大国主の誕生393 ―津守氏と丹比氏と海人―
住吉大社の司祭氏族である津守氏は、『先代旧辞本紀』によれば天照国照彦天火明
櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)五世の孫
建筒草命を祖とする、とあります。
その『先代旧辞本紀』によれば、丹比連も同じく建筒草命を祖にする、とあります。
丹比氏には、この丹比連の他に、丹比君、丹比宿禰などの氏族がいますが、このうち
丹比君は『古事記』や『日本書紀』に、宣化天皇の系譜と記されているので丹比連とは
別系統の氏族なのでしょう。
問題となるのは、丹比氏の本貫が河内国丹比郡である、ということです。
丹比郡と言えば、葛城と難波をつなぐ丹比道が通る地であり、葛城曾都毘古の娘、
石之日女命が生んだ反正天皇ゆかりの地でもあるからです。
住吉にゆかりがあると思われるスミノエノナカツミコの反乱の際に津守氏がこれに
加担した形跡がないのも、津守氏が葛城氏と結びつきがあったからだと思われます。
(スミノエノナカツミコが殺害しようとした履中天皇も石之日女命が生んだ御子です)
旧丹比郡には丹比神社(堺市美原区)が鎮座します。ここの祭神は火明命と反正天皇
です。
この神社には、反正天皇の産湯に用いたという伝承を持つ井戸があります。
『日本書紀』には、
「天皇、初め淡路宮(たじいの宮)に生まれませり。生れましながら歯、一つの骨のごとし。
容姿美麗。ここに井あり。瑞井(みつのい)という。すなわち汲みて太子を洗いまつる」
『新撰姓氏録』に、
「丹比宿禰。仁徳天皇の御世、皇子瑞歯別命(ミズハワケノミコト=反正天皇)淡路宮に
誕生の時、淡路の瑞井をもって、御湯にそそぎ奉る」
と、記されています。
なお、文中にある淡路宮については、「あわじの宮」、つまり淡路島にあったとする説も
あります。
ところで、この丹比神社のある堺市美原区多治井に隣接して美原区余部(あまべ)が
あります。
余部は海部(あまべ)に通じます。
しかも、この周辺には大饗という地名もあるのです。
海部、大饗という言葉から連想されるものは、海人系の氏族である安曇氏が大嘗祭に
おいて食膳を司る役目を担っていたことです。
これは『延喜式』にも、
「安曇宿禰火を吹く。内膳司、諸氏の伴造を率いて、各、その職を供給して、御膳を
料理す」
と、記されています。
なお、文中にある内膳司は高橋氏が務めていましたが、神饌行立の際には、高橋氏が
鮑汁漬(あわびしるしち)を執り、安曇氏が海藻汁漬を執りました。
津守氏も海人系の氏族であった、とする説もあるのですが、これは、火明命系の氏族に
海人系氏族が多くいること、津守氏が祭祀する住吉神に海神の性格が見られるためです。
その津守氏と同族である丹比氏ゆかりの丹比神社の周辺に海人を連想させる地名が
あることは無視できません。
八十島祭と住吉、住吉と埴使の神事。これらを解き明かすには海人系氏族を通して見る
ことが必要になってくるのです。
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