私がかすかに覚えている記憶。それは幼稚園の頃だったか、それ以前だったか、本に書かれている童話をよく、読み聞かせてくれたものだった。その本というのは、「暮しの手帖」という雑誌で、その内容のひとつに童話のようなものがあったんだと思う。今も童話があるかどうかはしらないが、雑誌は今も発刊されている。その雑誌を読むのが、母の楽しみのひとつだったかな。
小学生になると学校はもちろんあったが、 学校から帰ると、また近所の友達と集まって、日が暮れるまで空き地で野球をしたものだった。それでも、勉強をしろとは決して言わなかった。ある時、母は担任の先生から、私は勉強を舐めている、と言われたらしく、そのことを私に告げる目は寂しそうだったのを覚えている。小学生の低学年時代は漢字が好きで、数字も好きで、大抵の友達の名字の漢字は読めるようになっていたから。
ソロバン塾とか書道塾が流行っていて、野球をする仲間も、ひとり抜け、二人抜けと寂しい思いもしたが、母は決して塾に行けとは言わなかった。中学時代も、高校時代も、塾やお習いごとの教室に通うことは一度もなかった。中学生時代から、麻雀を始めたけど、友達みんなで家でやっても怒らなかった。しかし中三の夏が過ぎてから、これじゃ志望校がヤバイと言うことでしっかり勉強をするようになった。で、志望校の高校には合格できた。
高校1年の後半ぐらいから仮性近視になった。でもメガネをかけるのは絶対嫌だった。やがて本格的な近視になった。不便このうえない。なんせ黒板の字が見えない。ノートが取れない。成績はどんどん下がる。それでも母はなんにも言わなかった、と思う。ああしろ、こうしろ、口うるさいことは、あまり言わなかった。ありがたいことだった。今日は、母の11カ月目の命日。もうすぐ1年か。