酒好き文化風俗研究者

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その反抗は感情か、理性か。

2020-04-08 | 社会問題
 4月 8日  水曜日

 おはようございます。  酒好きの思想家です。


もし今ここに誰か型破りな物書きがいて、

私たちの苦難を白中の目に曝け出したのなら、

器用に組み込まれた慣習を引き裂き、

論理の上に根本的な不合理を見破り、

各業界の泰斗に盾突き、

同時に自然的な幸福状態の秩序の下に名付けられた、

様々な現象のあまねく欲求を開示してくれならば、

私たちは自身以上に

私達のことを理解しようと努めていると高く評価するであろう。


私たちの反抗について、

その感情の外側に立つことができるのなら、

その諸要素を分類し表現することが可能なら、

私たちの感情の一つである反抗を監督しうるのである。

感情というのは目で見えないものより、

目で確実に見えるものの方が興奮的であるように、

いっそう純粋でかつ解りよい。

しかしことはそう単純な話ではない。

感情には様々な現象が起こりうる。

目で見える感情相互に他の感情分子と合成させてしばしば強力となり、

社会に反抗し反作用的な行動を引き起こす。

実際、反抗が私たちに告げていることとは、

大部分の行動は動機によって説明できるということである。

問題を引き起こす動機とは反抗心だ。

そしてそんな自らの反抗心の力を証言によって知らされることとなる。

もちろん重要な反抗心があるのも事実であり、

悪に盾突くのも反抗心である。

この世が楽園ではない以上、

反抗は地獄でのパスポートのようなものであって、

もしも希望と反抗心がこの世に無ければ私達は一体どうなるだろうか?

どうやら多少の望みが残されているようである。

この希望と反抗心を上手く応用して、

異なる二つの極端な感情を転回させられれば、

反抗心自体によってバランスの整った関係を保てるというものである。

実際、必要悪と呼ばれるものが存在するのはそのためだ。

この世界が神の国でない以上、

必要悪と自由経済が独り歩きさせる一つの要素となる。

二つの反抗心と二つの希望を前面に出せば出すほど、

誤った極端な行動を反抗心によって覆させるのである。

この世が地獄であるなら可能であるはずだ。

反抗心には両面性と相対性によるパワーバランスだ。

具体的に話せば、

自らの感情の力は証言しうるから、

従って書くことが自らの感情の証言となる。

書けば感情の見える化が可能だ。

激しい動きのある感情がより自身が見て取れるように、

例えば、

(1)、反抗は第二の天性。

(2)、反抗は幼稚な動機。

として、表の欲求と裏の感情とに分類し、

(1)は、悪意を見抜く能力に対し、

(2)は、無邪気に楽しむ能力だ。

逆に、(1)は、反社会的でもあり、(2)は、一緒にいて不快でもある。

端的に言えば、

感情的な反抗と、理性的な反抗。

感情的な希望と、理性的な希望である。

感情的になりそうでならないギリギリのラインが人格者なのだろう。

かっこいい反抗と、不快な反抗の違い。

誰でも経験があるのでは?



     つづく。



「日本人はみんなエグザエルだ!」

2020-04-06 | 社会問題
 4月 6日  月曜日

 おはようございます。  酒好きの思想家です。


保守派と呼ばれる人たちは

シリアスというイメージが定着しているが、

誤解である。 なぜなら、

(1)、改革派・・変化を恐れずに後先考えない強者たち。

(2)、保守派・・変革後の問題を改善しようとする賢い人たち。

(3)、停滞派・・反対ばかりして元に戻そうとする集団主義。

である。

勿論みんなそれぞれ正しいことを言っているのだが、

(1)は、進歩的で楽観的であり、

(2)は、現実的で道徳的であり、

(3)は、離脱的で魔術的である。

それでも社会のことを第一に考えている以上、

(1)は、仮説を論理的に説明し、

(2)は、検証を繰り返しながら、

(3)は、結果に対して懐疑的だ。

何が良いかではなく、何が悪いかでもない。

重要なのはこれらのプロセスにある。

過程のない結果に成果などないに等しい。


例を挙げて考えてみよう。

在日問題である。避けられない社会問題だ。

なぜ? 優れた在日たちを日本人が受け入れないかというと、

(1)の、改革者が存在せずに、

(2)の、保守派が目を背けて、

(3)の、停滞派が反対を唱える。

どちらにせよこれらの違いが解ればなんとかなるのだが、

改革派・保守派・停滞派その方向は、

反抗心の違いだと考えられるのだ。

なぜなら、

反抗の強さと方向性が重要だからである。

方向性のない感情に善悪の判断が出来ないように、

方向性の無い感情は決して万能ではないし、

反抗心は第二の天性でもあるからだ。

例えば、

他人が自分より正しいことを言うと「ムカッ」とする感情がある。

平均よりも賢い者がその平均よりも優れた場合、

集団では決まって出る杭が打たれるのだ。

「あいつのせいで、ひどい目に遭った」と陰謀説を始める。

「ここから、出ていけ!」 とヘイトスピーチやエグザエルだ。

エグザエルはディアスポラである。差別だ。

それでも在日たちに帰る場所があれば救われるのだが、

実際には帰る場所が残されていないのが現状だ。

だから、「帰れと言うな!」 と反抗する。当然であろう。

もう少し正確に言えば、

「帰れる人だけ帰りなさい。帰れない人は留まりなさい」だ。

問題なのは、

在日たちを巧みに悪用しようとするジェノサイドだ。

日本に対する感情的で方向性が良くない反抗心である。

それが隣国であり、この世界に仲に良い隣国は存在しない。

実際、韓国には

在日韓国人に対する強い差別意識が存在している。

「在日韓国人は日本語しか話せないのか?」と、

民族意識が低いと断言する。

だから一度、

強制的に連れ戻して民族教育を叩き込まなければならないという

言い方を平気で韓国の教授がいているのである。

そこで反日教育を受けさせられるのだ。

「こんな汚い国は無くなってしまえ!」という様に。

強制教育が個人のアイデンティティを狂わせるように、

さまよえるゴーストたちの失われたアイデンティティである。

どうして良いのか解らずに混乱し、避けるに避けられない。

だから在日たちのスローガンが 「差別を失くせ!」 となる。

「日本人はみんなエグザエルだ!」 となるのだ。

そして何より危険なのは、

在日に対する両国の全体主義が一番怖い。

両国を同時に敵に回しては生き残れないからだ。

そんな全体主義が最悪なのは、

最終的にたどり着くのが必ず破滅的であるところだ。

アウシュビッツ・ビルケナウがその例であり、

スターリンや毛沢東が良い例だ。

難にせよ、

民族意識が強まると全体主義へ発展しかねないように、

問題なのは、そう、反抗心である。

反抗心についての説明はまたの機会に致します。




    つづく。



新自由主義。

2020-04-04 | 社会問題
 4月 4日  土曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


新自由主義の問題点を挙げるとすれば、

改革者の都合の良い変革だけを新自由主義の名のもとに行い、

その後、改革を停止させたところに問題が生じている。

改革を正当化する論理や不満が様々な問題を生じされるのはそういう訳である。

現在、新自由主義が止まった状態が続いているから、

格差社会や階級社会が露出しているのである。

よってさらに新自由主義による改革を推し進めなければならない。

日本人が最も得意とする改善が必然で必要な時である。

これは憲法にも当てはまる問題だ。

なぜなら、時代に背かない完璧な憲法などありえないからだ。

もしそれが本当に実在するなら、私達はだまされていることになる。

裏で操るやつがいるのだろう。


法は正常なるがゆえに法である。

命令されて腹が立つのは正しい法ではない。

近代の法は権利の論理であって、

万民法、平等法ではなかった。

近代の法は財産権こそ異例なものであって、

これがある以上、自然法、平等法とは呼ばれない。

なぜなら、

1、自然法は平等であるのに対して、

2、財産権は命令的だからだ。

1、自然法は客観的合意に対して、

2、財産権は主権的同意だからだ。

よって自然法に従うことは憲法の本質である

「後法」 こそ一番正しいと定められている通り、

それは聖書やコーラン、仏典にも書かれている。


法とは、社会統制過程に関係する行為の心理的条件であり、

権利とは、法によって付与された意思の力で、

法によって保護された恩恵でもある。

法曹界では今なお、

「たとえ世界が滅びるとも、正義は行われるべきである。」

と言う、格言が今もしっかり生きている。

ならば訊ねたいのだが、

平等法を信じることは果たして正義と呼ぶに妥当なのか。

日本は前例制が強く、議論するよりも義務を重んじる民族性だ。

従って新自由主義による具体的な法の改革には、

自然法に則った普遍的かつ同意的で

誰にでも判りやすいものでなければならない。

自然法ゆえに当然であろう。

1、税金をすべて失くす。

(生きている間には税金が一切掛からない。)

2、死ねばお金は必要ない。

(金持ちが天国に逝くにはラクダが針の穴を通るのに等しい。)

3、葬儀は国葬で行う。

(生まれる時と死ぬ時は国が面倒を見る。)

以上、

自然法に則ったビューティフル・マインド。平等社会の実現だ。

現代の現象は、財産権を無効にすれば消滅すると確信する。

嘘だと思うなら一度試してはどうか?

自然は死ねば土にかえるように、

財産も社会にかえるのだ。真の平等はここにある。

これが新自由主義に基づく革新的な改革だ。

おそらく現代、

新自由主義を名乗っている者の多くは反対するだろうが・・・。

それでも合理的だ。倫理的で道徳的に妥当である。

「汝、奪うなかれ!」という戒律が、

社会生活の価値を守る上にも明確な制限を設定している。

それとまさに同じように、

私たちは今日、排除と不平等の財産権に明確な、

「汝、相続するなかれ!」と、明記するのである。


税金とは人頭税である。

平等法という、

人類が長らく探し求めていた自然法が

今、ここにある。



    つづく。



真の法による平等社会の実現。

2020-04-02 | 社会問題
 4月 2日  木曜日

 おはようございます。 年上の女性です。


「今日、お集りの皆様。

皆様にお話ししておきたいことがございます。

それはとても重要なことなのです。

ですがその話を聞いて

中にはショックを受けられる人もいるかもしれません。

しかし、私たちの将来にとって大変重要な問題定義なのです。

本日お集りの皆様。

それではよろしいでしょうか。始めたいと思います。」


「人はみな生まれながらにして平等だと信じています。

それは人類の願いであり、法の理念です。

平等は世界の目標であることに疑う人はいないと思います。

しかし、理想と現実を見てください。

本当に私達の社会は平等だと言えるのでしょうか?

いいえ。違います。

今日お集りの皆様の中にも、

心の中で薄々お気づきの方がいることと思います。

そうです。その通りです。

私達は平等社会という理念の中で暮らしていますが、

事実は平等ではない。不平等なのです。

皆様の中には社会が平等だと信じている方もいることでしょう。

ですがそれはそう信じ込まされているだけではありませんか?

私には真実がどこにあるのか見えないのです。

それは機会の平等にも言えることなのです。

チャンスの平等であります。

私はそれすら平等に与えられていないと思えるのです。

なぜなら、

機会の平等には同じ条件でなければ成立しないからなのです。

問題はここにあります。

なぜ? チャンスの神様は前髪しか伸ばさないのでしょう?

その答えを解くカギが今日ここにあります。

結論を急ぎましょう。

本日お集りの皆様。

今日はこれだけを覚えて帰って下さい。たった一つです。

「財産権の無効」 これだけで平等が実現します。

財産権を失くせば平等な機会が成立します。

真の法による平等社会の実現とははっきり言ってこれです。

解りやすくご説明いたします。

現代の法の概念は三つ。

1、生存権(動物権)です。

2、幸福追求権(人権)と呼ばれるのもです。

3、財産権(金持ち権)これが特権なのです。

一つ目の生存権は、むやみに殺すなかれです。

二つ目の幸福追求権は、誰であろうと幸せに生きる権利のことです。

ここまでは皆様も同意の上にあるはず。

問題なのは三つ目の財産権なのです。

これはお金持ちだけが優遇された不平等法なのです。

一部の人だけに与えられた特権であり自然法違反なのです。

はっきりと申し上げます。

財産権は不平等法だと。平等だというのなら教えてください。

どこが平等なのかを。答えられなければ「アウト」だ。

それともう一つ疑問があります。

私達は一体いつ財産権に同意したのでしょうか。

財産権が生まれ持った権利ならば証明してください。

これが平等だといえますか?

是非ともご回答をお待ちしております。」


「私達が生きている間に稼ぎ出したお金は勿論、

自分自身のお金ですから自由に使っても何も問題はありません。

むしろ沢山使うべきでしょう。死海とガリラヤ湖とのたとえです。

ですが思い出してください。そのお金は誰のものなのかを。

財産として所有するそのお金は一体何処から得たのかを。

人は自然の恵みを借りて、

それをエネルギーに換え成果を手に入れます。

そこから得た財産を自然に返すことが自然界ならば

ごく普通に行われていることなのです。

人間も同様です。裸で生まれて裸で自然に帰るのです。

所有権とは、

自分が使用するに必要であった以上の権利を言います。

格差社会とはつまり、

これらの所有権、財産権、相続権を失くさば良いのです。

実に単純で簡単、シンプル・イズ・ベスト。

真実の美しさは見る者の目の中に映る単純でシンプルな現象だと。

実際、義務を伴わない権利がないように、

義務を伴わない財産権はないのです。

つまり財産権の制限には、

消滅しているかで限界点とする、死を以て無効とするのです。

この当たり前の現実が見落とされています。

おそらく皆様の中には、

財産権の無効と聞いて驚いた方もいることでしょう。

財産権が無効になるなど夢にも思わなかったことでしょう。

中にはお金がなければ天国へ逝けないとさえ思われたのでは?

この際はっきり言わせて頂くと、

平等社会と一握りの金持ちとどちらの優先順位が高いのでしょうか。

もしもここに功利主義のベンサムがいたら何と言うでしょうか。

神様はどちらに味方すると思いますか?

人は平等に生まれて平等に死ぬべきです。

それこそが真の平等だと言えるものなのです。ほかにはない。

この世界が不平等なのは財産権に問題がある。

今日お集りの皆様。どうぞこれだけは覚えて帰ってください。」


「本日お集りの皆様。

たった今、

財産権が平等社会の妨げになっていることに気づかれました。

だから早急に財産権を白紙にしてしまえと思うかもしれません。

ですがことはそう簡単には行かないのです。皆様もご存じのはず。

なぜなら、この現実社会はお金持ちが支配するシステム下にあるからです。

知らず知らずの内に誘導された社会なのです。

しかもこの支配が千年続いた歴史なのです。


これはあくまでも私の仮説なのですが、

真の平等社会が実現するには20年~30年くらい掛かると思います。

いや、数百年以上掛かるやもしれない。

なぜそう思うかと言えば、

私達は非力だからです。数では勝っていますが相手は強者なのです。

世界の富の80%が全体の20%の金持ちが独占している事実を見れば明らかのように、

これが格差社会の現実なのです。

嘘だという人は皆無と思います。

なぜ? 私達の銀行口座に残高が記載されないのでしょうか?

銀行口座に記載されるのは支払いばかりです。

ちょっと持ってください。

じつは、お金は銀行に行けばいくらでもあるのです。

ただ、私達に無い。あるところにはある。

そのお金が広く社会に出回れば良いですよね。

そのお金を社会に返そうとするのに邪魔をするものが

凝り返しますが 「財産権」 なのです。

あなたが稼ぎ出したお金はあなたのものです。

疑う余地はありません。

しかし、真の平等社会とは、

同じ機会、同じチャンス、同じスタートラインがあってこそ可能です。

私達は幸福を手に入れたいのです。

だったらお金を手に入れさえすれば良いだけの話です。

なにも難しい話ではありません。

ただ、その機会が平等であれば最高なのです。

これが自然法と呼ばれるのもです。平等法なのです。

自然法とは普遍法であり万民法なのです。

これは神から与えられた権利だと認められているものなのです。

認めていないのは財産権の方なのです。同意していないのは財産権です。」


「断言いたします。今日お集りの皆様は、

真の平等社会の実現に向けた最初の人となることでしょう。

自然法を明確に打ち出した最初の人となるのです。

千年続いた不平等社会に終止符を打つ為に行動を起こした最初の人となるでしょう。

そうです。私達が世界を変えます。歴史の一ページに残されるのです。

そのために、平等社会を志して共に立ち上がろうではありませんか!

その方法が、財産権の無効を言い続けることなのです。

これは決して容易いことではありません。

たとえそれが何百年掛かろうとも言い続けなければならないのです。

それが私たちの責任なのです。なぜなら、

今日ここで知ってしまったからなのです。

私の話を聞いてしまったからなのです。

知らない方が良かったという人もいるでしょう。

何も知らなければ何もしなくて済みますからね。

しかし、知ってしまった以上、そうはいきません。

もう二度と後戻りは出来ないのです。

それはエントロピーの法則が働くからです。

この話から降りられない。逃れられないのです。

本日お集りの皆様。

今日は大変な所に来てしまいました。

どうか私を恨まないでください。これは必然なのです。

いつかはやらなければならない時が人生にはあります。

それを運命と呼べば宿命と呼ぶ人もいます。

この世に偶然はないと言われるように、

今日この場を以って私とあなたはつながりました。

これは事実です。

もちろん皆様には選択の自由があります。

この社会が不平等でも構わない今のままで良いと、

思われるのでしたらそれもまた人生です。

今日聞いたことは固く口を閉ざして

今はまだ時代が早過ぎると良心をなだめれば

きっと気分も安らぐでしょう。犠牲になるのは、

負け組だと考えれば自らの慰めになるかもしれない。

ですが皆様。偶然はありません。

選ばれた者であればご理解いただけれると思います。

世界を変える一歩を今日ここから踏み出そうではありませんか!

平等社会を実現するには時間が必要でしょう。

何事をするにしても時間が掛かるのもです。

しかし、「時」 は金持ちたちに味方していない。

「時」 は不平等を支持などしていない。

自然法は確かに実在します。

私達が気づかないだけなのです。

そんな私達は難攻不落の大富豪たちに立ち向かう

愚かなドンキホーテーに見えるかもしれません。

たとえそうだとしても100年後の人達に本日、

私達が立ち上がったことを誇りに思ってくれると信じます。

どうか未来の人達に神の祝福を。

そして私たちに祝福を。






     つづく。



ユダヤ人問題によせて。

2020-03-31 | 社会問題
 3月31日  火曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


イスラエルという名は、

ユダヤ一支族な名で 「神と争う者」 という。

それは 「ヨブ」 のことだと思う。私も「ヨブ記」が大好きだ。

1、どんな不幸や悲劇が続けて起き様と、決してあきらめたりしない。

2、神と争ってでも幸福は自らの手でつかみ取る。

3、悪魔になど、絶対に譲歩してはならない。

4、どんなに相手が強くても正々堂々と自らの考えを主張する。

5、正しいかどうかは裁判で議論して決める方法をとる。

ユダヤ教徒とは一言でいうと、神様との対話である。

タルムードとは激しく問い続けろという意味だ。

ユダヤの格言にはこう書かれている。

「舌の先に幸せがある」「筆の立つ者と争うなかれ」と。


1948年までユダヤ人は、

他国に侵入したり戦争を仕掛けたりしたことが一度もない

唯一の民族として誇りだった。

そんなイスラエルが、

最後の植民地となるのは不思議な現象といえる。

その聖地に、

人類始まって以来の大実験が行られるにしても、

問題を引き起こして解決するには余りにも難儀である。

実際イスラエルが、

理想的なユダヤ人というイメージが崩れていっている。

このままだと

繁栄は難しいと多くのパレスチナ人ユダヤ人はもう疲れ切っている。


ユダヤ人であるハンナ・アレントは、

イスラエル国家を創ることに反対していた。

反ユダヤ主義を認めることになるという。

現実にナチスドイツはシオニスト達と連絡を取り合い、

ユダヤ人が大人しく出て行ってくれたら、

わざわざ殺す必要はないと密約していた。

これをハンナ・アレントは公表した勇敢な女性だ。


ディアスポラは、

ユダヤ人を追い出す為に考え付いたイデオロギーにすぎない。

多くのユダヤ人はその土地で一緒に働き、質素な生活を楽しんだ。

あるユダヤ人は、普通にキリスト教徒になったり、

イスラム教になったり、アラブ人がユダヤ教になったりもしている。

大抵のユダヤ人はこの地で生活をして結婚をして子を育て、

地元愛を示しながら平和な社会を第一に考えていた。

それなのにどうしてか。

パレスチナにシオニズムの場所を創ろうと動き出した。

19世紀、反ユダヤ主義がヨーロッパ全土に広まり、

20世紀、英国がパレスチナの植民地を開放、

21世紀、アメリカ合衆国が同盟国としてイスラエルを支持している。

当時、アメリカに渡りたくても許可が下りなかったユダヤ人たちは、

植民地主義を嫌々ながらも無視することでシオニズムを受け入れた。

また、イスラエルを応援するキリスト教右派は、

聖書の文言に従い、

ユダヤ人が神から約束されたエルサレムに帰ることが

キリスト教の願いでもあると信じている。

そんな中、

1982年~85年、レバノン戦争勃発。

南レバノンを支配するPLO(パレスチナ解放機構)の基地が襲撃、

一万四千人のゲリラをチェニジアへ追い出すことに成功。

しかし、この時におかしな問題が起きる。

イスラエルの同盟軍キリスト教民兵が、

ベイルート郊外にあるパレスチナ難民キャンプを攻撃、

一般人を含む2,300人が犠牲となった。

理由は不明だが、こうしてイスラエルは、

国際社会から非難を浴びせられることとなる。

「罪のない民間人が亡くなった不名誉な戦争」

というイメージが世界の人々に定着していった。

それでもアメリカ合衆国は、

「あらゆる国家には自衛の権利がある。」と述べ、

イスラエルを全面的に擁護した。

一体なぜ? 

戦後まもなく不自然国家が突如として誕生し、

それゆえ、永遠に戦争が続くというのか?


あなたがどう思うかは解らない。

しかし、

どちらか一方に問題があると決めつけるには、

知らないことが多すぎるのだ。

何かが隠されている。



   つづく。





普遍的で自然的な平等法。

2020-03-30 | 社会問題
 3月30日  月曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


永久法と自然法。人定法と神法。万民法と平等法。

総ての法が一致する法とは?


自然法は万民法に属する権利を意味するものである。

近代の法は権利の論理であって、

万民法、平等法の理論ではなかった。

近代の法の概念は、財産権こそ別異なものであって、

これがある以上、平等法とは言えない。

現代の法の概念とは、

1、生存権(動物権)

2、幸福追求権(人権)

3、財産権(金持ち権)この三つだ。

確立された強制的な統治は、

現代における財産権についていえば、

自然状態よりも悪い社会制度であり、

1億人に命令を下すには貧弱すぎる。

神の前では、人はみな平等であるから、

財産権、相続権を無くせばそれで良い。

裸で生まれて、裸で帰るのに何か問題でもあるのか。

財産権は明らかに自然法違反だ。

所有権とは自分が使用するのに必要であった以上の権利をいう。

格差是正には所有権、財産権、相続権を無効にすればそれで済む。

なぜなら、

自然法の中で万民共通、唯一背向いているのが貨幣だからだ。

現代の不平等は 「マネー」 の問題だ。

財産権と自然法。人は自然の力を借りて生きているのだから、

生涯得たお金を社会に還元するのはもっともだ。

財産権と自然権とが一致する法とは、

本質であり生成と発展を生じるものであって、

平等法は社会的な有機的生命の表現に適合し、

民族固有のものではなく、まして歴史の結果なのでもない。

所有権の制限には消滅しているかで限界点とする、死を以って無効とする。

人間の法は人間に関する尺度であるという。

人は万物の尺度であってその行動を導くものである。

その尺度はそれぞれ従うべき上位の規範をもっている。

命令されて「ムカッ」とくるのは万物の尺度ではない。

すなわち神の法であり自然法に他ならない。

それゆえ平等法は一般的な合意に合致しなければ

万民法とは認められず改めて定義し直す必要がある。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教であるなら、

自然法の概念なしには考えられない。

なぜなら、

憲法の本質・・「後法」が一番正しいとされているからだ。


なされたるものには、なされざりしものとの、なさるること能わず。




   つづく。




ユダヤ問題によせて。

2020-03-29 | 社会問題
 3月29日  日曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


古来このかた、

地獄の法則がのさばってきた例は枚挙にいとまがない。

調べれば解ると思うが、

むしろ地獄の掟こそが黄金律であったといえる。

この世界で邪悪が神をも凌ぐ力で恐怖をもたらさせらるのは、

言わずと知れた黙示録文学だ。

メシア思想が遠くにかすんで見える。

こうして厭世的で末法的な終末論がはびこったのだが、

以降、邪悪がさらに加速的に爆発的に増大してゆく。

一体、今日のユダヤ問題をどう扱おうとしているのか。

私はユダヤ陰謀説が肌に合わない。


調べているうちに、かの英雄ナポレオンは、

ユダヤ人差別を無くしその力を利用して

ヨーロッパを支配した最初の人物だそうだ。

ナポレオンになりたければそれにあやかるのもいいだろう。

かつて日本の場合では、

ロシアが誇る世界最強のバルティック艦隊に戦いを挑んだ戦艦三笠は、

是清(これきよ)がユダヤマネーによって

英国から最新鋭戦艦六隻を購入できたおかげだ。

また、西アジアに目を向ければ、

600年続いたオスマントルコ帝国は、

ユダヤ人を大抜擢し主要なポストに採用した結果の繁栄だった。

そんな世界秩序が崩れたのは、たかだか100年前のことである。

暗黒時代の19世紀だ。


ヨーロッパ文化を色濃く描く宗教画を見ると、

イエス・キリストは白人で描かれているが、

フロイトの話ではイエス・キリストは、

アラブ系ユダヤ人だそうだ。

推測だが、

パレスチナの抵抗運動の指導者故アラファト議長に似ていたかもしれない。


これも逆説なのだが、

ニュースでパレスチナ問題を見ていると、

どちらも「正義は我らにあり!」と聖戦を主張しているが、

その正義は誰かに誘導されたものである可能性がある。

なぜなら、神、アラーの正義とはとても思えないからである。


さらに言えば、

ユダヤ陰謀説によると「ゴイ」に問題があると決めつけているようだが、

何を根拠にそう言えるのだろうか。

もしかして、

イエス・キリストを磔にした二千年前のことを言っているのだろうか。

そうだとしても、

二千年間ユダヤを迫害したのは忠誠心によるもので、復讐心ではない。


もしもである。

日本人がイエス・キリストを十字架に縛り付けたとしても、

日本人全員が責任を取らされるのだろうか?

ディアスポラにあった場合、それは日本人だからという話なのか。

民族意識が強くなったのは事実である。

全体主義が力を持ったのも事実だ。

その結果、日本人が犠牲になったとしても、

イエローペイルがヨーロッパ全土に広まったのは、

本当に日本人だけの話なのか。


ユダヤ人を敵に仕立てて誰が得をしているのか。

イスラエルを建国して一番成果を得たのは誰だ?

そして見えない敵とは何ぞ。

現代においてさえ今なお、この謎は明らかにされていない。



    つづく。



言論の自由。

2020-03-27 | 日記
 3月27日 金曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


近く、ユダヤ問題、パレスチナ・イスラエル問題、宗教対立を、

解決すべくブログを書く予定です。

そこで、お願いがあるのです。

このウェブをブロックしないで下さい。

大丈夫です。心配いりません。

誰一人として非難することも中傷することもなく、

誰一人、傷つけることも致しません。

また、社会を混乱させることも勿論致しません。

一つの謎を解き明かすつもりで読んでいただけたら幸いです。

なぜこの様なことを言うのには、

自分自身のパソコンが使えなくなるからです。

また、通信障害が起きたり、通信が遮断されたり、

パソコンがフリーズしたり、大変なのです。

それともう一つ。

何度、書き直しても絶対に投稿拒絶されるブログがあるのです。

それでいて下書き保存すら出来ず、

投稿ボタンをクリックすると消えてしまうのです。

それはそれで面白い現象だと笑っていられるのですが、

今後書きますユダヤ問題に対するブログは、

大変重要なことなのです。

具体的には、ユダヤ人を擁護します。

キリスト教もイスラム教も擁護し、

パレスチナ・イスラエル問題に取り組みます。

そこでお願いなのですが、

言論の自由を私に与えてください。

規制がありすぎては上手く書けないのです。

もちろん常識の範囲での自由です。

ルールは誰も傷つけないこと。当たり前です。

良識が無ければうるさいだけですから。

名誉を重んじて秩序を保守し、

自分に害の無い悪は自分に利益の無い善と同じだなどとは言いません。

あらゆる困難は私たちを強固にし、

力が無ければ何事も動くとこがないように、

どうぞ、これからのブログを楽しみにしていてください。

よろしくお願いいたします。 バーイ・ホォナー。


  つづく。



比較優位の原理。

2020-03-26 | 学問
 3月26日  木曜日

 おはようございます。  ウィン・ウィン国王です。


自由経済を受け入れた現代、

経済学者がいう概念の中で最もウィンウィンな関係を築けるのが、

デービット・リカード氏が提唱した比較優位の原理であろう。

この原理は、

自由経済において個人と個人とが常に利益を上げる考えを説明している。

比較優位の原理はまた、

企業同士によるウィンウィンな関係の際の手法にも応用できる。

例えば、

利己的ジーンと利他的ミームは同じアパートの隣同士にいる。

ジーンは料理が上手で、ミームは掃除が得意なキレイ好きだ。

二人とも料理と掃除を全て片付けるのに10時間掛かるとしよう。

二人が仲良しでジーンが料理を、ミームが掃除をそれぞれ担当した場合、

二人合わせて20時間掛かっていたものが、

それぞれ5時間で料理と掃除を終えられる。

「だから、それがどうした?」 と思うかもしれないが、

これこそがウィンウィンの関係だ。

まるで魔法のように凄いことである。

考えてみてほしい。

ジーンとミームが仕事を交換することで、どちらも5時間節約できたのだ。

お互いに不快を生じることはなく、どちらも損害を被ったわけでもない。

ただ自分が得意なことを取り換えるだけで二人はどちらもハッピーだ。

勿論、個人だけの話ではない。

国と国との関係にも広く応用できること受け合いだ。

二人の間柄に、それぞれ特定の能力に秀でている場合、

仕事を専門化することで利益がもたらされる。

つまり、二人が仲良く得意なことをやる方が良いということになる。

この際、短所のことなど忘れて、長所の上に己を築けだ。

もし仮に、二人とも料理が得意で掃除が苦手だとしても、

仕事を交換することで、やはり得をすることになる。

利益のためなら多少仲が悪くても、

協力した方が早く片付くに決まっているからだ。

問題なのは、ミームが働き者に対して、

ジーンが怠け者の場合、困った問題が生じるように、

比較優位の原理にせよ、コミュニケーション能力にせよ、

二人の利益が成立するか否かはシェアして試すのが解りやすい。

なぜなら、

二人の能力が等しくてかつ、

その比率にあると考えられるからである。

それは利得をめぐってせめぎ合う

損得感情がゲーム理論経済の基礎だからだ。

アダム・スミスが話すように、

肉屋の主人が毎日仕事に出かけるのは友愛によるものではなく、

自らの利益をギリギリまで追求する結果だからだ。



   つづく。



経済学によるゲーム理論。

2020-03-25 | 学問
 3月25日  水曜日

 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


人生はゲームだ。

社会は「お金」を競い合うゲームで成り立っている。

その世界には同情や哀しみといった利他心は存在しない。

ただひたすら自己利益の追求があるだけだ。

誰もが自分のことだけを考え、

また、誰もがそのことを知っており、

そして誰もがそのことを受け入れている。

そう、ゲーム理論の研究対象は、

ある戦略的状況に置かれた時に賢明かつ無慈悲な人物がどう行動し、

相手の出方にどう対応するべきかという問題だ。

全てのプレーヤーが全てのプレーヤーを相手に戦う極限のマネーゲームだ。

勝つ秘訣は一時の情けを持たずに、

生存競争を展開する状況下で利己的論理を展開することにある。

愛や健康などのバランスが大切だとか、

思いやりのあるリーダーになりなさい、などと説いたりはしない。

人は競争をしている時または、

競争相手を叩きのめした時に最もスリルを感じるはずだ。

そのためなら、自らの退路を断って最後まで戦い抜くことを誓ったり、

見せしめの為に最初に一人をクビにするのもよくあることだ。

社会は一度ダメージを受けると、

二度と元には戻れないエントロピー法則には逆らえないように、

競争原理が働く限りそれらを維持することで利益に繋がるのならば、

相手に勝つことで自らの存在価値や存在意義を高めることが何が悪い。


ゲーム理論では、あの人はお金持ちだからとか、

あの人は優しいとか、カッコいいといった理由で誰かを信頼することはない。

あなたが正直に振舞うのは、

正直が自分にとって利益になると判断された時だからであり、

勝ち抜きゲームに勝利するには、微笑みながら隠し、接待して弱味を握り、

常に欺こうと努力することで真価が問われる。

だから「空気」など関係ない。

他人が何が好きかはほとんど気にならない。

周囲の人に気配りしながら行動を選択することは犬のような奴だと考えている。

従って、ナッシュ均衡にせよ(自分が選んだ行動を後悔しない状態)、

囚人のジレンマにせよ(自分だけが得する合理的判断)、

スパムやクレームにせよ、(たった一人だけ協定を破る効果は絶大だ)

すべては利己的な追求とその結果なのである。(自ら問題を起こして解決せよ)


それでも一回限りのゲームなら、

常に意地悪行為を選択した方が断然利益を得られるだろう。

長期戦ともなれば終始、親切にする方が断然お得になるだろう。

最後の最後に相手を裏切る選択をすれば高いリターンが回収できる。

そして相手の裏切りをすぐさま察知した後、

ただちに報復行動に出なければ、いいようにやられてしまう。

どちらにせよ仁義なき戦いには本気度が勝敗を左右する。

MBAが欲望達成ゲームの攻略法だというのは最もだろう。

経済理論という学問は、

今なお暗い将来を予想することで頭がいっぱいなのだ。


    つづく。




火事場の馬鹿力。

2020-03-24 | 学問
 3月24日 火曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


人が潜在能力を発揮する際に必要なもの、

それが利他的行為である。

火事場の馬鹿力とは、利他的な行動で発揮される。

私たちの幸福に影響を与える

セロトニン、ドーパミン、アドレナリン、オキシトシンのうち、

オキシトシンは利他的DNAの中に存在する。

人は自分の為に力を発揮するより誰かの為に、

そう考えた時に思いもしなかった潜在能力を発揮させる。

私たち一人ひとりが生まれ持った長所それは、

人に役立たせてみなければ解らないものなのである。

それが生命共通の隠された能力であろうと、

あるいは、それが生命由来の形質の類似であろうと、

逆境という状況下で個人が潜在能力を発揮するというものには、

万事、生き残るための能力が備わっているのである。

火事場の馬鹿力とは、

単に自らが生き残りを賭けて他者を見捨て逃げ出す程度のものではなく、

利他的行為を説明するには、

実際にあなたが愛する人を守るのと同様の結果で証明される。

なぜ、火事場の馬鹿力が存在するのか?

生存闘争の観点から見れば、

最も気前の良い利他的行為が、

最も利己的行為の間を隔てるもの、

偶然にせよ、必然にせよ、生命に隠された

奥義の一つであることは確かのようだ。

火事場の馬鹿力はすでに私たちの内部にあるように、

その能力を気づくには誰かの為にという助けが必要だった。

それが適切な条件として命に係わるような状態を作り出しさえすれば、

後は、野となれ山となれ。スーパーマリオも夢じゃない。

だから、居心地の良い状態に身を置く者には決して解らない裏技だ。

常在戦場に身をもって体現することでのみ、

火事場の馬鹿力が解放される仕組みとなるのだ。

そう考えると、なぜ?

自然淘汰に利他行為が生き残ってきたのか。

どうやって利己という厳しい境遇と共存してここまで来れたのだろうか。

その答えが火事場の馬鹿力に見て取れるのかもしれない。

それは人間にとって不釣り合いなほどに

生きる上での利得が与えられているからであろう。

利己と利他。これほどの良きパートナーが存在するだろうか。

しかも万人共通のメカニズムである。使わない手はないだろう。

過去人類の中で最もひ弱だったホモサピエンスが生き残った理由には、

利他的行為をとった唯一無比の潜在能力を発揮させたことを意味している。

おそらく、与えられた環境の悪化に対する驚異は計り知れなかっただろう。

現在、ホモサピエンスの繁栄は、逃げ惑う他の動物をしり目に、

ひとえに他者を助ける選択をした思い切った勇気に勝算されるだろう。

人間をよい高いレベルに前進させることが出来る能力こそ人類の長所だ。

乱暴な言い方だが、現代人にはオアシスよりも火事場が丁度いい。

平和ボケが長引く日本社会において、楽なことしか考えず

逃げてばかりいる人たちには、一度火事場に堕ちた方がいいだろう。

あっ、そうだった。この世が地獄か!

どうやら人間は神に嫌われているようである。

いばらの道に逃げ場なし。安易な道はないのだ。



   つづく。


人を動かす。

2020-03-23 | 文学
 3月23日 月曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


創作活動のさ中の物書きは、

みなさんが言うところの「変わり者」そのものだ。

異彩にして変人。そして正真正銘の二重人格者であり、

社会的、個人的な責任を果たす能力を保持する者。

文章を書いている時、まさにそのようだと想像していいと思う。


人を動かすのは様々だ。

一番代表的なのが「札束」だろう。

現代社会は誰が何を言おうが物質社会だ。疑う者はいないだろう。

次に人を動かす方法は、やはりヒエラルキー、上下関係だろう。

日本には階級社会は存在しないと言うが、

部下は上司に服従し、会社は社員に忠誠を誓わせ、後輩は先輩のしもべである。

逆らう者はいないだろう。

その次に人を動かすのが、恐怖とハッタリか。それにはコツがある。

人を感情的に訴えかけて衝動させることが重要だ。

可哀想な自分を演じ、不安を煽りながら、友情をもって同情する。

まさかと思う者はいないだろう。

しかし、創作行為にある物書きたちは、そうは考えない。

書き手が考える人を動かす方法はこうだ。

物質社会でも精神社会でもなく文学社会であると。

言葉が生み出す言語学にあるのだと。

文学こそが人を正しく動かす方法だと信じているのである。

ー 文学は国家の大業にして名誉である - と。


物書きから見て思うことは、

文学以外に人を動かす方法がどれも策略にしか見えないのである。

だまし騙し人を動かす術とでも言おうか。


私はよく「人たらし」だと言われるが、とんだお門違いだ。

みんなはメールをするだろう。

メールはコミュニケーションの一つなのだが、

人を動かすならば立派な文学だ。

例えばメールで、

「暖かくなりました。一緒に出掛けましょ。」また、

「料理の腕が上がりました。食べに来て。」

どうだろうか。人が動くなら文学だ。


日本文学史上最高の評価の一つ紫式部の源氏物語は、

当時の女性たちの感性が生き生きと読み取れる傑作である。

その時代に貴重な役割を果たしたこと、

百人一首や日本書紀、西行や世阿弥、芭蕉。

そして現代にまで続くまさに大いなる連鎖と呼ぶに相応しい偉業である。

本物の文学とはその時代の末世の相を証言せしめたものであって、

日本文学がこまめにゆるやかに流れにそって分かれながらも、

それでいて、なかなか興味深いものなのだが、

随所に独特な感性がよこたわり、

母型というか断章というか個性的というか、

そこにあるはずのものがなかったり、また

そこにあるはずがないものが見えたりするという、

風情、風合い、風流、かすかに揺れる草花の間合いを読み取る感性。

それは科学であり哲学であり芸術なのである。

まるで自然との会話の中に見え隠れする表の欲求と裏の欲求、

そんな言霊文学が言語として今日ここによみがえる。

人を動かすものは文学だ。


「やまとうた、人の心をくさとして、万代の言葉ぞ、もののあらわれ。」




    つづく。




自分史。この十年を振り返って。

2020-03-22 | 日記
 3月22日 日曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


何かに取り付かれたような生活が10年間続いた。

一体、何を求めていたのだろうか?

自分自身でもよく解らない。

暗して破滅的で絶望的な社会の裏側に答えが見つかるものだと

一つひとつ丹念に探し求めた。

安定した生活の道のりは程遠く、また興味も湧かなかった。

家族は崩壊した。肉体は酒付けだった。

職を転々とし、友達も寄せ付けなかった。

テレビも見なければ、メールも返信しなかった。

そこまでして何を得たというのだ?

それなのに奇妙なことに断絶の下からどうゆうわけか

様々な要因が頭の中に集まってきた。

鋭い洞察力や気づき。問題解決への強い傾向。

ウィンウィンによる一つの捉え方。自然法則への探求。

平和と平等への執着。そして物書きへの関心。

これらすべてに加えて、

どんなことをしてでも必ず真実を見つけようという断固たる決意だった。

ソクラテスの言う、

「探求し学ぶ者は、魂が生前に得た記憶を想起させること」それを実感した。

文章は書くにつれ、新しい理解と新しい現実を創り出す役目を持ちうる。

事実、私たちは見たことを書くのではない。

書くことが出来ることだけを見ているのだ。

世界についての私たちの見方は、

私たちの神経システムと言葉のやり取りによって決まっている。

どちらも私たちが世界を認識する際のフィルターとなる。

私自身の文章法はそんなフィルターを外すことから始まる。

言葉との出会いを直感的に楽しむのだ。

まず第一に、文章を散文にして楽しむ。

第二に、散文をミックスしてアレンジを加える。

第三に、使えるものは何でも使う。

第四に、死ぬまでに独自の聖書を完成させる。

これがいわゆる、人生においての卒論であり博士論文だ。

内容次第では神様に昇格できるかもしれない・・・。

書くことの喜びそれは毎日を充実させ、心を満たし、成長欲求を刺激する。

日常生活の中から生まれ、文化と縁を切ることなく、

言葉の快適な文学へと結び付くものとして、

自身が躁うつ状態になりかけるのを助け、

人間関係が不安定になるのを補う。

お互いの歴史観、文化論、心理的基盤の動揺などを読み取り、

お互いの好みや価値観に共感しながら、

言葉との関係を成長快楽に結び付ける喜びである。


よく、質問されることなのですが、

「どうしてそんなに書けるのか?」と。

これにはいつも決まった返事をしています。

「私たちの脳は自分で考える以上に優れていて、

 自分では書けないことでも脳が勝手に書いてくれる」のだと。

それがどうゆう時かは、もちろん利他的な状態である時なのです。

自己中心的な状態では、いびつな文章しか浮かばず、それでいて時間がかかる。

だから他人の文章を読めばすぐに解ります。

隠しても無駄というわけです。

言葉はコミュニケーション能力の一つですが、

人を動かすのが文学であり、文学が文化となって文明となる。

今日のブログも指が勝手に動いて止まらない状態ですが、

無理やり止めて終了。

現代の時刻、朝4時すぎ。



   つづく。


日本の老人は不良だ。

2020-03-21 | 社会問題
 3月21日 土曜日

 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


老化は自然淘汰である。

進化は新しい世代が生きられる余地を生み出すために、

個体を老齢へと押しやるのである。

地球環境においても自然環境においても老化は最善の解決策だ。

野生の王国では、動物が老齢まで生き残ることは稀で、

人間だけが科学技術にすがって生きていることを忘れてはならない。

はたして本当に老人は生きていると証明できるだろうか?

主体性とは「いい気分になる」ための行為であり、

寝たきり老人はただのエゴによるものと思われる。

日本の医師会が寝たきり老人に対して、

複雑な社会を理解し損ねた結果に過ぎなかったと近く発表されることだろう。

老人は既に科学技術の進歩の影響下にあり、

そうした現状の下では行き当たりばったり、あるいは有害に陥り、

他の者は単に慣習によって寄り添っているだけのことである。

容態が悪化すれば家族や自己を犠牲にしてでも老人に付き添うが、

その代償は社会へは一切還元されないで終わる。

やみくもに執着し、秩序ある生活を破壊させる最も自然に反する扱いだ。

厳密に言うと、変わる必要があるのは老人ではなく、

医師会や社会であり、固まった感情や観念で判断すれば、

老化が自然淘汰だと判断できなのだ。早く大人になりなさい。

真の自己犠牲とは共同体を強化することにあるのだが、

老人の為に次の世代が生き残れない社会が存在すること自体、どうかしている。

このまま続けば、両者ともに生き残れないと保証しよう。

どちらが生き残りを懸けて犠牲になるか。お花畑には判るまい。

そこで利己的ジーンの登場だ。

献身的な利他的ミームが苦しんでいるのを黙って見て見ぬ振りは出来ない。

目には目を。やられたらやり返す。利他的ジーンの得意技だ。

一度、「老人こそが不良だ」と反論しよう。

過去、若者たちを不良呼ばわりした現代の老人たちに言い返そう。

「長生きはエゴだ!」「老人こそ不良以外の何者でもない!」と。

以前から老人たちに言いたいことがあった。

次世代に嫌われてまでエゴを貫き通す正当な理由は何だ?

若者たちに感謝されずに天国へ逝けると本気で信じているのか?

忠告してやろう。

若者を不良呼ばわりした老人を絶対に天国になど行かせてたまるか!

謝罪の一言くらいあってもよさそうなのに、それすら無いのか。

ふざけるな! 地獄へ堕ちよ! 成仏などさせてたまるか!

どうだ。言い返してやったぞ。

反論があるならいつでもかかってこい! 

止めを刺してやる!


そうは言っても、私も同じ日本人である。貴方たちの子供だ。

仮に老人が不良だとしても許そうと思う。

だが、条件がある。

死ぬ前に人生を書き残してほしいのだ。

なんでもいい。失敗や苦しみでも構わない。

若者たちにゲームやテレビなど見せずに貴方たちの人生を見せよ。

老人と若者との和解には書き残す以外に方法がないと考えます。

なぜなら、

若者には老人が理解でいないからである。

しかし、老人は若者を理解できる。

自らが考え行動した記憶を若者たちへ受け継がれることが、

文化であり文明であり大いなる連鎖であって、

それ以外に和解への道は見当たらない。

それが嫌なら、やはり長生きはエゴであり老人は不良だと確定する。




    つづく。



サクラたより。

2020-03-20 | 
 3月20日 金曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


桜がなぜ? 咲きながら散るのか。

それは日本人に愛されたいために、

来年まで大切に保存されるために、

桜は自らを咲き誇りながら儚くとも可憐に散りゆくのです。

淡いピンク色は日本人の好みによるもの。

それが桜にとっては生き残るただ一つの戦略なのです。

確かに、桜には脳がありません。しかし、

日本人をコントロールする力は備わっているのです。

桜だけではありません。

紅葉にせよ、アジサイにせよ、彼岸花にせよ。

昆虫を動かし、人を動かし、社会を動かしているのです。

桜は日本人の好みを知っているのです。

だから、植物に話しかけると良く育つのです。

人が望めば花木たちはそのように育つわけです。

「念ずれば花、開く」ですね。

私たちが花木に心を寄せるのには、

人間本位による理性や論理による結果ではなく、

逆であって、花木に私達が影響を受けた結果なのです。

もしかすると、人間がどれ程バカ・アホ・マヌケであっても、

植物に従うなら正してくれる可能性があるかもしれません。

そう考えると、愛とは自然環境に操られているのかも!?

言い方を変えれば、

愛は環境の変化にどのように対応するかによって、

愛は絶え間なく変化してゆく、

自然に対して適応する能力であるともいえるのです。

愛は自然を必要とし、自然は愛を必要としている。

そう考えると、私たちはもっと自然に操られて良いのでしょう。

確かに人は環境が過酷で悲惨だと愛にすがりたくなる様に、

日本の四季の美しさは、自然環境が厳しいゆえの愛のカタチである。

自然は無関心で(感情がない)、意図とは無縁で(意思がない)、

だが、傾向は持っている(方向性はある)のです。

桜も同様、あらゆる植物、菌類、昆虫、動物には、

一つの共通祖先が備わっているように、

何らかのシグナル伝達システムがあるようなのです。

そんな伝達システムによる蒼然たるスケールは、

生命の領域のあらゆる側面に影響を及ぼし、

それでいてはっきり考察されることはない。

植物の知性の研究の最前線では、

非常に興味深い側面に光を当てている。

私たち人間にとって自分たちとは異なる方法で

思考する伝達システムが植物にはあるというのです。

事実、脳だけでは知性が生まれないことは間違いありません。

脳は魔法の器官ではなく、単独では何も作り出すことは出来ない。

人類最高の天才脳ですら、それ自体では胃よりも知的なわけではない。

どんな知的な反応をするにしても、

体の他の外からの影響から届けられる情報が必要不可欠なのです。

ひょっとして、全ての昆虫たちは

植物によって動かされて繁栄しまた敵対しているのかもしれません。


桜が持つ不思議な知性と人間の脳による共感作用。

いつの時代もどこかで繋がっているような神秘。

そう考えると、なんだか「ほっと」しますよね。



    つづく。