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経済に答えがあるのか?

2020-03-18 | 学問
 3月18日 水曜日

 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


社会秩序についてのきっぱりとした原理を説明することは、

それがどの様な原理であっても今日ではほぼ間違いなく、

生存競争やゲーム理論という激しい論争が繰り広げられている。

それは権力を持っている人々が、

それを持ったり用いたりすることを好まない個人に対して、

大農園で働く非常にやさしい心の労働者が、

鞭打つ主人の仕事を引き受けるそれと同じである。

個人の知識の制限の自覚から、どの個人も集団も、

誰かに知られていることの全てを知ることは出来ないという事実から、

個人主義はまたその主たる実践的結論すなわち全ての強制的ないし、

排他的権力を厳しく制限されるよう要求する。

個人主義の理論は適切な法の枠組みを構築しかつ、

自発的に生成してきた制度の改善や技術に対して、

一定の貢献をすることが出来るが、個人主義の強調点はもちろん、

我々の社会秩序の内で人間理性の感謝的産物にすることが出来る部分または、

そうすべき部分は社会の全ての力の内の小さい部分に過ぎないという事実にある。

個人主義的秩序は特殊な指令の強制ではなく、

象徴的原理つまりウィンウィンに基づかなければならない。

そうだとすると、我々が必要とする一般的規則の種類の問題は、

まだ、そのまま残されている。

あらゆる社会的過程の金融統制へ向かう漸次的傾向が、

全てのものがきっちりと計画され認知できる

見えるシステムを作らなければならないと言い張る方法的態度、

その結果による事実であるならば漸次的傾向が

金融統制の秩序と安全を保持しうるような、

条件を創り出す傾向のあることもまた事実である。


国と国との特殊な状況下についての経済の重要性を、

出来る限り忍耐強く評価するのが日銀の流行のようだが、

変化というものの重要性を今後は認めない限り、

グローバル経済は堅く結び付くことはないだろう。

社会活動とりわけ経済問題は主として、

国と国との特殊性における急速な対応に

問題があることを我々が同意できるとするならば、

最終的な決定はそのような事情を熟知している人たちに

重要な変化とそれに応じるための直ちに入手できる

資源を直接知っている人たちに委ねられるべきである。

我々がこの社会で出会うべき問題の数々は決して、

経済だけの固有なものではなく、

そのほとんどが全て真に社会現象としての、

我々の飽くなき欲求および大部分は

歴史的産物に関して生じるものであって、

まさしく全ての社会科学の中心的理論を構成している。


複雑な経済における合理的金融システムが、

不可欠かどうかについてのAI導入が試されていないが、

相異なる金融見解を論じる陣営の問題だけで行われないだけでも

多くの点で幸いだと言えるだろう。



    つづく。





仁義なき経済に対するワクチン治療。

2020-03-17 | 学問
 3月16日 火曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


経済に新しい存在次元を附与された場合、古い理論は使えなくなる。

経済に欠けた最大のものは利己的な欲求に他者を結び付ける利他である。

自らの利己の方向性が利他に結び付く時、仕事への情熱が沸き上がる。

逆に、これが欠けた毎日の仕事では、

退屈で無気力になったり自己中心的な行動へと向かわせる。

社会の実践的生活に直結する限りにおいて、その意義を持ち直し得るのは、

利己行為だけでも利他行為だけでも長続きしないのが現状だ。

利己と利他の一致。それらバランスが労働意欲として情熱と不眠不休への結果となる。

この社会活動で生き残る為に従うべき柔軟な姿勢は、

私たち人間性の中から生まれるものでなければ安定は難しい。

社会理念や共感できるビジョンをどれほど巧妙に改善を繰り返しても存続が困難なのは、

いかにも利己と利他による真の適応度に問題があるからだ。

その適応とは認識ではなく実在であり、脳は認識出来ないものには関係を築けない。

適応者を実践する際に必要なのは利己と利他による認識であり実在である。

利己と利他が同一の原理だと結び付くまでは、利益の安定を得ることはないだろう。

適応度は原理的に認識だから収入確保は、利己と利他によて初めて可能となる。

なぜなら、収益を侵害するものは内部にはなく、外部が常に立ちはだかるからだ。

あらゆる社会現象は知的なものであれ、搾取的なものであれ、博愛的なものであれ、

利己と利他による欲求には違いないのだが、

自己愛と隣人愛それらの出現によるバランスで初めて安定する。


現代の成功は、他者が失敗するという代償によって得られている。

よりどちらがその場で適応度が高いかによって出費と利益が出されている。

必ずしも競争と公平は共通とは言えないが、

人を不当に差別扱いをしないという点においては

競争と公平は同じ美点を持っている。

誰も運、不運をコントロールすることはできないからだ。

日本の場合、

有能な経営者ほど利益の最大化を追求するのが鉄の掟だ。

利益を上げられない経営者は罪人だと教えられる。

その考えではある程度の犠牲は仕方ないことになる。

そんな暗黙の価値規範は競争原理によって

徐々に過激で過剰なサービスへと進んでいく。

日本のおもてなし文化に対するモラルハザードは、

結果を追い求め過ぎるゆえの過剰なビジネスモデルへとドンドン発展し、

実際、そのサービスの4分の1にしか知恵が無く、残り4分の3は自己犠牲だ。

必要なサービスとは役に立つものであって、非生産的な想像ではない。

サービスの対価は労働力の成果によって決まる訳ではなく、

価格と消費によって決定されるものである。

サービスをそのまま自由奔放主義に委ねては、

長期的に見て労働対価を正常な状態に保つという想定は明らかに非現実的である。

現代商法は過度に進んだ経済活動にこそ問題があるように、

サービスが長期的に安定するには(発展は一先ず置いといて)、

限定的だが必要に応じた社会主義の理念を取り入れる必要があると考える。

行き詰った経済にとって社会主義の「良いところ取り」が

自由主義経済にとってはカンフル剤となるだろう。

プロレタリアの平等を求める要求の真の内容は階級社会の廃止はもとより、

労働対価の正当性にあるからだ。

また、アインシュタインの相対性理論によると、

物質とエネルギーは交換可能であるように、

自由主義と社会主義は交換可能だ。

ケインズが言うように、

競争の欠如は根本的な問題ではない。

必要なのは政府の積極的な介入だ。

社会が長期的に安定するには、

必要に応じた政府による経済への介入を選択する必要が生じる。

もししなければ、国民を裏切ることになるだろうと。





   つづく。



絶滅か、進化か。誰が生き残るか?

2020-03-16 | 学問
 3月16日 月曜日


 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


三葉虫は生まれて消えていった。

ティラノザウルスも生まれては絶滅した。

全ての種の99.9%が生まれては絶滅していったことをよく考えてほしい。

気を付けなければならない。

貴方が最善だと考えるその行動がもしかすると、

社会全体を絶滅へと連れ去って終うような恐ろしい

連鎖を引き起こす引き金となるかもしれないのだ。

それは、誰であろうと予言することはできない。

気を付けたほうがいい。

しかし、歩き続けるしかない。

貴方は他に選ぶ道が無いのだ。

出来るだけ賢明な一歩を踏む出すしかない。

そして貴方が実は何も判っていないということを

認めるだけの知恵を忘れてはならない。

私たち全体が出来るだけのことをしても、

それは単に最終的な絶滅の条件を整えて行くだけであり、

新しく誕生する生命や生き方への道筋を作り上げているに過ぎないのだ。

極端に楽天的な世界も、その逆の絶対服従を強いる世界も存在しない。

我々が常に考える現実がただそこにあるだけである。

最善を尽くそう!

貴方も結局はこの繰り返しの生活の中で、

絶滅危惧種たちと一緒に歴史を刻んでゆくことになる。

いずれにしろ、失敗に終わることが判っているのに

挑戦し続けるとは、なんと大胆な冒険だろうか!

それでは貴方に素敵な人生観を教えてあげよう。

ベストを尽くしなさい。

決められた時間に目覚ましが鳴り、

朝食を抜いて満員電車に飛び乗り、

大して役立つか解らないことを一生懸命やって、

他人の目を気にしながら自らをアピールし、

共に過ごす一時期の仲間と愚痴を言い合いながら、

今日という日が過ぎ去ってゆく。

そして一日の最後に貴方は何を得るのか?

苦労の中でのほんのひと時の安らぎである。

なんと厳しい現実か!

それでも世の中の総ての生命体にとっては、

それが精いっぱいのことなのである。

実社会を見てみよ! はっきり言って、

政治、経済、人間関係、その中心にある慣習はどれも、

完全に今、行き詰っている状態ではないか!

経済の健全さが社会に貢献する確かな根拠がどこにあろう?

私たちは進化をありのままに見て感じとり、

それがどうやって願うかを想起し、どのように働くかを見直して、

自由で平等な環境を創り出すことなしに生き残るための、

そして私たち自分本位な思考を動かす何かをその目で見ない限り、

絶滅の影響下に社会があることを今や受け入れるしかないのである。

進化が利用できるものは何であれ、利用して良いのだ。

それでも進化の最前線に立つ人類は上手くやっている。



   つづく。


「利己的ジーン」と「利他的ミーム」との比率とバランス。

2020-03-15 | 学問
 3月15日 日曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


人間の脳は進化によって出来た器官である。

それは突然変異によって進化した遺伝子進化論だ。

そんな二重らせんである遺伝子には、

異なる二つの性質が備わっている。

適応という名の 「利己」と「利他」 だ。

好むと好まざるとに関らずに、

我々はある意味 「二重人格」 であるのだ。

問題なのは、その異なる二つの比率である。

極端な偏りは、又は、どちらか一方だけでは、

どちらも自然淘汰の対象となるのだ。

生存闘争に勝ち抜くためには、

どちらも必要で必然というわけである。

だからといって、

バランスが整った平均状態は死を意味する。

なぜならラプラスの言うように、

「平均値は差がものを言う、差のない平均値に意味がない。」

熱力学によると、平均とはでたらめであり、適当は平均を意味している。

50:50の比率では何らかのトラブルが生まれて上手くは行かないだろう。

遺伝子進化論とは、

相対的な二重らせんであって、対立ではなく、協調でもない。

繰り返すが重要なのは、比率である。

「利己的ジーンと利他的ミーム」この二つを交互に前進させてゆくことが重要だ。

ジーンだけでも、ミームだけでも空回りして前進は見込めない。

最適者とは、

「自由、平等、平和、幸福の追求」とい人類のビジョンに向かって、

一歩一歩進化する者のことを 「適応者」 と呼ぶ。

なぜなら、

正しい理念その方向性に向かわせる能力こそが「適応度」だからだ。

逆に、自然淘汰の対象に選ばれるのは、

「80:20」では、危険人物と承認され、

「90:10」では、死に至る。

どちらにせよ、過度の競争、闘争、報復、

そして共生、団結、友愛には、

バランスを失った適応度、それはどれも自然淘汰の対象なのだ。

多かれ少なかれ、私たちはみな

二重らせんの遺伝子を備えた二重人格者といえるのである。

これが遺伝子進化論の結論となる。

人類の目的はどこにある?

最適者なのか。適応者か。その適応度とは・・?

一体私たちはどう、振舞えば良いと言えるのか?

一度、考えてみようと思います。


パターンA.

挑戦するのは利己的ジーン。挑戦を楽しく変えるのが利他的ミーム。

自分の賢さを得意げに話すのが利己的ジーン。その話を謙虚に聴くのが利他的ミーム。

他人に命令されると反抗する利己的ジーン。ひと息ついてホッとさせる利他的ミーム。

怠け者を見つけると虐めたくなる利己的ジーン。そんな怠け者を甘やかす利他的ミーム。

人を押し退け打倒しようとする利己的ジーン。共存共栄を理念に掲げる利他的ミーム。

恐れを知らない一匹オオカミが利己的ジーン。仲間と一緒にいたいと思う利他的ミーム。


パターンB.

過去の失敗を後悔する利他的ミーム。障害を突破するまで諦めない利己的ジーン。

失意の底で傷を舐め合う利他的ミーム。困難の前で怒りをぶつける利己的ジーン。

無抵抗なまま人に譲る利他的ミーム。自分が一番だと競争心を掻き立てる利己的ジーン。

頼まれると断れないのが利他的ミーム。難なく「NO」を言う器量の大きな利己的ジーン。

偽って自分を犠牲にする利他的ミーム。他人を追い抜く喜びを感じる利己的ジーン。

協調を信じて自分の方針を捨て去る利他的ミーム。最後まで我が道を行く利己的ジーン。


考えられる限り書きたいのですが、時間がきました。


   つづく。


私たちは共に「プリン」である。

2020-03-14 | 社会問題
 3月14日 土曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


日本で暮らす在日日本人たちは中途半端な存在だ。

私は彼等を、

日本に生まれて日本人になれなかった「ゴースト」と呼んでいる。

そんな「さまよえるゴースト」を傍観しているのが日本政府だ。

そんな政党を「ビビり党」と呼んでいる。

これではいつまで経ってもロストロスト・ワールドだ。

バブル崩壊後から長引く失われた30年が今後も続くと予想される・・・。

現実を直視できないお花畑日本人と、

中途半端なゴーストとの生活の中での衝突と対立。

いい加減に目を覚ませ。

そうだ! 私に良い考えがある。

さまよえるゴースト達を日本人のブランドに変える良いアイデアがある!

在日日本人をブランド化できれば、双方にとってウィンウィンの関係だ。

問題なのは、誰も私の話に耳を傾けないことである。

一体だれが何をそんなに恐れているのか分からないが、

その恐れは意外にも感情による思い違いであることが多い。

人生二度なし。たった一度の人生である。

さまよえるゴーストとして犬死するか、

日本人のブランドとして人生を全うするか。

殻に閉じこもって後ろ指を指されながら生きるか、

世界中に誇りを示して輝いて生きるか。

さあ、どうする?

いいかげん、見てみないふりをするのはもう、よそう。


私たちは「プリン」のようなものだ。

だが、自分のプリンは自分では食べられない。

お互い相手のプリンを味わうことしか出来ないのだ。

いがみ合った状態の中では、誰がプリンを食べられようか?

しかしそれではプリンを腐らせてしまうだけである。

どんな相手なら、貴方のプリンを与えられるのだろうか?

貴方のプリンと私のプリン、混ぜっこし合っても良いだろう。

貴方が先か、私が先か、論じ合うもの結構だ。

プリンが美味しいのは、

私が在日で貴方が日本人だからうまいのではなく、

私が高価で貴方が貧しいからうまく行かないのでもない。

運が悪いからどうしようもないのでもなければ、

たまたま日本に生まれた悲劇でもなんでもない。

プリンが美味しいのはただ感謝にあるのだ。

貴方の持ち味、それは与えてこその長所でありブランドである。

人生は捨てる修行だという。

囚われているものから離れること。達人の領域だ。


最後に一曲。

♬~「お~うお。君とだけ、プリン」

♬~「お~うお。食べたいな、プリン」

♬~「お~うお。甘いキス、プリン」

♬~「お~うお。その後は、プリンing」~♬。


   つづく。


命日での祈りを続けます。(いずれ主が私に微笑みかけられるその日まで)

2020-03-13 | 
 3月13日 金曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


主よ。お許しください。

二千年間もの長きにわたり神の子イエス様に

十字架を背負わせた罪深き子羊たちをお許しください。

主が、お望みであるなら、蒼白い馬に乗り、口から刃を突き出した、

七人の天使を引き連れた神の使いをどうかこの世界に示されよ。

そうでもしなければ子羊たちは、

愛すべき主を永遠に十字架に縛り付けて、

信者に誓いを祈らせるのです。

主は、それをお望みであるはずがありません。

主は、言われました。

「むなしいものに魂を奪われ、欺くものによって誓いを立てる」と。

心に思うままに、主よ。われらが父よ。

この世で従うべきはただ一つ。

心を呼び求めることをしない者よ、

それ故にこそ大いなる苦業を味わうがよい。

絶えず死の縄が絡みつき、奈落の激流が人々をおののかし、

黄泉のしもべが世をめぐり、苦業の仕掛けが張り巡らされ、

大地は地獄の業を示し、昼は飢え、夜は震え、

知ることは空しく、絶えず死に脅える。

私は心を尽くし、主に感謝を捧げます。

地獄の門から私たちを引き上げて下さる方よ。ご覧下さい。

心ある方よ。今や目覚めよ。地を治める方よ。諭を受けよ。

畏れ敬って神に誓い、おののきつつも喜び歌え。

人に口づけを。自然の憤りを招き道を失うことのないように。

救いは何処に。この世界が神と共にありますように。

主よ、偉大にして畏るべき神よ。

主を愛し、神の戒めを守り、苦業を示される精霊たちよ。

この地に堕ちた迷える子羊たちの祈りにどうか耳を傾けて下さい。

私たちは神のお望みのままに、この世の苦業を畏れ従っております。

願わくば神よ。どうか今、

主を憐れみ続けた者たちに天の裁きを。ヨハネの黙示録を。

今この時、我らが神よ。

無常にして反抗など許されない畏るべき神よ。

神は我らに命と死をお与えになる方。

天の采配は、神に伏して拝む以外にないのです。

天にまします我らが神よ。

あなたのお望みを我らに示し、従うべき光をお与えください。

世の企てはとこしえに深く、

黄泉の計らいは代々に続く。いかに災いなることか。

主が導かれた使徒たちはみな、

憐れみを招き、世界に苦しみをことごとく与える。

主が、お救いになる魂を、

いささかもなく黄泉へと導いてゆく。

主よ、私は信じます。

この世界で苦業の恵みを見ることを。

主を待ち望むことはせずとも、

この地で雄々しくも、魂を磨き高める。

いずれ、神の元へと待ち望むその日まで。



    つづく。



地震列島ファミリー。

2020-03-11 | 日記
 3月11日  水曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


「3.11」 は日本にとって

とりわけ東日本にとって人々に大きな衝撃を与えた日である。

悲鳴が聞こえた大地震のさなか、

想像を絶する高さの津波が襲来した。

それによって引き起こされた

福島原発事故による放射能汚染は日本中を震撼させた。

それよりもさらに驚かされたのは、

未曾有の災害に見舞われた被害地で見せた災害復旧支援による利他的行為である。

私もその中の一人だった。

世界の人々を驚かせたのは放射能汚染などではなく、

これほどの災難に直面しても日本人が整然と秩序を守り、

略奪の類がほとんどなく、日本中が困難を分け合い、

様々な個人や団体や関係者が

無償で労働、お金、生活物質、製品、機械設備を提供したことである。

全国から多くの支援者が駆け付け、共に汗を流したことである。

そこには利己的と呼ばれるものはなかったことである。


当時、

私も愛読していたマイケル・サンデル氏の「正義(ジャスティス)」の中には、

人間は本能的に自己の利益を追求する存在であり、

社会全体にとっての幸福は功利主義的な行動の総和として損得勘定が働いているというものである。

つまり自らの利益が集団の利益になるということである。

米国にハリケーンが災害をもたらした時、2㌦の水が10㌦で売られ、

一泊40㌦のモーテルが160㌦を請求するという事態が起きた。

州法律は便乗値上げを禁止する法案を提出したのに対して、

一部の経済学者は便乗値上げは正当な経済行為であり法で禁止することは違法だと抗議した。

確かに「血が流れたら買いだ」とする理論は間違いではないだろう。

ところがである。

なにがそれほどまでに世界中を驚かせたかというと、

東日本大震災に際して、多くの日本人が誰かに強制されることなく、

自ら率先して利他的行動をとったことである。

利己的行為が許されてもよさそうなさ中にである。

以前、

日本人は無宗教で隣人愛が無いと言われたことがあるが、

逆であろう。

利己的な民族にはそれが見えないだけである。

東日本大震災で見せた行動はまぎれまなく隣人愛だった。


翌年の春。

仙台市の六丁の目の仮設住宅で天皇陛下をお見かけした時、

はっきりと感じた。

日本人は利他的行為を実現させる隣人愛ある民族だということを。

そこには利己的な裏切りやデマ、自己中心的な搾取などなく、

仲間が一緒になって力を出し合い働いた利他的空間であった。

私はそんな日本人を誇りに思った。




    つづく。


「個人主義」 + 「集団主義」 = 「適応者」

2020-03-09 | 学問
 3月 9日  月曜日

 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


社会経済の進歩は、

競争原理によって徐々に過激で過剰な生産性を糧に、

そこから「生産の為の生産」「消費の為の消費」「成長の為の成長」が

繰り返されてゆくその中で、「幸福の為の幸福」のはずが、

いつしか「システムの為のシステム」へと変わりはじめる。

過去、動物と同じく人類は生き残ることで意味をなしていたのだが、

現代、それらを全て発展させた状態をひたすら受け入れるしかないにしても、

今後、一人一人が最適者として適応してゆく以外に生き残る道はないだろう。

将来、社会に支配されたくなければ、他人にコントロールされたくなければの話だが。

確かに自由主義は素晴らしい。賛成だ。しかし問題点もある。

自由主義の基本原理はそれを一定不変の法則たらしめるようなものを

なに一つ示されていなければ、決定的な方法も規則も何もない。

言い換えれば、悪用のオンパレード、やりたい放題だ。

ルールがないところに反則はない。


民主主義は、個人的自由にまで拡大させているが、

社会主義は、個人をコントロールすることに長けている。

民主主義は、お金の価値を個人にまで認めているが、

社会主義は、個人のお金を駒の一つだと考えている。

それでも、

両者の間には「平等」という一つの共通点が存在する。

しかし、

民主主義は、自由の中にそれを見出そうとするのに対し、

社会主義は、干渉と命令の中に求めようとする。

結果がどう出るかは、どうしたいのか。プロセス次第だ。


集団主義と個人主義ではどうだろう?


社会に貢献する個人こそが集団主義で、

集団にありながら何もしないのが個人主義。

集団による役割を果たすのが個人主義で、

個人の能力を出し合うのが集団主義。

集団によって短所を補うのが個人主義で、

長所を掛け合わせようとするのが集団主義。

最悪なのは、

怠け者の個人と、足を引っ張る集団それと、

集団を混乱させる個人と、怠惰な集団だろう。

社会主義 - 平等、保護、組織、理想、分配。

個人主義 - 平等、機会、自由、現実、競争。

集団と個人との強度では、

巨大な集団レベルは個人主義に比べてレベルが低くなるように、

鎖の強度は一番脆いところで引きちぎられる。

団結が強さなのは認めるが、細分化すればレベルが下がるものである。

それを補う関係性が集団主義と個人主義とのウィンウィンだ。

なぜなら、

社会主義と個人主義が「平等」という同一の源泉から発している以上、

「平等理念」の追求は、我々の生きる道となり得るからだ。

それゆえに相反する主張をぞんざいにしてはいけないことになる。

そこには何らかの調和が秘められている可能性があるからだ。

バランスを求める者は集団に属し、

極端な論理を押し付けるのは個人に属す。

社会的自由は、経済的自由が無ければ持続可能ではないし、

経済的自由は、選択権を所持してその責任を負わなければならないように、

経済と責任 - 最も強い動機 - 自由への渇望 - お金による欲求。

それらを満たすための新しい取り組みが今、求められている。



    つづく。


進化による報酬は偶然か必然か。

2020-03-07 | 学問
 3月 7日 土曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


偶然か、必然か。科学的相互作用か。

遺伝子構造は200個のアミノ酸を含む一個のタンパク質の配列順度が

正確に解っていても、それらの構造は偶然なものだという。

生物体の本質は盲目的であり、進化は翼を得た偶然であるそうだ。

遺伝子進化論は本来、

全人類を縛り付けている鎖から解放する為の方法の中で、

企てて社会の眼を晦まし世人を惑わすことに長け、

それをライフワークにする一部の人にだけ役立つものでは決してない。

実際、鎖というのはどんなに丁寧に磨きたてても身に付けるには不快であり、

結局は、自分自身でさえ手に負えずに自らの鎖で縛られることになる。

自然が爪と牙を血に染め、情け容赦の無い生存競争の真っただ中で、

最も気前の良い隣人愛の行為が何故? 過酷な自然淘汰を生き延びたのか。

利他的行為が利己的行為と共に進化してきたのであれば、

そこにはきっと何らかの目的が適っているからであろう。

その秘められた目的が明確になるなら、

適応者を測る尺度として自己犠牲的行為が個人的な利得にも通じる道が見えてくる。

相対的に見ても利己には利他が無ければ、又は利他には利己が必然で必要となる。

それが何を為すのか。また何を為すべきか。

選ばれた個体としての利己と利他。進化をもたらした理由。そして最適者。

利己的ジーンと利他的ミームは共に、

生きる上での何らかの利益を袖の下で分け与えられているのだろう。

欲望と仕事。社会貢献と自己犠牲。自己愛と隣人愛。それらの比率。

あらゆる結果がその個体にとって有益であるなら、

突然変異はそれ自体、害を成すものではないはずだ。

もちろん、自己犠牲にも幸福という分け前によって利益を得ている。

ダーウィンの名著「人間の由来」によると、

「下等動物の場合と同じく、間違いなく共同体の幸福のために獲得された人間の社会的本能は、

 最初から仲間を助けたいという欲求や同情心を人間に多少なりとも与えられていた」という。

いつまでも生存闘争が自然法則だと言っていては、

第二のヒトラーを再び生み出すことになりかねない。

報復に次ぐ報復が絶望の科学の代名詞だとすれば、

自然法則を前には、誰も逆らうことができないだろう。

進化は常に環境に適応しているにせよ、

偶然による報酬か。必然的な報酬なのか。

いずれにせよ、何らかの報酬が約束された結果なのだ。




     つづく。





ヒエラルキー

2020-03-06 | 学問
 3月 6日  金曜日

 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


ダーウィンが話すには、

「地球に現在生息している生物はどれも、

 それぞれの進化の過程において最先端に位置している。

 さもなければ、既に絶滅していたはずだ。」と。

ヒエラルキーの形成 - 

単純に言えば「強者による支配」または「ジャングルの掟」は、

自然発生的に生じるものだと主張する。

この考えに従えば、

人間も同様にこの掟からは逃れられないそうだ。

なんでも、

能力の優れた者が能力の低い者の上に立たなければ集団が維持できないと断言する。

はっきり言はせてもらえば、

この考えは人間関係を提起している訳ではなく、

問題解決どころかさらに混乱を招きかねない。

一部の権力者が社会全体の統率を行うヒエラルキーは、

動物の世界の中でもごく稀である。

そうしたヒエラルキーが強く感じられるのは、

上から目線で社会を見ているからだ。

平等社会においてあるまじき行為だ。

実際、私たちの思考は自分に解る範囲でしか識別されず、

また、感情だけなら感情のみでしか判断できない。

もちろん、「ジャングルの掟」も動物進化論による認識に過ぎず

原始的な旧進化論と言わざるを得ない。

問題なのは、

こうしたヒエラルキー構造が人類史においても、

そればかりか日常生活の中でさえも至る所で機能している点である。

これをマルクス・エンゲルスは階級社会と呼びかけた。

自由を志す者にとっては、

命令されない方がより正しい選択が可能であり集団としても効率的なのだ。

集団行動について生物学的観点から行われた最近の研究によると、

多数による決定はほとんどといって良いほど少数の決定より優れている。

いつの時代も、複雑な社会問題を見事に解決する集団の能力には驚かされる。

それと同時に驚いたのは、

ヒエラルキーの中には自己愛しか見当たらずに、隣人愛が欠如している点である。

つまり、階級社会とは隣人愛の無い社会構成だと説明できる。

ヒエラルキーの構成は自己愛だと。

そう考えると、

過去の進化論に莫大な影響を与えた生存闘争が、

認識違いであったと結論付けられるのである。

人類が犯した過ちの一つがまさにこれだ。

ダーウィンやスペンサーが話す通り、

「生存競争が最終的には幸福に繋がる」とする考えは、

100年前の苦しみが100年後の幸福さが増大することで報われると信じたその結果、

過去の消せない歴史が現代のグローバル社会の苦悩を増幅させているのである。

激しさが増す生存競争の中で、

憎しみが示すグローバル化の中で、

現代社会の苦悩はいまだ増すばかりだ。




     つづく。



遺伝子進化論

2020-03-05 | 学問
 3月 5日  木曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


生命体は、と言っても、遺伝子を持つ生命体は、

自らの生存のために行動する時や、

自らの存在価値を守るために、

また、自らの潜在能力を発揮するためにも、

自らの遺伝子を使用する。

だからといって、

生命体は自分のためにだけ行動しているわけでは決してない。

行動するのは、

自分と自分が属する種とを結ぶ歴史の軌跡を守るためにも行動する。

これこそが、他者との関係でしか実現出来ない究極の目的だ。

リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」を読めばそれが解る。

とても重要な本なので紹介したいと思います。

生命を有する個体がおくる一生は、

その個体を一つの乗り物として通り過ぎていくものである。

同時に、その個体が本質的に有しているものでもある。

これらの自己は全て他者との仲間意識において属性が確立されており、

それだけに自分一人だけでは確立されないのだ。

個体のそして血統の属性は種の系統に位置し、

生命の再生のプロセスで永遠に維持されてゆく。

どんな属性の情報も遺伝子レベルで保有され受け継がれてゆく。

種は長い年月を経て、

遺伝子的に再び復元され別の次元へと引き渡される生物学的属性だ。

ー 私 - 私 - あなた - あなた - 私 - という風に

属性は必ずしも単一体の生命体やモジュール体の生命体だけに付属しているわけではない。

時を経て、個体のパターンとして残されることもある。

個体は種に従属しており、その逆は無いように個人は集団に属している。

目的が何であれ、コード化されている遺伝子には、

明らかにそれを次世代へと伝える個体の所有者であると同時に、

種の所有物、集団の一員なのだ。

つまり、遺伝子は一人で生きていてもあまり意味がないし何も起こらない。

機能する集団が無ければ遺伝子は無意味なのだ。

遺伝子は環境と相互作用して初めて遺伝子たり得る。

関係性の無いところに生きている意味はない。

遺伝子は確かに生命体をコントロールしているが、

環境次第によって情報入力を利用するそのシステムは、

私たちが考えるよりずっと複雑で面白い現象だ。

厳然たる社会現象を受け入れるためにも、

自由と安全、生活の質、社会を通じてどんな地球に住みたいか。

戦争か、平和か。

これは科学か。それとも思想か。

進化においては、

使えるものは何であれ使えるだけ使ってでも、

21世について議論を継続する必要があるのだ。



     つづく。



道徳の善悪(モラルハザード)

2020-03-04 | 学問
 3月 4日  水曜日

 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


歴史を紐解けば、

人類は「徳」について深く思いを巡らせてきた。

ソクラテス、カント、聖徳太子、佐藤一斎。

それは人を欺く行為と共に受け継がれてきた。

人が善悪を知る者になることを神が許しを示したとしても、

悪徳によって善悪を知らなかった者が

善悪を判断する身になったとしても、

幾つもの答えに窮する問いが残されている。

宗教家は道徳を神の教えだと説き、

学者は哲学を修士して社会が発展したものだと信じた。

今や、両者とも歴史の事実を再確認しなければならなくなった。

道徳によって一体だれが得をするのか?

個人か、集団か。道徳はウィンウィンか。

その問いかけに対しての答えが共同体にあるというのが、

ベンサムの言う最大多数の最大幸福論だ。

社会に文明をもたらした人間にとって、

有効な道徳と同じ原理に基づく愛の力も、

功利主義が幸福をもたらすことは可能なのだろうか。

確かに子供には愛が無い。あるのは感情だ。

感情では善悪の判断がつかないために

道徳教育が善であることには同意できるが、

気を付けなければならないことがある。

道徳を命令に変える悪徳の存在だ。

そんなヤツらは自らを必要悪だと認めている。

現代の社会は改めて「いったい何のために?」といった、

哲学的な問いかけを思考しなければならない時代なのである。


道徳の善悪をどの様に見分ければ良いのか。

道徳の第一原則ともいうべき、

「己の欲せざる所、人に施する勿れ」

「汝が欲せざることを、他人になすなかれ」

これらから始まる 「修身」 とは精神教育であり、

その精神は文化に発展する 「まじめ」 である。

仁 - 隣人愛、自己愛。
義 - 道理に適う、筋道が通る。
礼 - 感謝に勝る能力なし。
智 - 人の幸せは脳に比例する。
信 - 責任、言行一致。

道徳研究はまだ始まったばかりなのです。


自らが道徳によって騙されないためにも、

正しい道徳を修身することは何よりも 「顔」 に現れる。

なぜなら、

見る人が見れば一瞬で善悪を見抜くことくら容易いからだ。

道徳は万人向けであって命令的ではなく平等であるはずだ。

だから、相手の道徳に悪意を感じ場合、

言い返さなければ上下関係、ヒエラルキーが成立してしまう。

そうならないためにも、例えば

老人が若者に道を譲れといった場合、この様に言い返す。

「若者と老人、どちらが徳か。」と。

仕事に対しては、

「個人と集団、だちらが徳か。」と。

また、

「先生と生徒、親と子、どちらが徳か。」と。

重要なのは、

道徳は命令ではなく万人法なのですから。

道徳の善悪(モラルハザード)、お判り頂けたでしょうか。



    つづく。



モテ期とは?

2020-03-03 | 
 3月 3日  ひな祭り

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


40億年にもわたる生命史のものの見方は、

ミトコンドリアを真核細胞の進化をど真ん中に据えている。

人との古い付き合いであるミトコンドリアを理解することは、

「モテ期」にとって短期的な行動を左右するということになる。

ミトコンドリアは私たち細胞に必要なエネルギーを作る発電所のようなものだ。

ミトコンドリア無しでは高等生物の生活などまったく考えられない。

最も決定的な根拠は、分裂して増殖していく二重らせんのDNAを持っている。

そんなミトコンドリアは母系だ。

母から娘に受け継がれてゆくのである。

男系が保有する「Y遺伝子」とは違ってミトコンドリアは母系であり、

男性にはミトコンドリアは存在しない。存在するのは、

母から生まれる時に譲り受けたミトコンドリアだけである。

従って、男性は大人になるにつれミトコンドリアを補充しなければならず、

日々、街中を歩き回り出会いを求めてお金を使い果たしているのはそのためだ。

恋愛の主導権が女性である理由が、ミトコンドリアなのである。

そんなミトコンドリアが 「モテ期」 と呼ばれるものだ。

それは幸せを感じさせられる神経伝達物質セロトニンに作用させる。

ミトコンドリアが神経系と情報伝達とを果たしているだけでなく、

人の感情を興奮状態にさせ異性を狂わせる脳のスペクトルに影響を与える。

体内微生物の隠された半分の内の一つと出会うことで、

一見、無関係な幅広い人間関係との出会いに対処できるスキルと、

効果的なコミュニケーション行為は、驚くまでもない日常的なことだ。

実際、脳内物質オキシトシンは利他的行為で分泌されている「愛」だ。

そんな体内微生物であるミトコンドリアを私は「ウィンチュー」と呼ぶ。

この幸せ微生物「ウィンチュー」は、長い時間を経て入念に作られた

遺伝子命令の自発的コードを備えた生きた有機的オペレーションシステムだ。

「幸せ」という無くてはならないシステムを働かせている「ウィンチュー」は、

私たち祖先が誕生した太古の社会システムを形作り、

私たちが知るこの世界を今も動かしている。

「ウィンチュー」という名の幸せコードは目には見えず

それは 「モテ期」 を通じて理解される。

時々、エラーが出て過ちを犯し性混乱が生じることもしばしだが、

そんな時に必要な「利他心」を持ちさえすれば直すことは難しくない。

逆に、「利己心」であってはどうなるかは周知の通りだ。

「自己愛と隣人愛」 よく考えた方が良いだろう。

そんな「ウィンチュー」による「モテ期」とは、

培養できる微生物ミトコンドリアを中心としている。

「ウィンチュー」による神経伝達物質は、相手に付着して定着し、

感情を乗っ取り、情報を交換し、エロスに必要な代謝の懸け橋に役立ってきた。

そうすることで男女関係のコミュニケーションは現代まで守られてきた。

ミトコンドリアを頼りにしている「モテ期」は、

生存競争と同じくらい重要な自然淘汰の上に成り立っていることを知り、世界を驚かせた。

「モテ期」による愛の社会は教科書に書かれたテキスト的なものではない。

「ウィンチュー」による「モテ期」に組み込まれた衝動性は、

時の試練に耐えうる力さえも与えてくれる。

そしてそのような愛の力が、

複雑な人間関係が作用する社会活動に、しばしの幸福感を満たすのだ。

さらに付け加えれて話せば、今後「ウィンチュー」が人々の

潜在能力を発揮させる新たな理論が次々と証明されることになるだろう。

そして「ウィンチュー」による「モテ期」は、

毎日の生活における男尊女卑や男性主導社会、

恋愛の主導権が女性にあることを改めて教えてくれることになる。

現代、行き過ぎた競争社会が「ウィンチュー」と共に進化するという認識が広まれば、

自然淘汰の真っただ中にある私たちの居場所に対する新しい見方が浮かび上がる。

そんな見方が過去、根本的に異なる者同士の古い考え方がひっくり返され、

社会に愛が受け入れられた素晴らしい一歩を踏む出す日が来るのもそう遠くはないだろう。

「モテ期」とは、

過酷な生存競争社会に愛をもたらすミトコンドリアだ。









     つづく。







利己と利他による社会学

2020-03-01 | 学問
 3月 1日  日曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


「リバイアサン」がいう、

各人が各人ともに敵と戦う共食い状態こそ自然状態とし、

集団は平和維持のためにヒエラルキーをもって社会を治めるという

ホップスの考えはあながち間違いではなかったし、

ミルの名著 「功利主義」 がいう、

利他的な心情は功利的道徳を受け入れる感性的な自発的基礎、

道徳的な感性は生まれ持ったものではなく獲得するものだという

大思想家の見解もはやり正しかったし、

「ニコマコス倫理学」 がいう、

私たちが他人に対して持つ友愛の情は、

私たちが自分自身に対して持つ友愛の情に由来するものであるという

アリストテレスの思想も素晴らしかった。

また、社会ダーウィン主義者が話す、

暴力を正当化しエントロピーの概念と、

ハイゼンベルクの不確実性原理を誤用した

悲観的で対立的な社会ニズムを展開してきた

ヒットラーの我が闘争が動物進化論的考えであって、

国富論が示すように、

人はみな自分の資金から最大の利益を引き出す有利な使い道を見つけ出そうと常に努力し、

その際、人は一般的に社会の利益に役立ちたいとは考えていないし、

どれだけ社会の役に立つかどうかも解っていない。

頭の中にあるのはひとえに自分自身の利益だけだという

アダム・スミスの考えにも同意してきた。

アプリオリ的な心情に従うならば、

進化の成果は前もって存在する自然的全体性にとっての、

仮説 ー 理論 ー 検証 ー 結果、

これらは歴史の特定の段階で予め定められているように、

仮説(動物進化論) - 理論(自然淘汰) - 検証(生存競争) - 結果(世界戦争)

これらがいわゆる過去の歴史だ。

さらにこれらを進化させると、

仮説(地獄論) - 理論(遺伝子進化) - 検証(適応者) - 結果(まだ白紙)

これがいわゆる未来絵図だ。

ヘーゲルがいう、

人類の歴史的全体像こそが具体的構造であり根本的だとする、

見る目が違う認識の目である。見えざるを見せる構造の一つが、

ヴィトゲンシュタインがいう言語認識が世界だ。

また、ホメオスタシスのスローガン 

「団結すれば栄え、分裂して生き残る」 という

ホメオスタシスが強ければ強いほど対立や競争から遠ざかると示す、

真の自己利益は集団を強化することであり、

人への献身、国への貢献、全体の幸福、

そのためには個人的な代償や犠牲を支払うという

生物学による論理も正しかった。

どれ一つ間違いではなかったのだ。

つまり、21世紀それは人類が

次のステージへ進むその時が来たのだ。




     つづく。



動物進化論は地獄でのルールである。

2020-02-29 | 文学
 2月29日 土曜日

 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


ダーウィンが発見した進化論は確かに優れた一つの事実だが、

無情な命令に属する地獄のルールだ。

それは従属的であり、自由意志と呼べるものでは決してない。

つまり、進化論とは地獄論の一つである。

それを発見したのが他ならぬダーウィンだ。

自由という主体性には 「いい気分」 になる為の条件であるはずが、

過去、人類が複雑な世界を理解し損ねた現象に過ぎなかったのである。

良くも悪くも人類はすでに外的な環境によって世界を支配しており、

好むと好まざるとに拘わらず自然環境を破壊してきた。

そう、かつてのロスト・ワールドのように。

ダーウィンのいう動物進化論は、原始進化論は、

誰もが自然淘汰に関心を持ち、

誰もが生存競争という一つの答えを持っていた。

それは完全には間違っていなかったが、

それは完全に正しいという者もいなかった。

過去、善良さは残酷という代償によって幸福を満たし、

過去、悪行への道のりは善行によって導かれていった。

そして何よりも最悪なのは、「やられたらやり返す」 という

この悲劇的で無情な 「対立」 が人類史において

もっとも具現化されてきた事実である。

「対立という名の」 エントロピーの矢が放たれたのだ。


ある動物をして他の集団のために自己を犠牲にするように仕向ける衝動は、

集団に対する優位を獲得する上で極めて合理性があることは理解できる。

自分自身の利益になると判断されれば、

あらゆる生物は当然のことながら仲間を助けると予測される。

反面、自分自身だけの利益が確定した状態においては、

他者を平気で見捨て裏切り感情的に騒ぎ立てながら、

それまでの善人さとはうって変わりゆっくりと仮面を剥がしてゆく。

どんなに性善説を信じていても、

どんなに神を気取って善人を装ってみても、

偽善者の血が流れていることに気づくだろう。


一体なぜ、人間よりも果てしなく偉大な英知を備えた神が、

一体なぜ、限定された自然淘汰を発明したのだろうか。

本当に、自然の理法は初めから終わりまで生存競争であるのか?




    つづく。