ひたすら生還を祈る家族(4.21)
韓国の旅客船「セウォル号」沈没から10日目を迎えた。事故現場を中継するニュース画面の数字は刻々と変動する。「死者」の数は増え、その分、「失踪者」の数値は減っていく。唯一、変化のない数字が「救助者=174人」の表示だ。
その間の経緯を見れば、174人を「救助者」と分類することすら憚られる。正確には「脱出者」と呼ぶべきだろう。傾く船から自力で逃げのびた人々をボートに引き上げたのであって、救助隊が船内に潜入して救い出した人たちではないからだ。
「救助者=0人」。これが弁明の余地なき現実である。政府がこの10日間にわたって展開した救助作業は、ただ一人の失踪者をも救出できなかったのだ。
事故当日、現場に駈けつけたチョン・ホンウォン首相は家族の激しい抗議を受けた。正確な事故情報を提供できず、迅速な救助作業の展開を指揮することもできなかったからだ。事態を収拾するために翌日、朴槿恵大統領が訪れた。大統領は対策本部の責任者に「被害家族にはすべての関連情報を提供せよ」と指示した。そして「救助作業に全力を投入し、皆さんの望むことはすべて実行する」と約束した。
大統領の説得を受け、わが子が無事救出されることだけを待ち続けた親たちのひたすらな願いは、今日に至るもかなえられていない。生存への希望が薄れゆくとともに、「朴槿恵は責任を取れ!青瓦台(大統領官邸)へ行こう!」という声が上がり始めた。だが、抗議行進は警察によって阻止された。
全国民が悲嘆にくれるなか、乗客を放置したまま素早く脱出した船長と乗務員たちが、世論の厳しい糾弾を受けている。朴槿恵大統領も4月21日、青瓦台での首席補佐官会議で「船長と一部乗務員の行為は殺人にも等しい」と断定した。大統領はまた、「今回の事故原因を徹底的に究明し、公務員としての無責任と不条理、過誤に対しては強く責任を問う」と述べている。
韓国の大統領はいつから、国民に対し「責任を担う立場」から「責任を追求する立場」に変貌したのだろうか。
今回の旅客船沈没が、社主と船長および一部乗務員の無責任な行動に起因することは言うまでもない。だが、乗客476名のうち、死亡:183名、失踪:119名(25日正午現在)という大惨事に拡大したのは、政府の初期対応における無能さにあったことは明白である。
朴槿恵大統領の政治スタイルは日ごろから、立法・司法・行政の三権に超越した存在として自身を位置づけるものだ。今回の惨事において、現地を訪問した際にも自ら被害家族と国民に謝罪の言葉を発しなかった。謝罪は首相や長官たちの役目だった。
無能な政府と切り離すことで自己の責任を曖昧にしようとするなら、国民の信頼は地に落ちるしかないだろう。韓国憲法の第68条4項には、「行政権は大統領を首班とする政府に属する」と明記されているからだ。
大規模災害の予防と対処に向け、盧武鉉政権は2004年に国家危機管理システムを導入し様々な規制を設けた。このシステムを李明博前政権は解体した。加えて朴槿恵現政権は、「行き過ぎた規制は企業活動を妨げる癌だ」として大幅に緩和した。その中には、船舶の安全に関わる規制も多数あったそうだ。
沈没した「セウォル号」の社主もその規制緩和を最大限に活用した。低賃金の非正規職員を数多く雇用し、老朽船舶の無理な改造で収容能力の拡大に奔走したのだ。船長を含め主要な乗務員の大半(17名中の12名)は、半年から1年契約の非正規職だった。正規職に比べ劣悪な雇用条件の彼らが、船舶会社から充分な安全教育を受けていたとは考えられない。
彼らに全責任を負わせ「殺人者」と罵倒することが、国家の最高指導者として適切な姿勢だろうか。問題の核心は「責任」と「権限」の不一致ではないのか。すべての権限は大統領が掌握しているのに、事故が発生すれば実務担当者が問責される。その結果、現場の公務員たちは自らの判断で動こうとせず、上層部の顔色ばかり伺うようになる。今回も事故現場の対策本部は、コロコロ代わる上部の指示に右往左往するばかりで、ほとんど機能していない。
朴槿恵政権に最も切実なのは、他でもない大統領の責任感だ。今回の惨事における根本原因を究明すれば、最終的には大統領官邸に行き着くしかない。沈没事故は船長が引き起こしたが、その原因として、国家の安全システム不備が指摘されるだろう。そして何よりも、人命救助という緊急任務は政府の責任と管轄下にあるからだ。様々な欠陥が露呈した「大韓民国号」の船長は、朴槿恵大統領、あなたなのだ。
以下に参考資料として、4月23日付『全国民主労働組合総連盟(民主労総)』の論評を紹介する。(JHK)
-責任を取ろうとしない輩に、根本的な診断を任せてはならない-
生還してほしいという切実な祈願を込めて、言葉ひとつにさえ慎重になっていた。しかし、無能で無責任な政府の対処、船会社の不道徳極まりない態度、政府高官と与党議員らの不謹慎なふるまい、責任者厳罰を指示しながらも本人は道義的責任にともなう一言の謝罪さえない大統領....。一連の無責任な姿を見ているだけでも惨憺たる思いに駆られ、憤怒を抑え難い。
それでも私たちは怒りに先立ち、何よりも失踪者の救助と被害者の治癒に社会的な力量が集中されることを願う。同時に、惨事の背景には構造的な原因があるという点を看過してはならない。この点を強調して正さないならば、再び悲劇を繰り返すことになるからだ。
しかし、最も大きな責任を負うべき政府と与党は、自分たちを非難する世論をどう回避するのか、その対策に汲々としている。それで「政府非難は不純勢力の扇動」という荒唐な反論もあれば、「デマを取り締まる情報統制の指示」すら出されている。このような政府と与党が果たして、まともな安全対策を整備できるのか憂慮せざるを得ない。
人や生命に対する責任よりも利潤を優先する企業は己の貪欲を効率性で包装し、より多くの「貪欲の自由」を要求してきた。そのような企業活動に依拠する政府と与党は、各種の特恵と規制緩和政策で彼らとグルになることを躊躇しなかった。だからこそ、先進国から廃船直前の船舶を買い込んで営業し、より多くの客室を確保するために無理な船舶改造を敢行した。そして、特別な規制を受けることなく過剰積載を日常化したあげくに、大惨事を招くことになったのだ。
また、高い職業倫理で乗客安全の責任を負うべき乗務員はもちろん、船長まで臨時職(非正規職)で採用したというのだから、「費用さえ減らせばいいのだ」という雇用システムがいかに嘆かわしいものか、実感させられる。
ところが我が国では、大型の惨事が発生するとその原因を「安全不感症」と診断しがちである。原因が曖昧な社会風潮のせいにして、問題の本質や構造的原因はそれとなく見過ごしてしまうのだ。
少なからぬメディアは「船舶会社が零細なので安全管理が行き届かなかった」と分析している。では、その会社が接待費と広告費にはいくらを使ったのか。零細性を問う前に、「安全は営業にマイナス」とする企業の認識そのものが問題なのだ。その結果、韓国はOECD国家のうち労災死亡率1位の国家になった。
もちろん、これからも大型惨事が発生してはならない。だが、3時間ごとに1人が命を失い、毎年2千4百人余りの労働者が死亡する残酷な労働災害の現実も、これ以上持続してはいけないのだ。
政府・企業・言論機関など社会の運営に携わる人々は、今回の惨事に対する深い省察を通じて根本的な安全対策を探さなければならない。ひとまず責任だけは免れようとする政治的な対応では、国民の不信と怒りをさらに増大させるだけである。この事実を、大統領から肝に銘じるよう願うところである。 2014.4.23. 全国民主労働組合総連盟