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植民地朝鮮と満州国(続)

2015年03月01日 | 三千里コラム

表彰台の孫基禎と南昇龍(1936.8.9,ベルリン)


今日は「3.1独立運動」から96周年の日です。植民地の時代を行きた青年たちは、どのような心情で生きたのか...。今から79年前、ベルリンの郊外を疾走した若き朝鮮のアスリートたちに暫し思いを馳せながら、「植民地朝鮮と満州国」の続きをお送りします。(JHK)


日本の占領政策は「点・線・面」の政策といえる。「点」は占領地の主な駅だ。「線」は植民地支配の主要インフラである鉄道網である。鉄道が長い線となり、中間の諸駅を連結する。日本は、駅と鉄道路線の周辺に日本人移住民を定着させた。そして、駅と線路を中心に軍隊の活動半径となる地域を「面」と見なす。

「面」は日本の占領統治が支配力を発揮する空間である。主な駅を基点に通信網と行政機関、軍部隊などが入って行く。これらに依拠して、日本の企業家と商人、農民たちは新しい市場と土地の主人として、その地位を確立したのだ。満州で日本の鉄道網が広がることは、それだけ帝国日本の勢力が拡張されることを意味した。

「東京からヨーロッパ行き」列車に乗った日本人の日程は?

「満鉄」がスタートした1906年から日本が敗戦した1945年まで、中国北東部の満州にはクモの巣のように鉄道網が敷かれた。「満鉄」本線である「ハルビン-大連」間をはじめとして、南には北京と天津、北にはロシア国境地帯まで鉄道が敷かれた。「吉長鉄道」は咸鏡道の会寧まで連結されたし、そこから更に、清津(チョンジン)、雄基(ウンギ)、羅津(ナジン)まで続いた。そして奉天(ポンチョン)から安東(アンドン)までの「安奉鉄道」は、朝鮮の新義州(シンウィジュ)と連結された。

1911年、鴨緑江鉄橋の完工により、朝鮮半島を貫通して国境を越える鉄道が誕生したのだ。 日本人は、夢にまで描いた大陸への進出と理想郷、ヨーロッパに至る道を切り開いたことに感激した。“脱亜入欧”のスローガンには黄色人種の劣等感が滲んでいるが、「アジアを脱離してヨーロッパと肩を並べる」という日本の目標が、実現されたように思われたのだろう。日本人の自負心は溢れるばかりだった。

日露戦争の講和後、両国は正常な外交関係を修復し、「シベリア横断鉄道」を利用してアジアとヨーロッパをつなぐ大鉄道網計画を稼動させた。1911年以後、東京ではサンクト・ペテルブルクとベルリン、パリに行く連結乗車券を購入できるようになった。
 
東京からヨーロッパへの行路は、第1次世界大戦とロシア革命の混沌期を経て、第2次大戦・独ソ戦争が始まるまでの期間、活発に運行された。では、「西伯利経由欧亜連絡乗車船券」という名称のシルクロード乗車券は、どのような行路だったのか。順を追って出かけてみよう。

東京からヨーロッパに向かう旅行者は、連絡乗車船券を購入して新橋駅発の国際列車に乗車する。日本で国際列車として運営されたのは「さくら」、「ふじ」、そして‘七(なな)列車’と呼ばれた「第7列車」だった。「第7列車」は東京を出発して大阪を経由し、下関駅に到着する。旅行者は直ちに下関港に移動して、連絡船「7号船(七便)」に乗り釜山港に向かう。「7号船」を降りた乗客は釜山駅で国際列車「ひかり」に乗る。京城-平壌-新義州を経て、列車は鴨緑江を渡り国境を越え、新京まで行くのだ。  

新京は現在の長春であり、日本が建てた傀儡満州国の首都だった。新京駅には「703列車」が待機している。「703列車」に乗り換えてハルビン(哈爾濱)まで走る。ハルビンは、ロシアが「東清鉄道」を敷設してヨーロッパ風に建設した都市である。この都市でヨーロッパの香りを味わった旅行者は、国際列車「701列車」に乗って満州の原野を走ることになる。「 701列車」はハルビンから「東清鉄道」を走行し、西側の満洲里を過ぎてチタで「シベリア横断鉄道」に接続される。  

日本から「シベリア横断鉄道」を経由してヨーロッパまで行くには、三種類のルートがあった。①先に紹介した「第7列車」と連絡船「7号船」を利用して朝鮮半島を経由するルート、②満鉄の出発地である大連港まで船で移動し、大連-ハルビン間の「南満洲鉄道」路線を利用するルート、③ウラジオストックに行って、そこから直接「シベリア横断列車」に乗るルート、などだ。この三種類のルートは全て、東京を出発してから約5日後に、ようやく満州の地に足を踏み入れることができたという。

ハルビンやウラジオストックに到着したヨーロッパ行きの旅行者は、ここから覚悟を固めなければならない。満州からモスクワまで11日間、ずっと列車の中で過ごすことになるからだ。ベルリンに行くなら2日、パリには3日を、モスクワから更に走らなければならなかった。それでも、「シベリア横断鉄道」の人気は高かった。船に乗るなら1ヶ月半かかったし、経費も列車より三倍が高かった。列車の乗客は高波の恐怖に怯えることもなく、すさまじい船酔いの心配をしなくても良かったのだ。1940年3月~5月の期間、国際列車を利用した外国人乗客は、平均で120人余りに達した。

「シベリア横断列車」の最東端の出発地はウラジオストックだ。ウラジオストックから一時間余り走ればウスリースクに到着する。ウスリースク駅は分岐点だ。北に上がれば「シベリア横断鉄道」の本線に繋がり、約11時間の走行で東北ロシア最大の都市、ハバロフスクに着く。西に方向を定めれば、中国とソ連の国境警戒地点を過ぎ、ハルビンに到着する。この、ウラジオストック~ウスーリスク~ハルビンに至る道は、安重根(アン・ジュングン)が伊藤博文を射殺するために移動した経路でもある。  

青年ソン・キジョンとナム・スンニョンは、どのようにベルリンまで行ったのか?

「満州鉄道」と「シベリア横断鉄道」に乗った朝鮮人は、どんな人々だったのか? 亡国の恨(ハン)を胸に抱いた数多くの革命家とその家族たちだった。あるいは、様々な理由で祖国を去らねばならなかった民衆も、列車の乗客となった。そしてスターリンの強制移住政策により、一日にして生活の場から追い出された中央アジア移住民も忘れてはなるまい。だが今は、ある二人の旅行経路だけを追って行くことにしよう。占領国の国旗を胸に着け、オリンピックでマラソンを走ることになった青年、孫基禎(ソン・キジョン)と南昇龍(ナム・スンニョン)だ。  

ベルリン・オリンピックを控え東京で合宿訓練をしていた孫基禎は、口に合わない日本の食べ物に閉口していた。こっそりと外出しては、朝鮮味噌(テンジャン)、唐辛子味噌(コチュジャン)、キムチなどが出る朝鮮料理を買って食べたりもしたが、キムチと大根キムチ(カクテギ)だけは断つことに決心した。日本でも食べるのが難しい食料を、ベルリンではさらに入手し難いと考えたからだ。

孫基禎たちは1936年6月、オリンピック開幕二ヶ月前の時点で、選手団本陣より先にベルリンへと出発した。マラソンコースの下見など、現地適応訓練のためだった。彼らは東京から汽車と船に乗り、釜山に到着して京釜線でソウルに到着した。ソウル駅からは満州行きの列車に乗り換え、その後は「シベリア横断列車」を利用した。  

孫基禎の証言を聞いてみよう。以下は、彼の自叙伝『私の祖国、私のマラソン』に収録されている内容だ。  

“私たちが乗ったのは旅客用の汽車ではなく、軍装備輸送用の貨物列車のようなものだった。正規の旅客列車は一週間に二便しかなかったし、私たちが出発する日には便がなかった。列車は急に停車したかと思えば、予告もなしに発車した。一日中、麦畑の間を走る日もあれば、湖の側を際限もなく走る日もあった。”

孫基禎が“際限もなく湖の側を走り続けた”という場所は、イルクーツクのバイカル湖循環路線のことだろう。貨物列車に乗った植民地青年の旅程は、民族の運命のように疲労困憊するものだった。  

“鉄道は複線化作業の真っ最中だった。行く途中、他の列車と出会う度に私たちの汽車は駅構内で待機しなければならなかった。初めはそれでも見慣れない風景に気をとられたが、次第に見飽きた風景となり疲れるだけだった。…列車が止まっている間、硬くなった体をほぐすために、私たちは時おり線路沿いに走ったりしたのだが、これが大きな問題になるとは夢にも思わなかった。

 ソ連の役人たちは、私たちがソ連の鉄道事情を密かに調査していると疑って問い詰めた。 戦争の暗雲が立ち込めようとする時代で、各国は神経を尖らせていた。軍需品列車の機密情報を探ろうとしていると、誤解したようだ。モスクワ駅に到着したが、市内に宿舎を定めることもせず、二昼夜を列車の中で座ったまま過ごすことになった。…大使館からは10時過ぎまで朝食を持ってこなかったので、皆の不満がすごかった。運動選手は食事時間を厳守してこそコンディション調整ができるのに、佐藤コーチは私たちの不満をなだめるどころか、‘駄々をこねるなら本国に送還させる’と圧迫した。

 7月17日、2週間ぶりに漸くベルリンに到着した。ベルリン駅にはドイツ駐在日本大使館の職員たちが出迎えにきた。先発隊を迎えるやいなや彼らは、「なぜマラソンに朝鮮人が二人も入っているのか」と、不満をぶちまけた。半月間も苦しい列車の旅を経て到着したのに、こんな酷い挨拶を受けることになるとは、悔し涙がこみ上げてきた。”


8月9日、ベルリンのオリンピック・スタジアム。マラソンの決勝テープを切った選手は、日本大使館の職員たちが腹立たしく思った朝鮮人、孫基禎だった。日章旗を胸に着けた青年は、当時のマラソン記録で‘魔の壁’と見なされていた2時間30分台を突破した。

朝鮮の青年は2時間29分19秒の世界新記録でゴール・ラインを通過したが、両手を高く上げることも、明るく笑うこともしなかった。サイズが小さくてレース中、ずっと苦痛だったマラソン・シューズを脱ぎ捨てただけだった。笑顔で判断するなら、2位の英国選手ハーパーが優勝者のようだった。ペース・メーカーに徹して孫基禎の優勝を助けた南昇龍が、3位に入った。  

二人の青年は10万観衆の歓呼を受けて表彰台に上がったが、暗い表情のまま項垂れていた。朝鮮の青年たちは、国旗掲揚台に上がる日章旗を見ることができなかったのだろう。「君が代」が鳴り響き「日の丸」が上がる間、頭(こうべ)を垂れた孫基禎は、優勝者にだけ与えられる月桂樹の束を胸に抱え、ユニフォームの日章旗を覆った。

日本政府は彼の行為を不敬極まりないとし、その後に開かれた陸上競技大会には、孫基禎の出場を許可しなかった。二人の青年の快挙は日本を経て朝鮮にも伝わった。植民地の民衆は孫基禎と南昇龍の世界制覇に感激と誇りを禁じ得なかったが、その分、亡国の悔し涙も呑まねばならなかった。(完)