今日は昨晩いためるはずだったケチャップのソーセージチャーハンと、冷蔵庫にあるおかずいろいろ。
チャーハンだけじゃ飽きるかな・・と思って詰めたけど、要らなかったみたいでした。(-_-;)
右上のは、1年ぐらい前に作って冷凍しておいたクッキーを焼いたものです。焼くのに少し時間がかかりましたが、味は変わらずです。
珍しく休日(の夕方から)遊びに出かけた息子は、早めに帰ってきました。
ますます何をしに出かけたのかよく分かりません。ひとり食事だけで外に出るとは思えないんですよね。
こうしてあれこれ考えているとまたストーカー呼ばわりですから、考えないようにしますが。
しかし、だがしかし、いつか息子が出て行って、一人で暮らすようになると思うと、寂しさでキュンキュンします。親バカなのでしょうが、ここまで家にいてくれてうれしい息子は他にいないのでは?と思うのです。
何しろ静かで、何も言わない。いびきすら聞こえない。私が家事をなまけていても何も言わない。たまに食洗器やルンバを動かしてくれる。電気切れると交換してくれるし、ビンの蓋を開けてくれる。
一言多いとか余計なことを言われるとかだと「うるさいなぁ」と思うのでしょうが、それがない。たとえ言うにしても傷つけるような言い方はしない。仕事が終えるとまっすぐ帰ってくるし、休日も家にいるし、こんなに安心させてくれる家族は世界でなかなかいないんじゃないかと思うぐらいです。
やっと晴れてそう思える日が来て、ここのところの毎日がハッピーだったのに、そのうち一人暮らしとか結婚とかして家を出るかもと想像するだけで、たちまち胸が痛くなります。(-_-;)
こんな何十年もずっと一緒にいて、元旦那を始め、両親も、次々いろんな人との別れがあり、最後に息子までこの先出て行かれるのかと思うと、何のために生きているんだろう。ただただ人は悲しい別れを体験するために生きていかねばならないのでしょうか。
最初からそう分かっていたら、結婚も出産も何もしなくて、お別れも最小限(親二人のみ)にとどめたのに。
もうこれからは、絶対誰とも出会いません。
これ以上別れる悲しみを経験したくないのでね。
あたしゃ、深い関わりは一切もたずに、一人はぐれ鳥として生きていきますよ。
何が出会いの喜びだぁ、しらじらしい。そんなのケッとつば吐いてやりまっさ。
やっぱりこういう時は中島みゆきに限るなぁと思って、さっきも聴いていました。
中島みゆきさんはいいですよね。何が良いって、表面的なきれいごとを言わないところ。
例えばさっきの「出会いの喜び」みたいなチャライきれいごとを言わないところです。
「人生は基本悲しいものである」という前提で詩を書くから好きなんです。
私もそれが基本だと思うんですよね。中島みゆきさんの歌で「人には笑顔のままで泣いている時もある」という歌詞があるけれど、私もそうだと思うんです。
悲しみを知らないと、笑顔のままで泣いている人がいるとは気がつかないんですね。
そういう見方はできないと思うんです。
さっき聴いていた歌は「報われたら泣こう それまでは笑ってゆこう」という歌詞があって、それもいいなと思いました。
悲しみの中に立ち上がる強さがあるんですね。
そうでありたいです。