大国主の誕生394 ―津守氏と倭氏のつながり―
では、あらためて『日本書紀』の香久山の土を取る話と、『住吉大社神代記』を比べて
みましょう。
『日本書紀』では香久山の土を取りに行くのがシイネツヒコとオトウカシで、ふたりは
老人に変装し、蓑笠をかぶるという姿で赴きます。その姿恰好を見た敵の兵士たちは、
「ずいぶんと醜い年寄りたちだ」と、嘲笑する場面が描かれています。
『住吉大社神代記』では香久山の土を取りに行くのは古海人老父(こあまのおきな)と
為賀𥿻悉利祝(いかしりのはふり)で、姿恰好は田の蓑・笠・簸を着て、「醜き者として
遣わして」と記されています。
どちらも香久山の土を取りに行くのは神託で「香久山の土で天の平瓫を造れ」とあった
ためです。
『住吉大社神代記』で香久山の土を取りに行くのが古海人とあるのは注目に値します。
『日本書紀』で香久山の土を取りに行くシイネツヒコは、『日本書紀』、『古事記』ともに
倭氏の始祖と記しているのですが(『古事記』ではサオネツヒコ)、シイネツヒコが神武
天皇に従うことになった由来は、『古事記』も『日本書紀』も、大和に向かう航路にあった
神武天皇の前に、海上をシイネツヒコがやって来て海上の道案内を務めたことに始まる
のです。
このようにシイネツヒコには海人の性格も見られるのです。
ところが、倭氏の始祖について、『古事記』、『日本書紀』とは異なる伝承が存在する
のです。
津守氏と丹比氏が天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホア
カリクシタマニギハヤヒノミコト)五世の孫建筒草命を祖とする、ということが『先代旧辞
本紀』に記されていることは前にもお話ししました。
しかし、その『先代旧辞本紀』と丹後の籠神社に伝わる『海部氏勘注系図』には、倭氏に
ついて、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊から始まる氏族である、と記されているのです。
それによれば、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の孫の、天村雲神と丹波の伊加里姫命
との間に生まれた倭宿禰命という神が倭国造の祖とあります。
この倭国造が倭氏のことであることは、『日本書紀』にも、
「珍彦(註:シイネツヒコのこと)をもって倭国造とす」
と、記されているところです。
つまり、倭氏は津守氏や丹比氏と同族というわけです。
それにしても、伊加里姫命という名前は為賀𥿻悉利祝や坐摩神社(いかすり神社)を
連想させるものですが、「山城国風土記逸文」にある、賀茂建角身命の妻、丹波の神野の
伊可古夜日女を思わせる名前でもあります。