(昭和24)年11月には、「捕虜第一號」を出版する。
 戦後数年後の手記は、「なぜ死ななかった」「非国民、腹を切れ」などの誹謗中傷が絶えなかったという。
 
                   一千五厘の召集令状で、あるいは志願兵として、出征する人々に
                 日章旗に書かれた寄せ書きを贈り、のぼり旗で激励し、千人針を贈り、
                 万歳三唱で華々しく出征を見送った銃後の人々は、
                 手のひらを返したように帰還兵に冷淡なあつかいをした。
                 或る帰還兵は貝のように沈黙し、戦地での体験を忘れようと、
                 
心に封印をした。負傷兵として帰還した人のなかには、
                 傷痍軍人として白い服を着て、行きかう人々の冷たい視線にさらされな
                 がら、屈辱的な思いで、街角に立つ姿も珍しくなかった。
 敗戦を経て、人々の考え方は、一変した。
終戦、文字通り、敗戦ではなく終戦という言葉が多く使われていた、この時代に、捕虜の体験を発表する、しかも真珠湾攻撃による開戦のその日に、「捕虜第一号」という当時としては不名誉な体験記を発表した酒巻和男の勇気に驚きを覚える。
 
 昭和44(1969)年には、トヨタ・ド・ブラジル社長に就任し、トヨタの国際的発展に手腕を発揮したという。さらに、再帰国後は、関連会社豊田総建の社長や参与となり、トヨタでの職を終えた。
1999(平成11)年11月 死去 81歳
 
 
 (大東亜戦争九軍神慰霊碑・戦死した9人の慰霊碑・捕虜になった酒巻少尉は秘匿された)

 

戦後80年目の名誉回復
 
 2021年12月8日、愛媛県伊方町の三机湾に新しい石碑ができた、碑には旧日本海軍の若者10人の写真が埋め込まれている。10人を悼むため、有志がクラウドファンディングで費用を募って建立した。
                                  (朝日新聞2021年12月8日) 

                                         

     (史跡 真珠湾特別攻撃隊の碑 10名の名前が刻まれている)

 実に、真珠湾攻撃から80年目の記念碑建立である。
紹介した酒巻和男の手記などによれば、1941年春から三机湾で約10カ月近くの訓練を仲間と共に小型潜水艦「特殊潜航艇」の極秘訓練に励んだ。全長24㍍の2人乗りで、2発の魚雷を積んでいた。攻撃後に母艦に戻るのは難しく、亊実上の特攻兵器だった。酒巻さんの艇は座礁し、同情の部下稲垣さんと脱出したが、海中ではぐれてしまう。酒巻さんは浜辺に流れ着き、米軍の捕虜となった。海軍は捕虜になっていることを把握していたが、攻撃に参加していたこと事体も隠ぺいし、「生死不明。機密の為口外をしないように」と家族に連絡、出撃前に10人で撮った写真から、酒巻少尉だけを削った。一方、戦死した9人は軍神としてたたえられ、戦意高揚のための自己犠牲の美談として、銃後の国民に流布された。
 戦後80年目にしてやっと酒巻和男の名誉回復がなされた。
                                                                  (おわり)
        (語り継ぐ戦争の証言№38)                    (2023.01.24記)

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真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ④ そして捕虜になった

2024-01-21 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

 真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ④そして捕虜になった

              前回まで。
                敵地まで近づいた酒巻和男少尉と稲垣清二等兵曹の乗艦した特殊潜航艇
                ジャイロコンパスが故障していたが、艦長に「いよいよ目的地(真珠湾の
                入り口近く)ジャイロがためになっているがどうするか」と問われ、決行
                することを艦長に伝えた。苦しい訓練の末にやっとたどり着いた命がけ
                 の実践だ。手記の中で酒巻は次のように記している。
                 『私は艦長の憂慮を吹き飛ばしたいと思いながら、力と熱を込め、「艦
                 長行きます」と答えた。艦長に注目しながら最後の敬礼をする艇付の稲
                 垣清二等兵曹の澄んだ目が、異様な閃光のように輝いて見えた』

 
 だが、ジャイロコンパスの壊れた潜航艇は迷走を続ける。
湾口があとどれくらいかともどかしそうに潜望鏡を除く酒巻。
しかし、酒巻の期待は微塵に砕かれてしまった。
酒巻の見たものは、恐ろしい方向誤差による海原にすぎなかった。
 艇は盲目航走の結果、湾口方向より90度近くも方向を変えて進んでいた。
 方向を確認する方策は、潜望鏡露頂走行だが、
敵陣近くでのこの走行は、敵に発見される確率も高く、許されない。
予測されたようにジャイロコンパスは機能不全のままだから、
再三再四方向を軌道修正し、でたらめな走行をせざるを得なかった。

 東の空が白み南十字星が消えるころ、静かに明ける真珠湾がはっきりと出現し、
偉大なる艦隊を守る二隻の哨戒艇を走るのを認めた。
朝日はすでに東の空に昇り、洋上には波がきれいな光を反射していた。
嵐の名残の為か、波は幾分高いが、攻撃には上々の日和である。

 監視艇が大きく目前に現れ、甲板を走るアメリカ水兵の白服がはっきり見えた。

その時、ドドドーン。
ものすごい爆発音と共に私の乗った潜航艇が大きく震え、異様な音響が何度も聞こえた。
あっと思う瞬間、私の体は宙に浮き、潜航艇の隔壁に叩きつけられた。
敵は爆雷を投射したのだ。
至近爆発の爆雷を数個受け、
頭を打った私はそのまましばらく何もわからなかった。
               
               

                  エピソード 吉村昭が体験した12月8日真珠湾攻撃の2日後
                   
兄がやがて中国大陸に出征しまして、一年半ぐらいたった時、
                  戦死の公報が来ました。戦死すると階級が一つ上がるのですが、
                  なぜか二階級特進になっていました。新聞に出ていた記事によると
                  敵前渡河といって、クリークを渡るのに、兄と上官とが決死隊にな
                  って向こう岸に渡って、軽機関銃を打っていたときに弾に当たって
                  戦死したそうです。
                   昭和十六年十二月八日は太平洋開戦の日ですが、その二日後に兄
                  の遺骨と遺品とが帰ってきました。白木の箱に入っている遺骨を見
                  ますと、骨の一部であるかのように小石がこびりついていて、野外
                  で遺体が焼かれたことを示していました。
                  遺品袋には、つるの代わりに黒いゴム紐のつけられた眼鏡、母が編
                  んで送った毛糸のパンツも入っていました。
                                 (吉村昭 随筆集 『白い道』より)


その後気絶から目を覚まし、上げた潜望鏡の映し出す光景に、酒巻の眼は引き付けられた。

 胸の鼓動は高まり、体中が熱してきた。
狭い視野の潜望鏡に、大きな真珠湾に黒煙が立ち上がっているのを確認した。
ものすごい黒鉛の塊はまっすぐに中天に舞い上がっているのが見えた。
しかし、運命の女神は、勝利の女神とはならず、特殊潜航艇は敵の投射する爆雷に追われ、
ついに一発の魚雷も発射することもなく座礁してしまう。
潜航艇は傷つき動かなくなった。
              

座礁した潜航艇の中で酒巻は考えた。

私は潜航艇を捨てて逃げ出してよいのであろうか。
艇と運命を共にする。
それが海軍軍人としての生き方ではないのか。
と思いながらも生を求める本能的な叫びが私を呼んでいる。
私は人間である。
人には血があり、肉があり、将来の命と仕事が待っている。
兵器はいくらでも作れ、いくらでも代用できる。
しかし、人間はそう簡単に代用できるものではない。
人間は兵器ではないのだ。
私は立派な軍人でなくもよい、人間の道を選ぼう、そして次の使命を待とう。
私は思いきって潜航艇の爆破装置を作動させ、艇を去ることにした。
海水は思ったより冷たく、波は見たより高かった。
私は泳ぎ始める。
疲れ切った身体は自由に動かない。
思わずガブリガブリと海水を飲み、私はもう泳げなくなり、ここで死んでしまうかもしれないと直感した。
しかし、死にたくない、死んではいけない、死んでなるものかと、
隣にいるはずの艇付き(潜航艇の操縦者・稲垣 清二等兵曹)が心配である。
最愛の艇付きを死なしてはならない。
夢中で、稲垣二等兵曹の名を呼んだ。
「艦長」という声が聞こえる。
「おい頑張れ、岸は近くだ」。
だが、稲垣二等兵曹の声を二度と聞くことはなかった。
私たちは引き離され、稲垣との連絡は、永遠に立たれてしまった。

 疲れきって泳げなくなってから、あるいは失神して磯波に打ち上げられていたのだろう。

気がつくと、背の高い米国兵がピストルを差し向けて立っていたのである。
私の片腕は米兵に掴まれ、
ほとんど同時に他の一方の腕がもう一人の米兵によって掴まれた。
酒巻和男少尉が太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃での捕虜第一号となった瞬間でした。
                                    (つづく)

 (語り継ぐ戦争の証言№36)       (2024.1.20記)

       参考資料:  
         真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号 酒巻和男の手記
                    増補 復刻合本改定版
         NHK関連番組関連新聞記事 朝日新聞等

        

 

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未来の方向

2024-01-17 06:30:00 | ことばのちから

未来の方向  

① 進むべき未来はこっちだ、という人がいる。
  でも、きっと未来に方向なんてない。
  それはまっさらな地図のようなもの。
  どっちに向かってもいいはずだ。
  ひとりひとりが進んだ方向に、それぞれの道とそれぞれの世界ができていく。
  だから、全方向で考えよう。
  やれることは全部やろう。
  可能性はたくさんあるほうが、おもしろいから。
  さあ、みんなでつくろう。
  あなたが進む方が未来だ。
            (トヨタイズム)2024.1.1.朝日新聞広告キャッチコピーより全文掲載
トヨタ自動車が展開する企業イメージ広告。
新年を飾るいいキャッチコピーだ。
人それぞれの多様性を認め、
今日という窓から未来の希望が見える。明るい未来が見える。
宣伝広告と切り離しても鑑賞にたえられる詩文だ。

だが、優しく理解しやすい文言の裏に、私たちに託された重い責任があることを忘れてはならない。

バトンタッチした未来の社会が、手垢にまみれて修正しなければならない社会であったら、

それは、今を生きる私たちの責任だということを、私たちは忘れてはならない。

未来はいつも過去からのメッセージを伝える、反映する。


もう一つ、セイコー舎のキャッチコピーを見てみよう。

 

② 『はかり知れない未来を、測る』

  スタートを切るとき、その先はいつも白紙だ。
 
  未来ははかり知れないもの。

  どんな結果が待っているのか知ることはできない。

  けれど勇気をもって人は進む。

  だからこそ、その挑戦は尊いのだ。

  世界がまだ見たことのない瞬間に出会ったとき、私たちの心は動く。

  その感動を人々と共有するために。

  想像を超える未来を切り拓くために。
                (セイコー舎2024.1.1の朝日新聞広告のキャッチコピーより)

 
  
未来が少しずつ見えてくるのは、スタートを切って少したってからだ。
   足のさばきや、手や指の動きが、たった9秒間の先にあるゴールにどのように作用するのか、
   わずかながら見えてくる。
   あるいは、駅伝のように、いくつものスタートと中継をつないで、
   未来というゴールに向かっていく進めていくアスリートたちのひとり一人の息づかいが、
   修練の結果が未来というゴールに、様々な結果をもたらす。
   想像を超える未来を拓くために、私たちは今を一生懸命生きなければならない。
   どんな未来が提供できるかは、私たち一人ひとりの生き方に左右される。

③ 16年後の近未来社会
   
現在の日本の高齢者人口は、総人口が減少する中で高齢者人口は3627万人と過去最多だ。
  総人口に占める割合は29.1%で過去最高を更新している。

       我が国の総人口(2022年9月現在
)は、前年に比べ82万人減少している。
   65歳以上の高齢者は3627万人ですから、前年比6万人増加し、29.1%となった。
                                  (総務省統計局データ)
   さて、国立社会保障・人口問題研究所は16年後の2040年には、現役世代(15~64歳
)は2割
  減少し、全人口の8割に減少してしまう。
   65歳以上の高齢者は、約3900万人で、2020年の統計と比較するとたった20年で300万人増
  加したことになります。実に、3人に1人が高齢者ということになります。
   一方、リクルートワークス研究所の報告書は「2040」で
次のように推計しています。
  現役世代が減る一方、85歳以上は2020年の610万人から1千万人に達する(前述のように3人に
  一人が高齢者になる)

   大変な近未来社会が目前に迫っています。
  もし、このまま何の手も打たなければ、
  私たちの16年後の社会はどんな社会になっているのだろうか。

  もしも、政府や私たちが16年後の対策を何もせずに、
  安穏に過ごした時に、どのような社会が実現するのだろうか。
   朝日新聞が、財務省、厚生労働省、国土交通省、日本総合研究所の資料を駆使くして作成
  した2040年の社会は次のようななんとも暮らしにくい社会になってしまいます。
   1. 農業人口 益々衰退し、2020年比で7割減。これに伴い農作物の価格は高騰する。
   2. 労働力  
約1100万人が不足
   3. 住宅   3割が空き家になる。大工などの技術者の減少で廃屋が増える。
   4. 物流   労働力の不足で2030年度には34%の荷物が滞留する。
   5. 道路・橋 築50年以上の道路・橋が老朽化75%。修繕がとどこおる。
   6. 介護職員 69万人不足
   7. 路線バス 運転手不足で路線バス廃止
        
  来るべき16年後の2040年は、デストピア(反理想社会・暗黒社会)の出現する社会なのか。
  16年、待ったなしの時間だ。打つ手がなければ、デストピアは確実にくる。
   派閥に汚れた政治ではなく、国民の願いを託された一人の人間として、
   そして、社会を構成するひとり一人が、未来というバトンを責任をもって手渡さなければ
   ならない。そう言う覚悟をもって過ごすことが望まれる。
                            (朝日新聞2024年1月1日の記事を参照)

   (ことばのちから№1)    (2024.1.15記)

   
    

 

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真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ③ 機能しないジャイロコンパス

2024-01-13 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

 真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ③ 機能しないジャイロコンパス
                             前回は、五艇を乗せた特殊潜航艇の母艦が、ハワイ・オアフ島の海域近く
                         まで近づき、命を懸けた作戦を遂行する興奮と不安で緊張し、母艦の甲板
                         に仁王立ちする酒巻の姿を描いた。

       特殊潜航艇とは
             本題に入る前に、特殊潜航艇・甲標的について説明しておきます。
            甲標的は魚雷2本を艦首に装備し(前回の写真及び図を参照)、鉛蓄電池によって行動
            
する小型の潜航艇だ。
             乗員2名で、操縦士が座り、指揮官は立ったまま潜航する。開発当初は洋上襲撃
            を企図して設計されたが、後に潜水艦の甲板に搭載し、水中から発進して港湾・泊
            地内部に侵入し、敵艦船を攻撃する戦術に転換された。
             連合艦隊司令長官山本五十六に甲標的の作戦が具申されたとき、山本は奇襲案に
            は賛成だったが、甲標的作戦では、攻撃後の収容が困難なため、採用しなかった。
            しかし、改善策を作り、数回陳情し採用に至った経緯がある。
             甲標的の部隊は「特殊攻撃隊」と命名された。真珠湾奇襲攻撃には五艇の特殊潜
            航艇に計十名の隊員が乗り込んだ。結果的にみれば、真珠湾内に侵入できた艇は皆
            無で九名が戦死し、酒巻和男のみが、第二次大戦捕虜第一号として米軍に確保
            された。
酒巻和男の手記
  ジャイロコンパスが機能しない。しかし、いまさら……。
 
昭和16年12月、開戦前日の暁近いころである。
母艦の部屋に戻り、私は整備日誌に恐ろしい最後の記録を綴った。
それはいくら整備しても、ジャイロコンパスが動かないことである。
深い溜息が私の胸を圧迫し、そして大きく吐き出されると重々しい胸苦しさが取り残された。
ほとんど水上航走を許されない特殊潜航艇には、ジャイロコンパスこそ命の綱であり、
コンパス無しの出撃ということは、
常識では考えられないし、
出撃したところでそれは直ちに不成功と死を意味するからである。

 今日までの努力と挺身は、艇の完全装備であった。
しかるに、今となって故障を起こすとは、はたして整備努力の不足なのか、
決定的な運命のからくりのいたずらなのか、私はその判断に迷った。
私は固い強い拳で無心に机をたたいた。
「ジャイロが何だ、俺は魚雷を持っている。魚雷を命中させればいいではないか」。
そう独り決めして、私は憤然として立ち上がった。
    
    ジャイロコンパスが故障していることは、出港するときからわかっていたことで、
    上官から「酒巻少尉、いよいよ目的地に来た。ジャイロがダメになっているがどうするか」。
    上官の最後の念押しである。
    酒巻は『力と熱を込め「艦長、行きます」とこたえる』
    この時の酒巻の心の逡巡を酒巻は、
    苦しかった訓練や技術の取得や激励の見送りなどを振り返り、
    『いまさら攻撃中止なんて考えられない。大きい責任と使命が私を縛っていた』
    と手記に書いている。

 この後手記は出航の場面に移ります。
タンクのブロー音を残し、母艦はぶくっと浮上する。 
急いで潜航艇に乗り込む。シューブルブルッ。
タンクへの浸水音と共に私の乗った特殊潜航艇はすーっと波間に進水していった。

今や、日本の運命を決しようとする世紀の戦いは、あと数時間で始められようとしている。
特殊潜航艇のモーターが起動する。
母艦は速力を増していく。
太平洋のど真ん中に、粟粒ほどの特殊潜航艇が、
もんどり打って踊りだし、単独行動を始めたのである。
深度を浅くしながら湾の入り口があとどれ位かと大きな期待に手に汗して、
私はもどかしそうに潜望鏡の上がるのを待った。
しかし、私の期待は微塵に砕かれてしまった。
私の見たものは、恐ろしい方向誤差による海原だった。
潜航艇は盲目航走の結果、湾の出入口方向より、
九十度近くも方向を誤り先行していたのである。
使用不能のジャイロコンパスを積んで潜行する特殊潜航艇は、
目隠しをして道路を歩くようなものだ。
湾内に辿り着こうとする焦燥感に追われながら、
再三再四方向を変えて走行を続けた。
しかし、運命はあくまで執拗に私たちへ味方してくれなかった。
結局はでたらめな走行と、徒労に過ぎなかったのである。
東の空が白み南十字星が消えるころ、
静かに明ける真珠湾がはっきりと現れ、
偉大なる艦隊を守る哨戒艇が走るのを認めた。
私は湾の入り口に向かって盲目の突入潜行を続けた。
                     (つづく)
    参考資料 真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号 酒巻和男の手記
                    増補 復刻合本改定版
         NHK関連番組 関連新聞記事等

  (語り継ぐ戦争の証言№36)                            (2024.1.12記)


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真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ②特殊潜航艇  

2023-12-24 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ②特殊潜航艇・甲標的

 航空母艦の艦載機による、奇襲攻撃は前述のように華々しい戦果を挙げた。
しかし、この手記の酒巻和男が乗った「特殊潜航艇・甲標的」のことはあまり知られていない。
簡単に言ってしまえば、甲標的は、二人乗り(甲型)の小さな潜水艇です。

 全長24㍍、全高3.4㍍、速力は19㌩(毎時35㌖)で、
航続力は最大速力で潜行した場合50分程度しか航行できませんでした。
魚雷2本を搭載しています。
作戦終了後に母艦により収容される計画となっていたが、
実際の収容は困難であり、生存率の低い兵器でした。
     

華々しい戦果の陰に隠れて、
たった5隻の潜航艇に10人の兵士が乗った2人乗りの「特殊潜航艇・甲標的」の戦果は皆無だったが、
当時は戦果についての発表はなかった。
戦死した9人は太平洋戦争最初の戦死者として華々しく報道され、
「9人の軍神」として、国民の戦意高揚に利用された。
  (真珠湾攻撃は1941(昭和16)年12月8日ですから、報道機関に発表されたのは、
  3カ月後の発表ということになります)  

 1942(昭和17)年3月7日付の東京日日新聞(現毎日新聞)朝刊を見てみよう。
『軍神 真珠湾強襲・特別攻撃隊の九将士』という活字が躍っいます。
また、「不滅の偉勲」「壮烈無比の攻撃」などの活字が躍っています。
戦死した九人の写真が掲載されているが、
捕虜となった酒巻和男さんについてはまったく触れられてなかった。
戦歴から抹殺されていたのです。
戦死した9人は軍神としてたたえられ、
1人だけ生き残り捕虜第一号となった酒巻和男の存在は秘匿された。

 さらに、大東亜戦争記録画報(前篇) 1943年6月20発行からの関連記事を見てみよう。
 九軍神特別攻撃隊の大戦果
  ハワイ真珠湾に潜行突撃したわが特別攻撃隊の精神は果たして至高至純にして神そのものの如く忠勇無比
 なるその義烈はまさに鬼神を哭かしむる、征ける九勇士はみな還らず、すべて真珠の玉と砕けたのである。
 激闘の瞬間身を死地に投ずるは安いが、このハワイ九軍神の如く数カ月前より一旦緩急ある場合を期し自ら
 死を着想し死を工作し死の訓練を重ねて静かに、尽忠報国の秋を待てるは千古に比を見ざる崇高なる精神で
 ある。
 「九軍神」の表現はあるが、
 5隻の潜航艇に10人の兵士が乗った2人乗りの「特殊潜航艇・甲標的」で出撃した特別攻撃隊なのに、
 「征ける九勇士はみな還らず」とすれば、
 「残る一人は生存しているのか」という素朴な疑問が国民のだれ一人も思い浮かばず、
 プロパガンダの戦果報道に酔いしれていた。
     
     捏造された写真には九人の軍神がハワイ・オアフ島を囲むように配置されている。
     酒巻和男の姿はない。 

 ハワイ沖まで潜水艦で運ばれた2人乗りの潜航艇5隻の一つに乗り込み、米軍艦を魚雷で攻撃するために湾内に向かった。しかし、酒巻和男が乗る潜航艇はジャイロコンパス(羅針儀)の故障で思うように航行できず、敵の攻撃を受けて座礁し、浜辺に打ち上げられ、米軍につかまった。

『真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号』の冒頭は次のように始まります。
 蒸し暑い特潜の中から母艦の甲板へ降り立った。冷え冷えとした夜気を含んだ南海の潮風が容赦なく私の顔を打ち付けてくる。
 憑かれたようにハワイの島影を求めた。薄暗い星明りの下に、ぼんやりと霞むオアフ島が現れて来る。その霞の奥からかすかに、昼間聞いたホノルル放送局の耳慣れないジャズ音楽が響いてくるようだ。言い知れない不気味さが、敵地に侵入した私を不思議な緊張感の中に追い込め、しばらくはただ茫然と仁王立ちしていた。
                                      (つづく)

  (語り継ぐ戦争の証言№35)        (2023.12.23記)

 

 

 

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真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ①太平洋戦争の始まり                

2023-12-17 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号 ①太平洋戦争の始まり 
     真珠湾攻撃について
             開戦82年目の12月8日  あの日を振り返ってみよう。
           1941年12月8日(現地時間7日)、日本海軍の航空機約350機と、空母六隻とからな
          る
機動部隊が、ハワイ・真珠湾にある米軍基地を奇襲攻撃した。米国は艦船6隻が
          沈没するなどの損害を受け、約2400人が死亡。攻撃直前には日本陸軍もイギリス領
          マレー半島へ上陸し、太平洋戦争が始まった。ただ、米国への最後通牒が攻撃の一
          時間後に届けられたために、「宣戦布告なき戦争」として、後々まで批判された。
           この奇襲作戦には、二人乗りの特殊潜航艇五艇が参加していたことはあまり知ら
          れていない。
           五艇の特殊潜航艇のうち、作戦通り湾内に侵入できたのは二艇、できなかったの
          は二艇で、いずれも米軍の哨戒艇による爆撃で撃沈されている。ただ一艇、酒巻和
          男少尉の乗った特殊潜航艇は艇の故障や米軍の爆雷の攻撃によって、湾外の砂浜に漂
          着し
、この奇襲攻撃で、太平洋戦争捕虜第一号となった。操縦員の稲垣 清二等兵曹は
          行方不明になり、後に戦死したことが判明する。
           酒巻和男氏は戦後日本に戻り手記を発表。また、我が国の経済活動に活躍の場を求
          め、経済人としての功績
を残した人でもあった開戦の日に不幸にも捕虜第一号とな
          ってしまった酒巻和男氏の悔恨の青春と、その後の人生を、酒巻氏の手記を参考に紹
          介します。

太平洋戦争の始まり  

 1941(昭和16)年12月1日、午前会議において対米宣戦布告が決議され、

翌日(開戦7日前)機動部隊に「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号文が打電されます。

日本時間12月8日午前1時30分、

機動部隊から第一波攻撃隊として183機、午前2時45分には第二波攻撃として171機が発進。

第一波攻撃隊から起動艦隊に向けて「トラ・トラ・トラ」の暗号文が打電された。

「ワレ奇襲ニ成功セリ」。

 日本側の空母6隻は無傷で帰艦。

損害は飛行機29機、戦死64名でした。

対する米国の損害戦艦4隻沈没、他4隻に大きな損傷を与えた。

戦死2345名。日本側の圧倒的勝利でした。

 太平洋戦争(大東亜戦争)のはじまりです。

ただ、日本国から米国への最後通牒が攻撃の一時間後に届けられたために、

奇襲攻撃と称されるように、

「宣戦布告なき戦争」として後々まで批判されることになった。
                      エピソード
                       開戦日の朝の記憶は鮮明に胸に残っている。
                      1941年12月8日、中学2年生だった作家の吉村昭は
                      学校に行く途中、軍艦マーチの猛々しい音と共に、
                      大本営発表を伝えるラジオのニュースを耳にした。
                      「町全体が沸き立っているような感じであった」。
                      開戦の2日後、中国で戦死していた兄の遺骨が贈ら
                      れてきた。
                       ハワイでの戦果に「狂喜」する近所の目を気にし
                      て、家族は雨戸を閉めた。母親は発狂せんばかりに
                      激しく泣いたという。(吉村昭『白い道』)
                               (朝日新聞2023.12.8 天声人語から引用)
 航空母艦の艦載機による、奇襲攻撃は前述のように華々しい戦果を挙げた。
しかし、この手記の酒巻和男が乗った「特殊潜航艇・甲標的」のことはあまり知られていない。
特殊潜航艇とはどのような潜航艇だったのでしょう。         

                                     (つづく)

(語り継ぐ戦争の証言№34)
参考文献 真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号    酒巻和男の手記
           朝日新聞2023.12.08 太平洋戦争開戦82年他





 

 

 

 

 

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告知について ③ターミナルケア

2023-11-21 06:30:00 | ことの葉散歩道

告知について ③ターミナルケア
 見捨てられた患者
「好きなものを何でも食べていいよ」と、
 食べられない患者に向かって無責任な言葉を主治医は投げかけ、
 さらに
「いつ外泊してもいいよ」と追い打ちをかける。
  担当医が言った言葉を私は兄から聞いた。
  食事がのどを通らないことも、外泊できるような症状ではないことも、
  担当医は十分に承知しているはずだ。
  気休めや見せかけだけの優しさで患者に接するべきではないと私は思う。
  そうした担当医の言葉に、
  「もう治らないから、好きなことをしていいよ」ということかと兄は私に言う。

 「がんの告知はしない」、「延命治療はしない」と、最初のインフォームドコンセントの時に同意書に書き、ターミナルケアをお願いした。
だが、あまりにもおそまっなケアだった。
 患者の意向や家族の意向も考慮されない、
心の通わない義務的な医療行為が展開されるだけだった。
「無理な延命治療を行わずに人間らしく最期を迎えることを支えるための医療ケア」がターミナルケアの基本である。
 栄養剤の投与や痛みの緩和を目的としたモルヒネの投与など、
最低限の施術は行われたものの、担当医の不適切な言葉かけなどがあり、
精神的なケアについては、専門職も配備されておらず皆無に近い状態だった。
というよりも、一般の総合病院の外科病棟ではターミナルケアは無理なのかもしれない。

 ステージ4の末期患者には、緩和ケアを主体とした、
ターミナルケアの専門病棟を併設した病院を選ぶことが肝要かと思う。

 生きることへの執念を強く持ち、努力を続けたが、末期癌は進行し、
やがて兄はベットから降りることもできなくなった。
細くなった手足、一回りも二回りも小さくなった体。
眼孔は落ちくぼみ、顔色もよくない。
誰の眼にも命の終焉が近いことを予測できるような状態だ。

 呼吸が荒くなり、家族の話しかけに応えられるような状況は過ぎている。
ナースセンターへのコールボタンを押す。
この時すでに心電図モニターは、不規則に小さな波型が移されていた。
駆け付けた看護婦は、モニターを見て「静かに見守ってください」と言うのみで、
担当医は来ない。
今まさに命の灯が消えようとするときに、担当医の姿もなく、
私たちはただ命の日の消えていくのをなす術もなく見守らざるを得ないくやしさ。
モニターが反応しなくなって、再びナースコルで呼ばれた看護婦は、
心肺停止しても、しばらくは心臓は動いていますから、と事務的な対応を崩さない。

 臨終の場に、医師も立ち会わず、医師が病室に現れたのは、
完全にもにたーが反応しなくなってかだった。
延命治療を望まないということはこういうことなのかと、
死んでいくものにとって、残された家族にとって余りにも冷たい対応だった。
 20数年前は、告知するかしないかは重大な問題だった。
「がん」は不治の病であり、告知を受けることによって、
生きる希望をなくしてしまう人も少なくはなかった。
 「同意書」は時として、患者側と医師側にトラブルがあった時の医師の
切り札として利用される手段でもあった。
インフォームドコンセントの趣旨は、
患者と医師が対等な関係でインフォームド(説明)を受け、
患者がそれをコンセント(同意)するという、医療の分野から起きた啓蒙運動だったが、
患者が自分の決意を固めるために、セカンド・オピニオンを受けたいという意思表示をすると、
私の言うことが信じられないのかと、機嫌を損ねる医者が多くいた。

 告知について、ある医師の言葉を紹介する。
  辛い事実を伝えるのは、その人がその人らしく生きるため。病気に負けないで少しでも幸せになってもらいたいから。「告知」なんて冷たい響きのある言葉は、そろそろ死語にしたい。「病気の説明」で充分だ。ショックなく、少しでも希望を持ってもらえるように、できれば、隠し事のないように伝えたい。辛いことを伝えるときには、いつでも、どんな時でも、あなたの命に寄り添いますよという思いを込めていたい。

 長い時間待たされて、三分間の診療で終わってしまう、
あるいは、機械漬けの延命治療が実施される現在の医療体制では、
「医は仁術」と言われる言葉の、医療従事者の情(仁)の部分がかすんでしまい、
最先端の医療技術を駆使くする術の部分が肥大化していく。
これは患者にとって決して喜ばしいことではないと思う。

 20数年前に、インフォームドコンセントや告知の問題がもう少し理解されていれば、
兄は「末期癌」と闘うような生きることへの空しい努力などせずに、
人生の「来し方行く末」を考えながら、
心穏やかに自分の人生を閉じることができたのではないかと思う。
                              (終)

(ことの葉散歩道№51)    (2023.11.20記)
  

 

 

 

 


 


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告知について ② 生きるための努力

2023-11-13 06:30:00 | ことの葉散歩道

告知について   ② 生きるための努力
     この家族は、「告知すること」から逃げている。
「生きる希望をなくし、命を縮めててしまう」ような状況が訪れたとき
自分たちに負わされる負担とストレスを恐れている。
私はそう思った。

 告知をしないまま、「食道に腫瘍ができているから、それを取り除くための治療」を始める。
腫瘍のできた場所は手術できない場所なので、
放射線照射により腫瘍を取り除く施術という偽りの説明に兄は納得し、
闘病生活に入った。

癌はリンパ節から全身に広がり、もう手の施しようがないことを兄は知らない。

 何としても、病を克服し家に帰りたい。
放射線治療のために食事は喉が通らず、
と云うよりも食道にできた癌が食べ物の通過を難しくしている。
廊下の手すりを伝いながら、やっとの思いで食堂に辿りつき、
ほんのわずかな食事の量を嚥下することができず、
流動食に近いものを2時間もかけてやっと食することができる。
    
 食事は咀嚼(そしゃく)や、嚥下能力を低下させないための便宜的なものに違いない。
いつも点滴の装置をぶら下げているそれには、
栄養剤や痛みを抑えるモルヒネが処方されているのを兄は知らない。
 
当然のことながら、配膳から2時間も経過した食堂には誰もいない。
付け放しになっている食堂のテレビに背を向けて座る
もともとやせ型で、更に肉が落ちてしまった兄の姿はとても痛々しい。

 
 掌で握りつぶすことができる程度の量の流動食に近いような食事も
完食できずに器に残された食事は、
色あせ、冷えてトロミをつけた輝きさえなく、
下膳されれば残飯のバケツの中に捨てられる運命を待つ悲しい存在だ。


 
生への強い欲求がありありとうかがえる兄の入院生活で、
見ている私が辛くなるような、闘病生活だった。

 
「好きなものを何でも食べていいよ」と、
食べられない患者に向かって無責任な言葉を主治医は投げかけ、
さらに
「いつ外泊してもいいよ」と追い打ちをかける。
                          (つづく)
 (ことの葉散歩№50)           (2023.11.12記)

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告知について… ① 余命宣告

2023-11-07 06:30:00 | ことの葉散歩道

告知について… 余命宣告

 辛い事実(告知)を伝えるのは、その人がその人らしく生きるため。
病気に負けないで少しでも幸せになってもらいたいから。
「告知」なんて冷たい響きのある言葉は、そろそろ死語にしたい。
「病気の説明」で充分だ。
ショックなく、少しでも希望を持ってもらえるように、
できれば、隠し事のないように伝えたい。

辛いことを伝えるときは、
いつでも、
どんなときでも、
あなたの命に寄りそいますよという思いをこめていたい。

                    ※ それでも やっぱり がんばらない 鎌田 實著より 
                               集英社文庫 2008.6 第2刷刊 P45
 20年以上も前の話になる。
まだ、現役で務めているとき、18歳離れている兄を癌でなくした。
通勤の道筋にあった病院に、勤めが終わるとほとんど毎日、兄の病室を訪ねた。
兄は若い時から胃腸が弱く、胃の三分の二を摘出した。
その兄が、体調を崩し二年近くを経過した。
兄には妻と未婚の一人娘がいたが、
家族のすゝめも聞かず、医者の診断を受けなかった。
かなり症状が悪化したと思われる時期、小さな町医者にかかり、
私が予想した通り、町医者の診断は、「異常が認められない」という診断だった。
その診断に安心したかのように、「そのうちよくなるよ」という兄の行状に、
「異常が認められない」ということが、健康であるという証拠にはならない、
と私の知り合いの医者を紹介した。
結果は大きな病院への紹介と、診察予約を翌日に取り付けていただいた。

 翌日の診察で即検査入院の措置が取られた。
食道癌の診断が下され、しかもリンパ節への移転もあり、
ステージ4(末期癌)の診断が下された。

 私は兄嫁から、「本人への告知」をどうするか相談を受けた。
当然のことながら、私は、告知すべきだと主張したが、兄の家族は反対した。
理由は「癌だと知らされたら、主人は生きる希望をなくし、命を縮めてしまうから」
というものだった。
 しかし、癌告知をしなければ、今後の治療方法にも支障をきたし、思うような治療もできない。
これが、担当医の見解であった。
それでも、「癌告知はしないで欲しい」という兄の家族の意向に
私は反対することはできなかった。

  一方で、告知をした結果、自暴自棄になり、あるいは意気消沈して、
「生きる希望をなくし、命を縮めててしまう」ような状況が訪れたとしても、
その時こそ、家族二人が余命いくばくもない人を、夫として、父として生を全うできるように、
力を尽くして支えることができるのが家族ではないか。

ケアカンファレンスの時も、
担当医は、「告知するかしないか」の、二者択一を迫り、
担当医としての見解やアドバイスをせず、
患者を除いた私たち三人に「イエスかノー」の回答を迫るのみだった。
私たちに結論を急がせたあげく、「延命治療」はどうするのかと
患者がまだ元気でいるうちに、私たちに最後の決断まで要求してくる。

 告知の是非を迫られ、その結論が下せない段階で、
「延命治療」をどうするのかという担当医の結論を要求する性急さに、
私は担当医の医師としての姿勢に疑問を抱いた。
 どんなに医療技術に優れていても、
人間的な温かみの感じられない医師は医師として、
「患者に寄り添う」という最も大切な姿勢に欠けているのではないかと私は思う。
医療に携わる者と患者の関係は、どんな場合でも対等でなければならない。

 余命宣告をしなければならないステージ4の末期がん患者の家族に、
「告知」の問題を何の説明もないまま、
丸投げしてしまうような医師に命を託さなければならない患者や、
その家族の不安は大きな負担となってのしかかる。
                                  (つづく)

(ことの葉散歩道№49)            (2023.11.06記)





 

 



 

 

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輸入依存の食料自給率38% ②コメ生産偏重の農業政策の改革ができない

2023-10-29 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

輸入依存の食料自給率38%
 ② コメ生産偏重の農業政策の改革をしないで
        自給率の低い食料を輸入に依存する過ち。

    主要国の食料自給率(カロリーベース食料自給率)(単位:パーセント)
     出典:農林水産省試算(カロリーベース)
        国名     1965年           2015 年       2020年                                        
    カナダ    152              255    221
   オーストラリア  199             214     173
   フランス            109              132           117    
           アメリカ            117              129             115
           ドイツ                 66                 93              84
           イタリア             88                 62              58
           日  本             73                 39              38(2022年度)

   〇 諸外国の⾷料⾃給率の試算値を⽐較すると、
   ① カロリーベースについては、
     国内の消費⼈⼝が⼩さく、カロリーベースに寄与する穀物、
     油糧種⼦等の⽣産量が多いカナダ、オーストラリア等の国が上位に位置づけられる⼀⽅、
   ② ⽣産額ベースについては、
     野菜・果実等の輸出量が多いイタリアがドイツ、イギリスを上回るなど、
     カロリーに⽐して価格の⾼い野菜・果実、畜産物の動向がより反映される
     傾向にあります。
  〇 我が国の⾷料⾃給率は、諸外国と⽐較すると、
                  カロリーベース、⽣産額ベースともに低い⽔準にあります。

                     カロリーベース(熱供給量ベース)とは、国民一人当たりの1日の摂取カロリー
                                 (熱量)のうち、国産費が占める割合を示したものを言う。
                           生産額ベースとは、国民に供給される食料の生産額に対する国内生産の割合
                                 を示している。(上の表ではカロリーベースの試算しか載せま
                                 せんでした)
  具体的に述べると、我が国の食料自給率は38パーセントです。
  つまり、不足分の62%は輸入に頼っているということです。国民の生命に関する食料が62%
  も外国に頼らなければ生活できないという危機的状況が日本の現在の状況です。

   では、不足分の62%の食料は何処の国からの輸入しているのか。
  農林水産省の統計ではアメリカ(22%)、オーストラリア(11%)、カナダ(9%
)、ブラジル(5%)な
  どとなっています。

   小麦、大豆、トウモロコシなどは、ほとんど輸入に依存しています。小麦の輸入が希望ど
  うりににできなければ、パンやパスタ、うどんなどの生産に支障をきたします。
   同じように家畜飼料のトウモロコシの輸入がとどこおれば、酪農も牛豚肉生産や鶏肉・鶏
  卵生産は成り立たず生産者、消費者に大きな不安を与えることになってしまう。
   最近のように気候変動や戦争などにより、輸入価格の高騰があれば、
  同様に経済そのものがバランスを欠き、社会不安を起こしてしまいます。

農業基本法の制定(1961年・昭和36)

 高度経済成長に伴う農業と商工業との所得格差拡大問題を解決すると大きな目標をかかげ、
具体的には農業の生産性の引き上げと農家所得の増大を目的とした。
農業生産の選択的拡大と合理化
農業構造改善事業の着手
流通の合理化
などが進められ、生産性を飛躍的向上と農家の所得を増大の目的は果たせた。
農業の生産性はと商工業の所得格差はあるていど改善されました。
 しかし、同法第2条「農業生産の拡大と合理化」は
「需要が減少する農産物の生産の転換、外国産農産物と競争関係にある農産物の合理化等」
推奨しています。
 わかりやすく説明すると、
「需要が減少する農産物は作らなくてもよい、外国の大規模農業と価格競争でたちうちできないものは作らなくてもいい」ということです。

 米国からの輸入と競合する小麦や大豆生産から撤退することになり、
小麦の作付け面積は、61年を境に急激に減少。
大豆の生産量は急減しました。
 その結果酪農・畜産の飼料は、米国からの輸入飼料に依存し、
飼料自給率は大幅に下がることになり、
地球温暖化などの理由で価格高騰した小麦や大豆、トウモロコシなどの飼料価格は高騰し、
同時に選択的拡大で生産を拡大してきた
酪農・畜産・果樹産地を直撃したのが、
牛肉・オレンジの自由化などで、産地などでは一時離農が続出した時期もあった。
 
 所得格差は改善されたが、農家の兼業化や若年労働者の離農による担い手不足問題の引き金となり、食料自給率低下の要因となってしまったため、農業基本法は廃止された。
 
 食糧自給率の低下には、複数の要因が考えられます。
気候変動: 
 近年は、農作物は品種改良や生産技術の発展などにより、収穫量も増加しています。
しかし、農作物の生産高は気候に左右され、
なかなか安定した量を確保することが難しい。
輸入に依存すれば、価格高騰に影響され安定した経済を確保することが難しくなります。

ウクライナ危機:
 ウクライナ危機で穀物の国際相場が上昇し、
輸入食品の値段が上がって家計を圧迫した苦い経験を私たちは知っている。順調に食料が収穫できても、ウクライナ危機のように輸送手段が確保できなくなったり、輸出制限があったりすれば、その影響を私たちはたちどころに受けてしまいます。円安もマイナス材料です。
 どこかの国のように輸出や輸入を武器の代替え品として、
経済の抑止に使用するることは人道に反する行為です。
 国際相場の影響を和らげるためにも自給率を高めるべきでしょう。

  生産者中心の農業基本法に代わり、1999年の食料・農業・農村基本法が制定された。 
生産者と消費者、都市と農村の共生を目指し、食料の安定供給の確保、農村の多面的機能の発揮、農業の持続的発展など、農村の振興を実現していくことを基本理念としている。

 しかし、一度衰退してしまった生産体制を立て直し、
食料自給率を高めるのはたくさんの労力と、時間がかかります。

 食料自給率の目標(農林水産省)

令和12年(2030)年度までに、
カロリーベース総合食料自給率を45%、
生産額ベース総合食料自給率を75%に高める目標を掲げています。
また、飼料自給率と食料国産率についても併せて目標を設定しており、
飼料自給率と食料国産率の双方の向上を図りながら、
食料自給率の向上を図っていきます。
基本計画における食料自給率などの目標を示した図(農林水産省資料)
食料自給率等の目標は、
令和2年3月に閣議決定された食料・農業・農村基本法で定められています。

 
 これまでの農政は、コメ農家の立場から考えたものが中心でした。
コメが余っているので、
田んぼで小麦や大豆をつくるように補助金で促しているのはその典型です。

小麦も大豆も湿気に弱い作物なので、これでは国産比率はなかなか高まりません。

【令和5年度最新】飼料用米の補助金制度が見直しに! 変更点と今後の動向

出典 : masy/ PIXTA(ピクスタ)

 米余りの状況が続き、主食用米の価格が低迷する一方で、
飼料原料の輸入量が激減して価格が高騰し、国産飼料の増産が求められています。
 水田を活用して飼料用米を栽培することは、この2つの課題の解決につながる有効な対策として、国は交付金制度を設けて推進しています。

 自給率を高めるための、農業改革、不足している農作物耕作を奨励するために、
補助金制度を活用することは、悪いことではないが、
労働意欲をそぐような補助金の支給は考えなければなりません。
 転作農作物の生産の行方をはっきり見極め、
商業や産業のように創意工夫の努力が報われるような食料自給率の向上が望まれます。

 
 農業従事者ではなく、消費者として自給率に貢献できることはないのか。
ジュニア向けの広報がありました。

ほんの少し意識を変えるだけでも食料自給率を上げることができます!




資料:農林水産省「ジュニア農林水産白書2023年版」

   二回にわたり我が国の食料自給率についてアップしました。
   固い内容の記事を最後まで読んでいただきありがとうございました。
   最初は、自給率38%という現状だけを記事にしようと思ったのですが、
   調べるうちに、政府の農業政策に触れなければ、自給率の低下の問題は
   先が見えてこないと思い、長い記事になってしまいました。

参考文献  参考文献 NHKサクサク経済(10月15日号)  しんぶん赤旗日曜版 農林水産省白書他

(昨日の風 今日の風№138)  (2023..10.28記)

 

 

                                                       

 

 

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