小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

その歌はアカン

2014年11月24日 00時26分07秒 | 日記
2012年3月25日(日)(3歳12か月)


 もうすぐ春奈の4歳の誕生日なので、僕の両親がイタリアン
レストランで誕生日会をしてくれることになった。

 レストランの駐車場で予約していた時間まで待っていると、
突然春奈が、

 「あほがみーる ブタのけーつ♪」

と、歌いはじめた。

 実は少し前から、一体どこで覚えたのやらこの歌を歌うこと
があった。

 その都度みんたが、

 「そんな歌を外で歌ったらアカンよ」

とか、

 「おばあちゃんの前で歌ったらビックリされるで」

と、諭していたけど、今、春奈、おばあちゃんの前で歌っち
まったよ。

 ところが僕の母親は、

 「今の子もその歌を歌うんやねえ」

と、笑う。

 春奈が赤ん坊の時からそうだったけど、孫がすることは
何でも可愛いようだ。


280 朝日郎の伝承

2014年11月24日 00時20分22秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生280 ―朝日郎の伝承―


 雄略天皇の時世で行われたことのひとつに伊勢の平定があります。

「雄略18年の八月、物部莵代宿禰(もののべのうしろのすくね)と物部目連(もののべの
めのむらじ)を派遣して伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)を討たせた。
 朝日郎は、伊賀の青墓まで来て官軍を待ち受けた。朝日郎の放つ矢は二重の鎧も貫く
ほどの威力だったので、官軍は攻めることができず、2日間対峙したままだった。  
 そこで、物部目連がみずから太刀を持ち、筑紫の聞物部大斧手(きくのもののべの
おおおのて)が楯を持ってふたりで攻めこんだ。
 朝日郎は遠目にふたりが攻めてくるのを見て、矢を放つと、矢は大斧手の楯と冑を貫き、
大斧手の体に一寸ほど突き刺さった。
 大斧手はそれでも楯で物部目連を隠し守り、目連は朝日郎を捕えて斬り殺した」

 この伝承もこれまでに何度か紹介しましたし、「伊勢国風土記逸文」の伊勢津彦の伝承
も並べて紹介してきました。
 こちらの方は、神武天皇の時代のこととし、伊勢津彦を攻めるのも天日別命となって
います。
 伊勢津彦が、伊勢に限定された神ではなく、『播磨国風土記』にも、揖保郡の条に登場
します。
 ところが、朝日郎も播磨と関係があるようなのです。正確に言えば天一目箇神と関係が
あるようなのです。
 そもそも朝日郎とは、伊勢国朝明郡(あさけ郡)にいた勢力をひとりの人物に集約した
ものであろうなどと言われていますが、朝日郎を討った功績により、物部目連は猪飼部を
賜った、と『日本書紀』にあります。
 これは、朝日郎との戦いで不甲斐なさを露呈した物部菟代宿禰に激怒した雄略天皇が、
菟代宿禰の所有していた猪飼部を召し上げて目連に与えたものなのですが、『日本書紀』の
卜部本が猪飼部と記すものが、伊勢本や熱田本では猪名部とあります。
 猪名部(いなべ)ならば伊勢国員弁郡(いなべ郡)のことか、あるいはそれに関係する
ものなのかもしれません。
 日本古典文学大系『日本書紀』の頭注によれば、多度神社の南に猪飼の地名があるといい
ます。
 多度大社の別宮の一目連神社は天目一箇神を祀っていますが、谷川健一(『青銅の神々の
足跡』)は、一目連を物部目連から来たもの、と考察しています。
 谷川健一がこの著作の中で展開する持論は大変興味深いものなので、これを軸にして話を
進めていきたいと思います。

 下野国芳賀郡南高岡の鹿島神社の社伝によれば、同じ南高岡にある仏性寺に生まれた勝道
上人は、垂仁天皇の御子の池速別皇子とあるそうです。
 鹿島神社の社伝には、東国に下った池速別皇子は病のために片目を失ったので都に帰ること
がかなわず、この地に留まった、とあることが『青銅の神々の足跡』の中に書かれていますが、
これは天目一箇神がその名から片目の神であるといわれることと重なります。

 またこの皇子は『新撰姓氏録』には息速別皇子と記されますが、息速別皇子が幼少の頃、
垂仁天皇が皇子のために宮室を伊賀国阿保村に築き、封邑して、その子孫が允恭天皇の時代に
阿保君の姓を賜わったとあります。
 朝日郎が皇軍を迎え撃ったとある青墓もこの阿保に含まれていた、と谷川健一は考えてい
ます。

 池速別皇子は『古事記』では伊許婆夜和気命(イコバヤワケノミコト)と記され、

 「伊許婆夜和気命は、沙本の穴太部別の始祖」

とあります。
 沙本は奈良市の佐保のことで、この地には阿保山の地名があるといいます。ここには不退寺が
ありますが、『地名辞書』には、

 「阿保あるいは穴太に作る。もと伊賀国の地名なり。沙本すなわち佐保なれば彼国よりここに
移れる阿保氏ありて阿保山の号は出でたるなり」

とあり、このことから、伊賀国阿保はそれ以前には穴太(あなほ)であった、と考えられるのです。
 不退寺は、元は平城天皇が隠棲した邸宅で、その子阿保親王、さらにその子の在原業平が住み、
在原業平が寺院にしたと伝えられることから、別名を業平寺といいますが、在原寺とも称してい
ました。
 そして、『山辺郡誌』によれば奈良県天理市にも在原寺が存在したというのです。
 こちらの在原寺は明治時代に廃寺となり、現在、在原寺のあった場所には在原神社がありますが、
元の在原寺は平尾山に建てられ、在原神社の鎮座する場所に移された、とされます。
 ところが、平尾は市辺之押歯王の邸宅があり、その子、仁賢天王の石上広高宮の比定地でもある
のです。

大阪サトリ

2014年11月22日 00時42分11秒 | 日記
2012年1月4日(水)(3歳9か月)


 みんたたちが、キラちゃんに日本語で何か言った時に、

 「今のは大阪サトリ(大阪弁)」

と、解説しているのを横で聞いていたのだろう、春奈が、
僕に、

 「アカンは大阪サトリ」

と、言った。

 わかってるって、そんなん。

 それにしても、春奈も「あかん」が大阪弁だということは
わかっていたのか?

 たぶん、春奈は標準語なんて言葉は知らないと思うけど、
標準語と大阪弁があるということは知っているようだ。

 そして、この言葉は大阪弁だ、ということもいくらかは
知っているのだろう。


 さて、そのキラちゃんは韓国でヒッポのメンバーをやって
いるだけに、日本のヒッポのファミリーに参加したいと言って
いた。

 でも、残念なことに年末年始はどこもファミリーは休み。

 それが、今日は守口市のファミリーがやっているらしい。

 ただし、普段の活動をするのではなく、年末年始の国際ホーム
ステイプログラムでメキシコに行ってきた仲間が今日帰国するの
で、帰国報告会をやるそうだ。

 で、その仲間、というのがよく知っている人物だし、って言う
かうちの北野田ファミリーにもよく来てくれる人なので、今日の
守口ファミリーに行きたいな、と思っていた。

 ところで、年末にみんなでスーパー銭湯に行こう、と言ってい
たのに、結局行ったのは僕と春奈だけだった。

 それで、この正月休みの間にあらためてみんなでスーパー銭湯
に行こうか、と家族の間で言っていたのに4日になってしまった。

 明日から僕は仕事。みんなで行くなら今日しかない。

 「どうする?銭湯に行く?守口ファミリーに行く?」

と、みんたが訊いてきたので、

 「守口の方に行きたいかな」

と、僕が答えると、ゆうきとりえが声をそろえて言った。

 「銭湯がいい!」

 なんてヤツらだ!

 いつもファミリーで一緒に活動している仲間が帰国してそのまま
帰国報告会をやる、というのに。

 意見が分かれたので、キラちゃんの行きたい方に行こう、とい
うことになった。

 キラちゃんに訊くと、ヒッポファミリーの方に行きたい、という。

 じゃ、それで決定。

 ところが、ゆうきとりえは、

 「じゃ、留守番して冬休みの宿題やっとく」

と言う。

 つくづく何てヤツらだ。

キラちゃんの車酔い

2014年11月20日 01時30分49秒 | 日記
2012年1月3日(火)(3歳9か月)


 みんたが、十兵衛から、「正月はうちに飲みに来い」と、
誘ってもらっていたので、みんただけでなくうちの家族全員
でおじゃますることになった。

 この時に初めて分かったのだけど、実はキラちゃんは車酔い
しやすいタイプだった。

 いつも車で出かける時に、「どれくらい時間かかる?」と、
訊いてきていたのだけど、その理由はそれだったのか。

 そうなんだったら言っておいてくれていればよかったのに。

 がんばろうと思っていたのか、それとも日本語でどう言えば
いいかわからなかったのか。

 でも、だからそれで「お出かけはしたくない」とは1度も言わ
なかった。その点は評価してあげないとな。

 車酔いしやすい体質なら、大人でも出かけるのは嫌だ。

 だから、海外ホームステイでも、つい「行きたくない」と、
言う人もいなくはない。

 海外ホームステイでは、イヤなものはイヤとハッキリ言うこと
も大切だけど、その理由をきちんと伝えないと、ホストがいろいろ
気を使うことになる。

 キラちゃんが選択したのは、「がんばって一緒に行く」だった。

 えらい!

279 雄略天皇の葛城山での狩り

2014年11月20日 01時27分40秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生279 ―雄略天皇の葛城山での狩り―


 一言主神との出会いについて、『古事記』と『日本書紀』は同じことを書いている
ように見えて、実のところ、その内容は大きく異なります。
 『古事記』の記述では、雄略天皇は一言主神に対して畏怖の気持ちで接し、色々な
ものを献上しているのに対し、『日本書紀』はともに馬を並べて一緒に仮を行うなど、
神に対して対等の立場として描いているのです。

 こうした違いは、『日本書紀』では雄略五年の二月のこととされる、葛城山で狩りを
おこなった時のエピソードにも見られるのです。
 この話も『古事記』と『日本書紀』では大きく異なるのです。

(『古事記』)
 「ある時、天皇が葛城山の上に登られた時、大猪が現れました。
 天皇はすぐさま弓矢を取るとその大猪に射ましたが、大猪は怒って突進してきました。
 大猪のうたき(唸り声)に恐れて、天皇は榛の木の上に逃げ登って難を逃れますと、

 やすみしし わが大君の 遊ばしし 猪の 病猪の うたき畏み わが逃げのぼりし
 あり尾の 榛の木の枝

と、歌われたのでした」

(『日本書紀』)
 「獲物となった猪がたけり狂い、人々は逃げまどった。天皇のそばにいた舎人は恐怖
して木の上に登って逃げた。
 天皇はその舎人に向かって、
 『あの猪を弓で止めてとどめを刺せ』
と、命じたが、舎人はおそれおののいたままであった。
 そうしているうちに猪は天皇の前に迫った。
 天皇はみずから弓を引いて猪に命中させると、脚を振り上げて蹴り殺してしまった。
 それから、その舎人を切ろうとした時、舎人が、

 やすみしし わが大君の 遊ばしし 猪の 怒声畏(うたきかしこ)み わが逃げの
ぼりし 在丘(ありを)の上の 榛が枝 あせを

と、歌った
 それを聞いた皇后は不憫に思い、天皇に、
 『陛下が狩りをお好みになれるのはけっこうでございます。ですが、ご趣味のために
舎人を斬るという行為は獣と変わりないではないですか』
と、言った。
 天皇は皇后の言葉を受け入れて舎人を許してやり、
 『楽しきかな。人は狩りをして獣を得るが、朕は狩りをしてよい助言を得た』
と言った」

 『古事記』では、雄略天皇が着の上に登って逃げ、その後で歌を歌ったとなっている
のに対して、『日本書紀』では木の上に登って逃げたのは舎人であり、天皇は猪を殺して
しまう、そして歌を歌ったのも舎人、となっているのです。

 『日本書紀』の雄略天皇は、偉大な天皇であり神とも対等な存在として描かれています
が、『古事記』の方はそうではありません。
 葛城氏の本宗を滅ぼした雄略天皇ですがまだ葛城の地を完全に支配するには至らず、
葛城の神や大自然を畏れなければいけなかったのです。