さんでんじです。

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40数年ぶりに聞く、父の戦争話。

2009-09-13 16:55:10 | Weblog
先日、妻と一緒に父のマンションを訪れた。度々訪れては父の部屋で小一時間を四方山話で時間を潰すのだ。その四方山話の中で、私がトイレに立って戻ると、父は妻に戦争、つまり戦地に赴いた時の話しをしていた。私が小学生くらいの時によく聞かされた話だ。父は一兵卒として、今のインドネシアのハルマヘラ島に上陸した。父が24歳くらいのときだったという。本当はニューギニアに向かったのだが、行く手を阻まれてやむなくその島に到着したという。もしニューギニアにたどり着いていれば父は生きて帰れなかった。

上陸した島では椰子の木が青々として南国情緒いっぱいだったが、すぐにその島は猛爆撃に晒されることになり、椰子の葉っぱは吹き飛ばされ、木の幹だけが無惨に残されたという。そして父の口か出てくるのは死の話ばかり。とある日は、まず上空から爆撃がある。それがすむと、今度は低空から対地戦闘機が銃撃を浴びせる。航空機から銃撃を浴びせるアメリカ兵の顔がはっきりと見えたという。それが終わると再び上空から爆弾の雨が降る。

米機の襲来を避けるために、夜中に水たまりを探して米を研ぐ。日が昇って再びその場所に行くと、水たまりの中に爆死した日本兵が死んでいたという。爆撃の後は、至るところに遺体が転がっている。やがて、それらはたまらないほどの臭気を放つという。埋めるにしろ、島の土壌は硬い。火葬にすると、米軍の標的となる。いちおう遺体の遺骨を残すことにも尽力したらしい。最初は、腕だけを火葬に。次は手首だけ。さらには指だけ。それらを火葬にして箱に残しても、すべては空襲の爆弾でまた吹き飛ばされたという。

脚の太モモほどもある蛇。沼地に這い回るワニ。それらの野獣に襲われて亡くなった兵士も少なくない。何よりも補給が止まって食べ物がなったことが悲惨さに輪をかけたという。食料がないから、池に手榴弾をぶち込んで浮き上がった魚を食べたり、木の根っこなどもかじったという。父はそれで、歯をなくした。したがって戦闘よりも病気で亡くなる兵士も多かったという。

父の話は、まだまだ続きそうだ。しかしそろそろ陸の散歩。私は、父の話を遮って、もう散歩の時間だから帰ると告げた。死の淵から帰り着いた父。だから今の私が存在してるんだろうけど。子供の頃は、なんかお仕着せがましい話しに聞こえた。でも私は零戦や隼、戦艦大和がかっこいいと思ってプラモデルに夢中になった。50代半ばを過ぎて、体験のない私が過去の戦争をどう振り返るか。やはり父の話にもっと耳を傾けなければ。

ネットで調べると、1944年に9月15日にハルマヘラ島の北東にあるモロタイ島に米軍が上陸した。数日で航空基地を完成させたとある。その基地からは、主にボルネオ島に空爆に行ったようだ。そして落としきれなかった爆弾を、ハルマヘラ島の日本軍基地に落としたらしい。この時点で補給船による食糧輸送が止まったとある。戦地から奇跡的に生きて帰って89歳になる父。60数年前の残酷な記憶が今も父の中に生きているから。


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