大国主の誕生50 ―出雲大神の祭祀をめぐって―
それでは、『古事記』の方では原因を出雲大神の祟りとしているのはどう
いうわけでしょうか。
「尾張国風土記逸文」には、『古事記』版の原型かと思わせる話があります。
垂仁天皇の御子ホムツワケ(品津別)は7歳になっても言葉を話すことは
なかった。
ある時皇后の夢に神が現れ、
「吾は多具の国の神、名をアマノミカツヒメ(阿麻乃弥加都比女)という。
吾を祀れば皇子の口はきけるようになり、長寿を得るであろう」
と、お告げがあったので、日置部の始祖建岡(たけおか)の君に占わせ、
阿豆良の里にこの神を祀ることになった。
このアマノミカツヒメを祀った神社が、愛知県一宮市にある阿豆良神社
(あづらじんじゃ)で、一種の縁起譚になっているのですが、ただ、この
ミカツヒメがアヂシキタカヒコネの妻であることに注意が必要になります。
皇子の口がきけない原因を神の祟りとしているのが共通点ではあります
が、「尾張国風土記逸文」でも、出雲大神の祟りとはしていません。
ここでちょっと整理してみましょう。
①垂仁天皇の父である崇神天皇の時代に疫病が流行し、そのために国内
が大いに乱れた。
②記紀では、疫病の原因が神の祭祀が不十分であったため。
③そこで神々の祭祀を改めることで疫病の流行は治まった。しかし、ここ
でも、その原因となった神々の中には出雲大神は含まれていない。
④一方で、出雲大神の祭祀を復活させるようにと意味に取れる神託があっ
たので、崇神天皇はイクメ皇子(垂仁天皇)を通して出雲大神の祭祀を
復活させた。
こういう流れになります。
しかし、④の件に関しては、
『日本書紀』と美具久留御魂神の伝承では、神託があったため、としてい
ますが、『古事記』ではその話にはふれず、代わりに、「垂仁天皇の皇子
ホムチワケの口がきけないのは出雲大神の祭祀が不十分だったためで、そこ
で天皇は皇子を出雲に遣わした」という話を載せているわけです。
また、美具久留御魂神社がある南河内の伝承では、①の疫病流行に際して、
崇神天皇は農民のために水利事業に取り組み、それに伴う水分神の祭祀も
行ったとなっており、その下水分社に美具久留御魂神が祀られていることは、
間接的に「疫病の流行の原因は出雲大神の祭祀が不十分であったから」とと
れる伝承を生み出しているのです。
これらのことから考えるに、出雲大神を祭祀する側から大和政権に何らか
のアピールのあったことが下敷きとしてあるのではないでしょうか。
『古事記』の国譲り神話の中でも、オオクニヌシは国を譲る条件に、立派
な宮を立てて自分を祭祀してくれること、を提示しています。
その『古事記』では、出雲大神の祭祀の要求が、ホムチワケ伝承となって
いるのは、アヂシキタカヒコネの神話と同源のものであるためでしょう。
大阪府側の建水分神社は国道309号沿いにありますが、国道309号を
そのまま東に進み、金剛山(葛城山)の水越峠を越えて奈良県側に下ります
と、こちらにも水分神社があります。
奈良県側の水分神社は、アヂシキタカヒコネを祀る高鴨神社の近くでもあ
り、このことからも、美具久留御魂神、出雲大神、アヂシキタカヒコネ、
ホムチワケの関係性をうかがうことができます。
それから、『出雲国風土記』によると、出雲国造が神賀詞奏上のために大和
に赴く時には、アヂシキタカヒコネの神話の舞台となった仁多郡御沢の水で
沐浴をしてから出発するとあります。
そうすると、出雲フルネの伝承とは別のことが見えてくるのです。