小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

イヤイヤ オッオ♪

2012年11月23日 01時00分50秒 | 日記
2010年1月19日(火)(1歳9か月)

 
 今日は火曜日。

 北野田ファミリーの日である。

 ファミリーの帰りに、春奈が、

 「i-ya i-ya o ow♪」

と、歌っている。

 アニメ『あにゃまる探偵キルミンずぅ』のエンディング曲だ。

 タイの双子デュオNeko jumpの歌う『Chuai Mad Noi』。

 歌詞もタイ語である。日本のアニメでタイ語の歌も珍しいと思う。

 今までゆうきとりえが歌っている時にも一緒になって春奈も歌っていたけど、
ひとりで歌うのは初めてだ。

 ただし、音程が少し変。ちょっと違うぞ。

 まあ、それはさておき・・・

 この歌に限らず、春奈が歌を歌うのはいつもお姉ちゃんが歌っている時だ。

 ひとりで歌っていることはまずない、というのがこれまでだった。

 最近いろんな「初めて」が多い。


 ちなみに、この歌はyou tubeにもアップされてます。

 ↓

http://www.youtube.com/watch?v=HSh2gyarmCI

新春ワークショップにて

2012年11月22日 03時05分18秒 | 日記
2010年1月17日(日)(1歳9か月)


 ただ今韓国の家族がステイ中。

 レックス・コリアのメンバー家族で、お母さんのリュウちゃん、
11歳のお兄ちゃんのケロロに7歳の妹のハナちゃん。

 きのうはわが家で歓迎の持ち寄りパーティ。

 で、今日はゲスト家族と一緒に新春ワークショップに参加。

 ワークショップ会場で、モモちゃんのエスポーソ(スペイン語で
ご主人)十兵衛(もちろんヒッポネーム)を見つけた春奈。

 十兵衛を指さして、

 「じゅうべえ」

と、言った。

 モモちゃんのことは前から「ももちゃん」と言っていたけど、
「じゅうべえ」は初めてだ。

 前から人の名前は認識していたことはしてたんだろうけど、
実際に口に出すことはあまりなかった。

 これから、人とコミュニケーションを取る時に相手の名前も
言うようになるんだろうな。


 ところで、この日のワークショップの会場は梅田。

 ここの会場のそばには阪神高速の梅田出入り口があるのだけど、
ビルのど真ん中を高速道路が突き抜けている。
 ケロロにその光景を見せてやると、興奮していた。

 見せた甲斐があるってもんだ。

55 大吉備津日子と大物主

2012年11月22日 02時57分57秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生55 ―大吉備津日子と大物主―


 孝霊天皇の皇子である2人の吉備津日子は、母親は違いますが、それ
でもそれぞれの母親は姉妹なのです。

 2人の母親については、『古事記』の3代懿徳天皇のところで、

 シキツヒコタマデミノミコト(師木津日子玉手見命)は片塩の浮穴宮
(うきあなのみや)に坐しまして天下をお治めになられました。
この天皇は、カワマタビメの兄、縣主羽延(あがたぬしはえ)の娘アク
トヒメ(阿久斗比売)を迎えられてお生まれになった皇子は、
トコネツヒコイノネノミコト(常根津日子伊呂泥命)、
オオヤマトヒコスキトモノミコト(大倭日子鉏友命)、
シキツヒコノミコト(師木津日子命)。
 この3人の皇子の中でオオヤマトヒコスキトモノミコトが次の天皇に
おなりになられました。
シキツヒコの命には二人の皇子がおられ、ひとりの皇子は、伊賀の須知
の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置の始祖です。
もうひとりの皇子ワチツミノミコト(和知都美命)は、淡道(あわじ)
の御井宮(みいのみや)に坐しました。
また、この王にはふたりの娘がいらっしゃいました。
姉の方がハエイロネ(蝿伊呂泥)、またの名をオオヤマトクニアレヒメ
ノミコト(意富夜麻登久邇阿礼比売命)。
妹の方がハエイロド(蝿伊呂杼)です。

と、ありますが、この姉妹の父は、懿徳天皇の孫にあたる人物で、淡路島
の御井の宮に坐すと記されています。
 淡路の御井といえば、ここの清水を天皇に献上するという習慣があり、
水取部に関係していたと考えられています。
 兄弟の母親は、このようなゆかりのある地の出身だったのです。

 2人の吉備津日子は鬼退治で有名な桃太郎のモデルだと言われています
が、愛知県犬山市の木曽川沿いにも桃太郎神社があり、そのすぐ近くには
氷室という地名も残されています。氷室は名前のとおり氷を貯蔵するもの
で、これも水取部の管理するものでした。

 ちなみに、犬山市の東の宮古墳からは、大和の鏡作坐天照御魂神社の神宝
である鏡と同じ鏡と出雲産と思われる合子(ごうす)が発見されています。
(科学的分析が行われていないので出雲以外の産地で作られたある可能性も
あります)

 そこで重要になるのが、ヤマトタケルとその兄オオウスの命の母親がワカ
タケヒコの娘だとする『古事記』の記事です。
 ヤマトタケル兄弟と愛知・岐阜の両県との関係は、

 ①ヤマトタケルと尾張氏の祖ミヤズヒメとの恋話
 ②東征を終えミヤズヒメのもとに戻ってきたヤマトタケルは草薙剣をミヤ
ズヒメに預けたまま伊吹山の神を退治しに行くが敗れてしまう。
 ③父の景行天皇から、美濃の国造の祖カムオオネの王(大根王)の娘で
エヒメ(兄比売)とオトヒメ(弟比売)の姉妹を后に迎えたいので連れてく
るようにと命じられたオオウスの命は、この姉妹を自分の妻にしてしまう。
エヒメの生んだ子が美濃の宇泥須和気の始祖で、オトヒメの生んだ子が牟宜
都君等の始祖。
 ④ヤマトタケルが東国に旅発つ時に、美濃のオトヒコノキミ(弟彦公。
 オオウスの命とオトヒメの間に生まれた王子と同名なので同一人物と思わ
れます)を連れて行くが、
 ⑤弟彦公はその際に、イシウラノヨコタチ(石占横立。三重県桑名市に
 石占の地名があります)と、尾張の田子稲置、乳近稲置の人々を連れてくる。

 このように、吉備と尾張との間に関係性が見て取れるのですが、この地方に
鴨県主の存在があるのです。
 神大根王の関わる縣主神社の鎮座する美濃加茂市という地名がまさにそれです。
 鴨県主は、鴨君と同族であると言われますが、その鴨君は、記紀ともに三輪氏
と同じくオオモノヌシの子孫、と記されています。
 愛知県一宮市には、どういうわけか尾張一の宮が2つあり、1つは真清田神社
(ますみだ神社)、もう1つはオオモノヌシを祀る大神神社(おおみわ神社)なの
です。奈良県桜井市の大神神社と同じ名前です。
「尾張国風土記逸文」にあるホムツワケ伝承に登場する神アマノミカツヒメを祀る
阿豆良神社(あづら神社))もまた一宮市にあります。
何度も繰り返すようで何ですが、このアマノミカツヒメは鴨のアヂシキタカヒコネ
の妻です。

このように、水取部の鴨県主が進出した美濃尾張に吉備氏の姿がちらちらと垣間
見られるのです。
ところで、2つの尾張一の宮のうちの1つが大神神社というのが興味深い。と、言
うのも、記紀ともに、ヒコイサセリビコがヤマトトモモソビメノミコト(夜麻登登
母母曽毘売命)の同母弟になっているからです。
モモソヒメは、オオモノヌシの妻とされる女性で、そのことは『日本書紀』の中にも、

 ヤマトトトトビモモソヒメは、オオモノヌシの妻となった。しかしながら神は
昼間には姿を見せず、夜になるとモモソヒメのもとにやって来た。
 ある時、モモソヒメが言った。
 「あなたは昼間にはいらっしゃらないので、そのお顔をみることができません。
どうか今夜はここにお泊まりくださいませ。そうして朝が来て明るくなった時に、
そのうるわしいお姿をお見せください」
 それに対し、神は、
 「そなたの言うことももっともだ。それならば吾は明日の朝、そなたの櫛笥
(くしげ=櫛を入れておく箱のこと)の中に入っていよう。ただし、私の姿を見て
も決して驚いてはいけないよ」
と、答えた。
 モモソヒメは妙に思いながらも朝を待ち、櫛笥を開けてみると、1匹のきれいな
蛇がいた。モモソヒメが驚いて悲鳴を上げると、蛇は人の姿に変わり、そして妻に
向かって、
 「約束にたがえて驚いてしまったね。そなたは吾に恥をかかせた。だから吾も
そなたに恥を与えよう」
と、言うと、空に翔けあがり、御諸山(みもろやま=三輪山のこと)に帰っていっ
た。
 モモソヒメは神が去っていくのを仰ぎ見ながら、過ちを悔い、その場にへたり込
んだが、その時に箸で下腹部を突いてしまい亡くなってしまった。
 モモソヒメの亡骸は、大市に葬られた。人々はその墓を箸墓と呼ぶ。この墓は、
昼間は人が作り、夜は神が作った。

と、記されています。


・・・つづく

そばぼうろがほしい

2012年11月21日 06時47分09秒 | 日記
2010年1月13日(水)(1歳9か月)


 わが家のキッチンにはお菓子を入れたバスケット
がある。

 これは春奈の目線よりも高いところに置いてある
のだけども、時々お菓子の袋がはみ出していること
もあったりする。

 今日も春奈の大好きなそばぼうろの袋の一部が
はみ出していた。

 「これいい?」

 そう言って春奈がそばぼうろを指さした。

 おや?

 物を要求する時に、こんな言い方をするようになっ
たのか。


 その春奈がそばぼうろをボリボリ食べていると、
ゆうきが来て、

 「またお菓子食べてる」

と、少し呆れたように言うと、

  「こっち行って」

と、ゆうきに向かって言った。

 やっぱり「あっち」と「こっち」がまだ分かれていない。

言葉のコンボが使えます

2012年11月20日 01時32分46秒 | 日記
2010年1月12日(火)(1歳9か月)


 今日はみんたが主催する北野田ファミリー。

 家に帰って僕は晩ごはんだけど、春奈も同じように
テーブルに着く。

 僕以外のみんながファミリーに行く前に晩ごはんを
済ませているけど、春奈はあまり食べなかったそうだ。

 それで、今またごはんなのである。

 ごはんの途中で、みんたが春奈に、

 「まだ食べる?」

と、訊くと、

 「おかわりいるよ」

と、返事した。

 おかわりという言葉をゲットしたのかよ。

 それに、「おかわり」と「いる」の、言葉のコンボを使う
ようになったのか。