小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

386 草薙の剣と日の御子

2015年05月05日 00時26分30秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生386 ―草薙の剣と日の御子―


 またまた更新をお休みさせていただきました。1週間ぶりの更新になります。
 なかなか更新もままならない状況ですが、がんばりますのでどうぞお付き合いをお願い
します。


 さて、前回まで、お話しが長くなってしまったので、ここで一度整理してみます。
 葛城氏が最盛期を迎えた、いわゆる河内王朝時代。つまりは15代応神天皇から19代
允恭天皇までのこの期間では、天皇は日の御子と称されました。
 この日の御子の思想がなぜこの時代に用いられるようになったのでしょうか。

 「押し照る」の枕詞を持つ難波には八十島祭がありましたが、岡田精司はこれを国魂神の
祭礼であると同時に太陽祭祀でもあった、とします。
 難波には、新羅のアメノヒボコとアカルヒメの伝承があり、その他にも朝鮮に関わる痕跡が
残されているのです。
 また、『古事記』には、「品陀の日の御子 大雀」という歌があります。
 そして、ホムタワケノミコト(応神天皇)の伝承にも太陽の御子の性格を見出すことが
できるのです。
 この他にも、応神天皇には越前の気比大神や紀伊が関わる伝承があります。
 気比大神はアメノヒボコと同神ともいわれ、また伊勢神宮外宮の祭神、豊受大御神との
関連もうかがわせる神です。
 そして、気比大神の信仰には「剣(つるぎ)」という言葉が関係します。
 そのひとつに越前の剣神社がありますが、ここの祭神はスサノオと気比大神です。

 スサノオの信仰と言うと、出雲のイメージがありますが、紀伊にもスサノオの信仰があり、
松前健らは、むしろ紀伊の方がスサノオの原郷であろうと考えます。
 スサノオには朝鮮に関わる伝承もあり、『日本書紀』の一書は、スサノオが持つ剣の名を
「オロチの韓鋤の剣」と記しています。
 実は、スサノオ、アヂシキタカヒコネ、神武天皇、応神天皇には「死と再生」の物語が含ま
れており、その箇所では剣が関係しているのです。

 それでは、「朝鮮」、「剣」、「死と再生」、この3つのキーワードをどのように解けば
いいのか。
 それが、北陸地方でさかんに行われていた白山信仰でした。
 この信仰は全国で行われていましたが、とりわけ紀伊から伊勢、尾張、近江、美濃を経て、
北陸へと至る地域で信仰されていました。
 そして、この白山信仰は「死と再生」の儀礼を行っていたのでした。

 剣も、死と再生が関わっています。スサノオ、アヂシキタカヒコネ、神武天皇、応神天皇の
伝承にもその形をみることができます。

 その中で、『日本書紀』の一書には、スサノオがヤマタノオロチを斬った剣の名を「オロチの
韓鋤の剣」と記しています。さらに言えば、この時スサノオがヤマタノオロチの尾から取り出した
剣は「草薙の剣」。アヂシキタカヒコネの剣の名は『日本書紀』では「大葉刈」。いずれも
「韓鋤」とイメージが重なります。

 そして、アヂシキタカヒコネも草薙の剣と関係するのです。
 『日本書紀』の天智七年の記事には、新羅の僧、道行が草薙の剣を盗み出し、新羅へ持ち
帰ろうとしましたが、途中暴風に遭って失敗に終わった、と伝えますが、アヂシキタカヒコネを
祭神とする難波の阿遅速雄神社(あちはやお神社)では、この時に道行が投げ捨てた草薙の剣を
里人が回収してこの阿遅速雄神社に納めた、とする話を伝えているのです。
 現在、草薙の剣は愛知県の熱田神宮に納められていますが、熱田神宮の側でも、阿遅速雄神社の
伝承を認めているようです。
 それと言うのも、現在でも阿遅速雄神社の祭礼日(10月22日)には熱田神宮の宮司あるいは
神職の参例あり、熱田神宮の大祭(6月5日)には、阿遅速雄神社の宮司、氏子総代らが参列
するからです。
 それに、熱田神宮の大祭の熱田祭は「菖蒲祭」とも呼ばれ、かつては陰暦の5月5日に行われて
いましたが、阿遅速雄神社には神池として菖蒲池があり、5月5日には菖蒲刈神事が行われている
のです。

 さて、「高光る 日の御子」の語が登場する歌は、第16代仁徳天皇から雄略天皇の時代にかけて
のものでした。すなわち、葛城氏の全盛期の時代です。その中にあって、尾張氏の女性ミヤズヒメが
ヤマトタケルに贈った

 高光る 日の御子 やすみしし わが大君(下略)

と、いう歌のみ、12代景行天皇の時代のものでした。
 『古事記』のこの場面では、ヤマトタケルはミヤズヒメに草薙の剣を預けているのです。
 これが、尾張国の熱田神宮に草薙の剣が収められている理由なのですが、草薙の剣が難波とも
関係していたとなれば、ミヤズヒメの歌も後世の挿入と考えられますし、その歌に「高光る 
日の御子」という言葉があっても不思議ではなくなるのです。

 やはり「高光る 日の御子」の思想は葛城氏の全盛期のものと考えてよいでしょう。