goo blog サービス終了のお知らせ 

雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ④

2023-07-23 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ④

     学童疎開船『対馬丸』 撃沈に至る経緯 ②
   真珠湾奇襲攻撃          1941(昭和16)年12月
   ミッドウェイ海戦    1942(昭和17)年6月 この海戦で日本は多くの犠牲を余儀なくされ、戦況は
                    劣勢になっていく
   サイパン陥落    1944(昭和19)年7月 (学童疎開船「對馬丸」出港・撃沈まで1年)

 1944(昭和19)年7月7日、サイパンの日本軍が陥落した。
本土防衛の「防波堤」である絶対防空圏の一つであるサイパンが米軍の手に落ち、
日本本土はB29・重爆撃機の爆撃圏内に入った。
 サイパンが陥落すると各地に派兵された兵隊が、米軍上陸に備え沖縄に進駐してきた。
当時、人口49万人の沖縄に10万の兵隊が集まってきた。

 59万人に膨れ上がった沖縄の人々にとって不足するものは何か?
小さな島では食料の生産性も極めて低く、本土からの食料の移送もままならず、
沖縄決戦を推進するにはあまりにも脆弱な食料体制だ。
 本土防衛のための最後の砦となる沖縄に集められた兵隊たちの食料確保は、
何としても実現しなければならない最重要事項であった。

 以上の戦況のもとで、
日本政府はこれから戦場になる沖縄から、九州に8万人、台湾に2万人の疎開が計画された。
命を守るための疎開政策の裏に、
食糧難の状況を打破するために計画された「学童集団疎開」計画が立案された。
  ※ 台湾疎開について
     台湾は1683~1895年までは清国の支配下にあったが、1895年日清戦争に勝利した日

     本が台湾の統治権を得た。以後約50年間(1895~1945)、台湾は日本の支配下にあっ
     た。日本の支配下で、道路、鉄道、上下水道、電気などのインフラ整備も行われ、
     教育は日本語で行われた。植民地の台湾への疎開が計画されたわけです。
     植民地支配は第二次世界大戦で日本は敗戦国となり、統治権を放棄した。
                          (つづく)

 (語り継ぐ戦争の証言№28)          (2023.7.22記)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ③

2023-07-18 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ③
  学童疎開船『対馬丸』 撃沈に至る経緯

 1941(昭和16)年12月8日未明、日本は真珠湾を奇襲した。

 第二次世界大戦の始まりだ。

 日本軍の真珠湾攻撃から数時間後、アメリカ海軍省は、

 無制限潜水艦戦の命令を出した。

 当時、潜水艦や飛行機で無差別に商船を攻撃することは、国際法で禁止されていた。

 しかし、命と命のやり取りの戦争が始まれば、

 国際法や条約は戦争を前にして無視されてしまった。

 結果として、宣戦布告なしの『奇襲』という攻撃になってしまったことに対し、

 アメリカはその報復として、「無制限潜水艦戦」を発令したと思われる。

 「パールハーバー リメンバー」をスローガンに、

 ミッドウェイ開戦でアメリカは劣勢を回復していった。

 

 日本軍の暗号はアメリカ軍によって解読されていた

  戦争が終わるまでに撃沈された日本の商船は、全部で890万総トン、2534隻になる。

 記録によれば、商船を最も多く沈めたのは空母艦載機等の飛行機ではなく、潜水艦だった。

 広い太平洋の海域を、敵の船を求めて潜行しても発見することはなかなかできない。

  アメリカ潜水艦は自分の担当の海域をパトロールしながら、ハワイに拠点を置く「太平洋艦隊

 潜水艦司令部」の指示を受け、攻撃目標を決めていた。

  潜水艦によって一番必要なのは、敵の船がどんな船団を組んで、何時、

 何処の海域を通過し、何処へ向かうかということだ。

 圧倒的な資源に基づく戦力を有効に実践に結びつけるために、

 アメリカには暗号を解読する通信解析部隊があります。

 当時、ハワイの潜水艦司令部には、

 1000人を超えるスタッフが、

 傍受した日本海軍や商船の暗号を解読・翻訳していたと言われている。

  1943(昭和18)年の春、戦況を左右することが起きた。

 沈没した日本輸送船から、船舶暗号書を米軍がひきあげ、

 暗号解読に成功すると、

 沈められる船の数が急増したと言われている。

                   (つづく)
 
 (語り継ぐ戦争の証言№27)   (2020.7.12記)

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ②

2023-07-11 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ②
  海底に横たわる対馬丸
  1997(平成9)年冬。
 深海探査機が海底の沈んでいる船を探し当てた。
 場所は鹿児島県トカラ列島の悪石島(あくせきじま)沖。 
 水深870㍍の光のない暗黒の世界。
 探査機のサーチライトの光に黒く大きな物体が徐々に浮かび上がってくる。
 やがて、光にとらえられた物体がその正体を現してくる。
 穴の開いた船が永い眠りから覚める瞬間である。
 探査機が近づく。
 暗くよどんだ海底のなかで光がとらえたものは三つの文字だった。
 濁った海水を通して浮かび上がる文字。
 『對馬丸』。
 カメラは海底に横たわる船をとらえる。
 腐食が進み魚の住み家になっている船。

  1944(昭和19)年8月22日22時23分、
 悪石島沖にて沖縄の学童疎開船「對馬丸」が撃沈から53年ぶりに姿を現した瞬間であった。
 船は那覇から長崎へ向かう途中、
 鹿児島県・悪石島の北西約10㌖の地点を航行中、
 米潜水艦ボウフィン号の魚雷攻撃により、沈没した。

                                  (つづく)

(語り継ぐ戦争の証言№26)  (2023.7.9記)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ①

2023-07-08 18:28:29 | 語り継ぐ戦争の証言

       海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ①
  戦後78年が過ぎた。
 本土では一般的に、太平洋戦争の終戦記念日は8月15日と言われている。
 そのせいかどうか、沖縄の「慰霊祭」の記事は、全国紙を含め、記事の扱いが小さく、関
 心の薄さを如実に感じさせる紙面構成である。
 
 沖縄では昨日6月23日を「慰霊の日」とさだめ、太平洋戦争末期の沖縄戦犠牲者を悼む式
典が沖縄県糸満市の平和記念公園で開かれた。
 日本全土にある米軍基地の70%が沖縄に集中している。
本土決戦を前にして、日本軍は
10万人の兵士を沖縄に送った。
小さな島に10万の
兵士が送り込まれる。
兵士たちの食料や宿舎はどのように確保されたのか。
不安と混乱の中、不平や不安を口にすれば、
「これは、国策ですぞ!!

と有無を言わさぬ強引さで本土防衛のための「沖縄決戦」が進められた。
 太平洋戦争で唯一、地上戦が展開されたされ、
多くの民間人が戦闘に巻き込まれた。
制海権も制空権も失われ、孤立無援の沖縄。
無数の米戦艦からの艦砲射撃が行われた。
「鉄の雨」とも「鉄の暴風」とも言われた艦砲射撃で多くの沖縄県民が
犠牲になった。

 お年寄りや子ども、女性を沖縄から本土に8万人、台湾に2万人疎開させることを政府や軍が決めたのは敗戦濃厚になった1944年7月だった。
 米軍上陸が迫るなか、この学童疎開船『対馬丸』の計画の隠された目的は、
軍の10万の兵士の食料確保であった。
戦況は切迫し、近海ではすでに多くの船が沈められていた。
 1944年8月21日18時35分、対馬丸は、台風接近による激しい風雨のなか、那覇を出港した。


 対馬丸の乗客の多くは、日本郵船の貨物船を軍隊輸送船として改装されていた船倉に居住することになった。船倉への出入り口は階段一つと緊急用の縄梯子があるだけの
出入り困難な状態であり、後にこの構造が、犠牲者を多くした原因の一つともいわれている。(ウィキペディア参照)
                                        (つづく)

 (語り継ぐ戦勝の証言№25)       (2023.7.4記)

 

 

 

 

 

 


 
 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

公安が来た ④なぜ、私は公安の訪問を受けたのか 

2023-04-11 06:30:00 | つれづれ日記

公安が来た ④ なぜ、私は公安の訪問を受けたのか
      これまでの話。
        私の住んでいる町近辺で起こった過激左派による「真岡猟銃
        強奪事件」は約一年後の1972年2月19日「あさま山荘事件」
        へと拡大し、警察官2名、民間人1名の死傷者と警察官26名、報道関係者1名
        の犠牲者を出し、10日目の2月28日警察の強行突入により、犯人(連合赤軍)5人
        は逮捕され、人質は219時間ぶりに救出された。
         多くの死傷者を出しながら、犯人側が無傷で10日間も抵抗できたのは、警
        察庁長官の指示により「無事救出」を最優先とし、犯人は全員生け捕り逮捕、
        火器使用は警視庁許可(犯人に向けて発砲しない)、ことがその理由の一つに挙
        げられている。
 

   

   (写真4枚 当時のことが生々しくよみがえります。視聴率89.7%という数字が視聴者の関心の高さを物語っています。) 

        公安が来た ①では、突然の警察訪問で、訪問の理由を一切言わずに「私も、会
        社もやましいところは一切ない」と協力を拒否し、態度を硬化させた。
        今回は、その続きを記載します。

      意固地になっている私に、年上の刑事が言った。
     「これから先は、捜査ではなく、茶飲み話ということで話を進めましょう」
     「お互いに聞かなかったこと、言わなかったことにしていただいても結構です」

     新しく淹れたお茶をすすりながら、年配の方が、私の顔に視線を走らして言った。
     「確か〇〇
さん(私の名前)は、東京の大学を出たんですよね」
     質問の意図が分からず私は黙っていた。
     「〇〇学部の経済学部でしたよね」
     質問の答えを促すようでもなく、間をおいて私を見つめ、
     次の質問をどう切り出そうかと思案しながら両腕の肘を膝につけ、
     屈むような位置からすくい上げるような視線を送ってくる。
     一見柔和な目のように見えるが、送ってくる視線にはとげがあ。
     刑事の目だ。
     得体のしれない、心を鎧で覆ったようなガードの固い目だ。
     地方の警察官のようなドロ臭さなどみじんも感じさせない、
     洗練さと冷たさをほんのわずか漂わせている。
     こんな目を、どこかで見たことがある。
     私はこの特異な目を思い出そうとした。
     「学生時代に何かなかったですか?」
     私の思案など無視するように、ボソリという。
     『何か』の意味が分からず、
     「知っているなら、具体的に言ってくれ」。
     警察や新聞記者はいつでもそうだ。
     手の内を絶対に明かさない。
     手本引きの博徒が、肩にかけた半纏の内側で札を操り指を動かし、
     相手の一瞬の戸惑いを決して見逃さない。
     「『我々とあなたの接点』を思い出してください」。
     手の内を明かさないで、相手に言わせようとするいつもの手だ。
     訪問の意図が全く理解できない私は、
     「言わなかったこと、聞かなかったこと」で済ますような相手ではないことを
     十分に理解しながら、
     『私』ではなく『我々』、と言うことは警察との接点と言うことだなと、
     胸の内で反芻する。
     私には犯罪歴もないし、前科もない。
     「何か思い出すことはありませんか」と、私の胸の内を探ってくる。
     獲物を追い詰める話の筋道をたてながら、目の前の刑事は手本引きのカードを
     懐の中であやつりながら、私の出方を考えながら次のカードを探っているのだろう。
                                   (つづく)

    (つれづれ日記№84)   (2023.4.10記)
        

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

公安が来た ③ 真岡猟銃強奪事件の概要

2023-03-25 06:30:00 | つれづれ日記

公安が来た ③ 真岡猟銃強奪事件の概要
   これまでの話。

    私にやましいところがあったわけではない。私を名指して訪問してきた警察の意図が
   分からなかったから、それを知りたいという気持ちもあった。「
真岡の猟銃事件ですね」
   と私。
栃木県真岡市は私の住んでいる町から二十数キロの小さな町だった。そこの猟銃店
   が襲われ、散弾銃と銃弾が強奪された事件だ。
この事件は最初から過激派グループの犯行
   と判明し、警察の威信をかけて犯人を追っていた事件だ。

   1970年12月18日、東京・板橋区の上赤塚交番で、交番勤務の警察官から拳銃を奪う計画は、
  警官の抵抗にあい失敗したあげく、仲間が一人射殺された。
  輸送中の「リーダー奪還計画」はとん挫するが、警察への報復作戦へと思わぬ方向へ進んでいき、
  この事件はやがて、私の町から20キロ
程離れた「真岡の猟銃強奪事件」として、
  社会の耳目を集めることになる。

    1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その1(革命左派)の記事より
            以下、新聞報道などの事件の概要は次の通り。
             交番襲撃事件から2か月後、1971(昭和46)2月17日、午前2時半ごろ栃木県真
             岡市の銃砲店を電報配達を装った
革命左派3人が襲撃し、猟銃10丁、空気銃1
             丁、散弾1500発を奪い逃走。8月に逮捕され懲役10年の判決を受け、現在刑
             期終了となっている実行犯の一人Y氏の証言によれば、店にあったすべての銃
             を強奪し、散弾銃の装弾は3500発ほどあったのではないかと言う。
                  朝日新聞の事件当日の夕刊では、『三人で銃砲店襲う』とあるが、これは誤報
             で、実行犯は6人で、うち2人は事件直後に逮捕。

            
             逃走
の途中、ラジオから流れてきたニュースで、小山アジト(坂口永田夫婦が
             館林に移る前に住んでいた)と下館アジト(現茨城県下館市下中山、小山から
             十数キロ)が警察に発見されたことを知った永田氏は、捜査の手が自分たちに
             どんどん迫りつつあることを悟り、パニックに陥ります。

             彼らが隠れ住んでいたアジトはいずれも、私の町を中心にして20~25キロの範
             囲に収まり、特に下館アジトは私の住まいから数百メーターにあった。
             おそらく、私が公安の訪問を受けた理由はこの辺にあると思われた。
             ただ、なぜ公安なのかその理由がわからない。

             革命左派のアジトが次々に警察によって暴かれ追われることになった。
             
             警視庁公安部では、各種の情報から猟銃奪取事件を過激派集団による犯行とほぼ
             断定、関東一円で7千人以上の大捜査網を展開した。

              この時点で、あさま山荘事件まであと1年。


               奪われた猟銃の一部は赤軍連合に金銭授受され、「あさま山荘人質事件」へ
               とつながっていく。
      
            次回: なぜ公安が私のところに来たか

                                     

            (つれづれ日記№83)  (2023.03.24記)

 

 

 

 

 


              

                      

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

公安が来た ② 拳銃と猟銃

2023-03-14 06:30:00 | つれづれ日記

公安が来た ② 拳銃と猟銃

        これまでの話。
    意固地になっている私に、年上の刑事が言った。
    「これから先は、捜査ではなく、茶飲み話ということで話を進めましょう」
    「お互いに聞かなかったこと、言わなかったことにしていただいても結構です」
    黙っている私を気にとめることもなく、
    「〇〇の猟銃強奪事件は知っていますか」と、年上の刑事。
    能面のように感情の表現を殺した顔から、
    緊張を解きほぐしたような穏やかな顔に戻り、
    冷えたお茶を音を立ててすすりながら、つぶやくように言った。

 拳銃と猟銃

    
こんなことで捜査を断念するような警察ではないことを私は今までの経験で知っていたから、
    警戒を解かずに対応することにした。
    といって、私にやましいところがあったわけではない。
    私を名指して訪問してきた警察の意図が分からなかったから、
    それを知りたいという気持ちもあった。
    「真岡の猟銃事件ですね」と私。
    栃木県真岡市は私の住んでいる町から二十数キロの小さな町だった。
    そこの猟銃店が襲われ、散弾銃と銃弾が強奪された事件だ。
    この事件は最初から過激派グループの犯行と判明し、警察の威信をかけて犯人を追っていた事件だ。

    後日、「あさま山荘銃撃事件」へと発展する発端となる「真岡猟銃事件」の経緯について
    説明しておきたい。
   
    事件の発端は革命左派のリーダーが逮捕され、
    獄外にいた組織指導部の永田洋子(元死刑囚・獄中死)たちはこのリーダーが、
    護送車で裁判所に連れてこられる道中を襲い奪還することを計画をたてた。
    そのための「リーダー奪還計画」の武器となる銃が必要となった。
    
    最初に狙われたのは、東京・板橋の交番だった。
    1970年12月、仲間が警察官を襲うが、失敗しその場で一人が射殺されてしまう。

    同志の死は組織に結束と緊張を生んだという。

    警察官の拳銃などで、護送中の「リーダー」奪還を本気で考えていたのだから
    「奪還計画」もずいぶん未熟で甘い考えだったと思う。

    仲間一人を射殺され、目的は「リーダー奪還」ともに「警察への報復戦」ということが、
    左派の仲間たちの間での暗黙の了解事項となった。

    次に狙うことになったのが、「真岡の猟銃店」だった。

       (つれづれ日記№82)       (2023.03.13記)

 

 

 

 







    
                                 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

公安が来た ① 銃強奪事件の犯人は?

2023-03-06 06:30:00 | つれづれ日記

公安が来た ① 銃強奪の事件の犯人は?
  公安が私を名指しで来た
     お客様が見えています。事務員が私を呼びに来た。
     二人の男が私を待っていた。
     風体から普通の人ではないなと思いながら、尋ねられるままに名前を言うと、
     警察手帳を開き、
静かなところでお話を伺いたいというので、応接室へと通す。
     再び私は名前を確認された。
     警察が私に何の用事なのか、思いつくまま訪問の理由を尋ねると、
     それには答えず、「最近人を雇いましたか」といきなりの質問だ。
     「ムッ」としながら「はい」と私。
     「よろしかったら名前を教えていただけますか」と若いほうの刑事。
     「理由も教えていただけずに、いくら警察でも名前を教えるわけにはいきません」
     と私。今なら「個人情報にかかわることは教えることはできない」というところだ。
     「4人ばかりをこの四月に採用しました」と私。
     「その中に男は何人いますか」と若い刑事。
      つまりは、最近採用した男のことを知りたいのだ。
     「新規採用で男子一名を採用しています」と私。
     「年齢は?」と聞き役の若い刑事。
     それならそうと、回りくどい訪ね方をしないで、最初から「最近
採用した男がいれば、年齢を
     教えてほしい」と単刀直入に聞いてほしかった。
     「学卒の新規採用です」と私。
     「職種は?」と畳みかけるように問いかけてくる。
     堪忍袋の緒が切れた私は、一気に相手を責めた。
     「大体失礼ではないか、なぜ私を名指しで来たのか。質問の理由の説明もない」と私。
     このような理不尽な訪問の仕方に、私はイライラしていた。
     「あなた方の質問には一切答えるつもりはない。どうしても情報が欲しいなら、終業後に
     従業員を捕まえて聞いてみたらいい。
     ただし、会社の敷地の外でやってください。
     ほとんどの人は送迎用のマイクロバスで最寄りの駅まで行きます。
                 バスの運行を妨げるようなことがないよう注意してください」と私。
     「警察に疑われるようなことなど、私も会社もやましいところは何もない」と
     よけいなことまで言ってしまった。
        
     私は若かった。
     相手は20代後半の若い刑事と40半ばの二人。
     「捜査の秘密」とやらで、相手の機嫌を損ねることなど百も承知の刑事たちだ。
     「質問しているのは俺の方だ」と言わんばかりに、私のイライラなど一向に気にかけず
     「ボイラーの管理は、有資格者がしていますか」と聞いてくる。
     「私には答える義務はないが、拒否する権利はある」と私。

     意固地になっている私に、年上の刑事が言った。
     「これから先は、捜査ではなく、茶飲み話ということで話を進めましょう」
     「お互いに聞かなかったこと、言わなかったことにしていただいても結構です」
     黙っている私を気にとめることもなく、
     「〇〇の猟銃強奪事件は知っていますか」と、年上の刑事。
     能面のように感情の表現を殺した顔から、
     緊張を解きほぐしたような穏やかな顔に戻り、
     冷えたお茶を音を立ててすすりながら、つぶやくように言った。
                                  (つづく)

       (つれづれ日記№81)     (2023.03.05記)
          
     



      
     

     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

男おいどん 松本零士逝く

2023-02-25 06:30:00 | つれづれに……

男おいどん 松本零士逝く
   男だって 人知れず泣くことがある
   いつか その夢が自分のところで
   とまるときもくると信じて
   おいどんは ひとり四畳半で泣いた
   サルマタケがものかなしく光っていた
               (「男おいどん」最終巻の一場面)
松本零士が逝ってしまった。
  「男おいどん」「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」の名作を残して。

「鉄腕アトム」の手塚治虫(1989.2)が逝き、
「ドラえもん」の藤子不二雄Ⓐ(1996.9)が逝き、
「ゴルゴ13」のさいとう・たかお(2021.9)が逝き、
わが青春時代の一ページを彩った作品を残して、還らぬ旅に出てしまった。

残っているのは、松本零士の稼ぎの少ない駆け出しのころからの付き合いだった
「あしたのジョー」のちば てつやだけになった。
食うものにも事欠く貧乏時代に『座布団のようなビフテキを食べたい』と、
サルマタケが生えるような貧乏暮らしにも負けず、漫
画道を歩み夢を貫き通した戦友のちば てつやの回想である。
「君も行ってしまったのか。もう……体中の力が抜けていくよ」
 ちば てつやよ! 日本中の若者を熱狂の渦に巻き込んだ、
「矢吹丈と力石徹」との熱い戦いのシーンが今も新鮮によみがえってくるのだ。
アル中の元ボクサー丹下ジムの会長「丹下段平」、
白木ジムの白いスーツ姿の美人葉子。
そして、最終回。
灰のように真っ白に燃え尽きたジョー。しかし、その顔には満足げな微笑みがあった。
などが今でも鮮明に思い出すことができる。
だから、ちば てつやよ元気を出してほしい。
       
 『男おいどん』は、週刊少年マガジンに1971年5月から1973年8月まで連載された。
連載第一回から私はとりこになった。
 無芸大食人畜無害で何のとりえもない貧乏男。
そのうえチビでガニ股でド近眼の醜男(ぶおとこ)で、女性にもてる要素など何もない。
貧しいけれど、正直で人生をまっすぐ見つめて歩んでアルバイトをしながら
夜間高等学校に行っている大山昇太(のぼった)
だが、勤務先を首になり、中途退学してしまう。
学校どころではなく食うに困っての中途退学だから、
けなげに生きる彼は何とか復学しようと奮闘するが、
努力が報いられるほど世間は甘くはない。

 松本零士の漫画によく登場する人語を話す、
ちょっと意地悪でガラの悪い「架空の鳥」のトリさんが出てくる。
失敗が続いても、幾たびもドジを踏んでも、
男おいどん・大山昇太は志を高く持ち、負けない。
いつか故郷に錦を飾らんと自信を奮い立たせる。
そんな時大山昇太はトリさんに向かって、
「トリよ、おいどんは負けんのど!」とつぶやく。
自分自身への励ましの言葉でもあり、
トリさんにしか心情を吐露することが出来ない彼の孤独感を哀切を持って表現される。

 下宿の押し入れを開けると、洗濯していないパンツが崩れ落ちてくる。
パンツにはいつのまにかキノコまで自生している。
インキンタムシに苦しめられている、ラーメンライスが大好きな男を中心に、
ギャグとペーソスで味付けされたストーリーが大好きだった。

 残念ながら、最終回をまったく記憶していない。
 もしかすると、最終回はは未読だったのかもしれない。
 ただ、松本の連載終了の言葉がある。
 執筆を続けていくうちにどんどん話が広がっていってしまい「話が無限大になってしまった」ことから、  「ケジメが付かなくなる」として松本の方から編集部に「連載をやめさせてくれ」と
 打ち切りを申し出たという
 どうやら、何の前触れもなく原作者の意向により連載は打ち切られたらしい。

 最終回。
「いってきますんど~!」と言って下宿を飛び出し、帰ってこなかったおいどん。
おいどんの部屋の電気を消さずに待ち続けるバーサンとラーメン屋のおやじ………。


おまけ。
  映画「銀河鉄道999」の冒頭。城 達也のバリトンが旅愁をいざなう。
     
【人はみな 星の海を見ながら旅に出る
     思い描いた希望を追い求めて 果てしなく旅は長く
     人はやがて、夢を追い求める旅のうちに永遠の眠りにつく
     人は死に、人は生まれる
     終わることのない流れの中を列車は走る
     終わることのないレールの上を 夢と希望と野心と若さを乗せて列車は今日も走る
     そして今 汽笛が新しい若者の旅立ちを告げる】

    ひょっとして、あの風采の上がらない大山昇太(のぼった)も、
     
見果てぬ夢の旅路を、「夢と希望と野心と若さを乗せて」
     貧しい下宿の部屋から夢の宇宙へと旅立ったのかもしれない。

    (つれづれに……№137)          (2023.02.24記)




 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 「逝きて還らぬ人」を詠う ⑧ 傘持って行きなさいよと亡き妻の……  

2023-02-20 06:30:00 | 人生を謳う

 「逝きて還らぬ人」を詠う ⑧
       傘持って行きなさいよと亡き妻の……

      『大切な人が逝ってしまう。
    
人の世の宿命とは言え、余りに辛い体験はいつまでたっても心が癒されない。       
    悲しいことではあるけれど、
人間(ひと)はいつかはこの試練を乗り越えて生きていかな
 ければならない。
死は予測された時間の中をゆっくり訪れる場合もあり、突然訪れる
 場合もある。
どちらの場合も、無常観と切り離すことはできない』

    5人兄弟のすぐ上の姉がなくなった。89歳。
    眠るように静かに人生の幕を下ろした。 
    童女のような笑顔が忘れられない。
    父も母も兄弟たちもみんな逝ってしまった。
    最後の一人になった末っ子の私。

 早世の部下の通夜より帰り来し夫は静かに杯重ねリ 
                    
……  斎藤紀子 朝日歌壇2020.02.23
  信頼して仕事を託し一緒に目標に向かって歩んできた部下が逝ってしまった。
  たくさんの思い出と一緒にあいつが逝ってしまった。
  迫りくる寂寥感を酒と一緒に胸の奥深くに飲み込む

 傘持って行きなさいよと亡き妻の声聞く様な午後の外出 
                      
……井村おさむ 朝日歌壇2020.03.08
        今にも降ってきそうな空模様。こんな時はいつも「傘持って行きなさいよ」と、妻の一言が
  背中を押してくれる。今日もそうだ。玄関に立ち空の向こうを眺めながら、
  背中から降ってくるあの声を待っている私がいる。

吾亦紅野薊(われもこうのあざみ)野菊野の花で棺を満たして亡妻(つま)送りたり
                      
…… 加藤宜立 朝日歌壇2019.3.17
  美しさを競うような花ではなく、野の花を摘んで小さな一輪挿しに挿す。
  玄関や居間のテーブルの上、電話の脇にも野の花がいつもあった。
  一輪挿しの素朴さのなかで、野の花がひっそりと息づいていた。
  今日は、野の妻の好きだった野の花の野辺送りだ。花に埋もれて妻は野辺の花の一輪となった。

なき妻をさびしがらせずひな飾る 
             
……  小倉克(かつ)允(まさ) 朝日俳壇2019.3.10
  妻の嫁入り道具。少し色あせた古いお雛様。
  在りし日の妻をしのびながら、お雛様を飾る。

いくたびも雪の深さを聞きし母逝きてしずけしふる里の雪 
             
…… 沼沢 修 朝日歌壇2019.1.20
  「雪は降っているかい」。病床の床に横たわり、何度もなんども繰り返される母との会話。
  母は届かぬ所へ行ってしまったけれど、深い雪の重さの中には、母の生活の匂いがこもっている。
  しんしんと降り続く雪を見つめ、母との思い出を反芻する。

母逝きてしみじみ想う吹雪く夜の納豆汁のづくりの味 
                                                …… 沼沢 修 朝日歌壇2019.2.24
  納豆汁の温かさがしみじみと迫ってくる。吹雪の夜は特に母の元気な時の様々のことが思い出される。
  失ってみて初めて分かる母の味であり、温もりである。「吹雪の夜」と「納豆汁」の対比が
  母への思い出につながる場景描写が好きです。

    (人生を謳う)       (2023.02.17記)

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする