小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

着いたー、って、その波は・・・

2012年11月25日 01時11分31秒 | 日記
2010年1月21日(木)(1歳9か月)

 
 最近の春奈のお気に入りは、うーたんのおもちゃ。

 うーたんとは、NHK教育の番組『いないいないばぁ』
に登場するキャラクター。

 春奈のおもちゃはスイッチを押すと、『いないいないばぁ」
の歌が流れる。

 木曜日の和泉中央ファミリーの帰りの車の中でもこれを
ずっと流す。

 「はる、もういい加減にやめてや」

と、ゆうきとりえが言っても流し続ける。


 そうしているうちに家に着いた。

 すると春奈が、

 「ついたー!」

と、言った。

 だけど、その言い方が関西弁の「着いたー」じゃない。

 ヒッポのストーリーCD『ヒッポ海を渡る』の日本語版に出て
くる「着いたー」のセリフと同じ波だ。

 うーん。

 春奈の言葉は、家族や周囲の人が言っている言葉の波だけじゃ
なくCDなどから入る音からも作られていっているのか。

56 吉備臣と服属儀礼

2012年11月25日 01時07分57秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生56 ―吉備臣と服属儀礼―


 『日本書紀』に登場する逸話ですが、崇神天皇は皇子のトヨキノミコト
(豊城命)とイクメノミコト(活目命)の2人に向かって、

 「朕にとってお前たちふたりはどちらも可愛いものだ。しかしながら、
どちらか1人を次の天皇にしなければならない。どちらを次の天皇にする
べきか、夢で占うことにする」
と、言います。
 ふたりの王子は身を清め祈祷をして眠りにつき夢を見た、とありますが、
この夢は神が見せる夢だということでしょう。
 さて、兄のトヨキの命は、
 「御諸山に登り、東を向いて8度弄槍(ほこあげ)し、8度激刀(たち
かき)する夢を見ました」
と、言い、弟のイクメの命は、
 「御諸山に登り、四方に縄を張り、粟を食べる雀を追い払う夢を見ました」
と、言います。これを聞いて崇神天皇は、
 「兄は東国を治めよ。弟は次の天皇になれ」
と、告げます。
 豊城命は、上毛野君、下毛野君の始祖なり。

と、記されています。
 上毛野と下毛野は、後の上野(現在の群馬県)と下野(現在の栃木県)です。
 この話は、御諸山の神がイクメの命を次の天皇と決め、トヨキの命に東征を
行わせた故事です。

 それから、『日本書紀』の「雄略紀」に、吉備臣尾代(おしろ)という人物
が登場します。

 尾代は征新羅将軍で雄略天皇が崩御した時、ちょうど吉備を行軍中だったが、
率いていた500人の蝦夷が天皇の崩御を知ると、軍を抜け出し周辺の郡を略奪
して回った。
 尾代は、娑婆水門(広島県福山市の海岸に比定)にて蝦夷と戦ったが、蝦夷
たちは踊り、あるいは地に伏して尾代の射る矢を避けた。
 そこで尾代は弓弦を鳴らし、それから蝦夷二人を射殺した。
 やがて矢も尽きたので、尾代は船人に矢を持ってくるよう呼びかけたが、船人
は恐れて逃げてしまったので、弓を地に突き立てると、

 出征の途中で戦う尾代の子 (わが名は)母にこそは聞こえないだろうが 
わが故国の人々の耳には伝わってほしい
 (道に闘ふや 尾代の子 母にこそ 聞こえずあらめ 国には 聞こえてな)

と、歌うと、刀で蝦夷たちに斬りかかった。
 蝦夷たちは逃げ、それを尾代が追いかけ、ついに丹波の浦掛水門(京都府の
久美浜湾に比定)ですべての蝦夷を殺した。

  この話の中で、吉備臣尾代が、弓の弦を鳴らすとそれまで避けられていた
矢が当たるようになったという箇所があります。
 『日本書紀』の舒明天皇9年の項にも、次のような話が載せられています。

 この年、蝦夷が朝廷に背いたので、上毛野君形名を将軍にして派遣したが敗
れ砦に逃げ込んだ。
蝦夷たちは砦を取り囲んだ。
 兵士たちはことごとく逃げてしまい、砦の中には兵の姿もなく形名は打つ手の
思いつかないまま、日も暮れた。それで形名が夜陰にまぎれて逃げようとした時
に、形名の妻が、
 「なんといまいましいことでしょう。蝦夷に殺されようとは」
と、嘆き、それから夫に向かって、
 「あなたのご先祖たちは、海原を渡り、万里を踏み越え武勇を後世に伝えて
まいりました。今あたながそのご先祖の功績を貶めるようなまねをすれば、
きっと後の余の人たちから笑いものになるでしょう」
と、言った。
 それから酒を酌んで、夫にそれを飲むよう強要すると、夫の剣を佩き、10
の弓を用意して、女たちに弦を鳴らさせた。
 形名は杖を手にすると蝦夷たちに向かって討ってでた。
 蝦夷たちはまだ兵士たちがいたのだと思い、退却した。
 形名は四散した兵士たちを呼び集めると、再び蝦夷たちと戦いついに勝利した。

 ここでも、不利な状況から弓の弦を鳴らすことで形勢逆転に持っていきます。
 これは呪術というよりは、宮中で行われた服属儀礼の由来譚として伝えられた
話ではないかと考えられるのですが、上毛野君や、モモソヒメつながりの吉備臣
に関わる話だけに、オオモノヌシの信仰に関係したものなのかもしれません。

 出雲フルネ討伐には吉備津彦とタケヌナカワワケ(武渟川別)が派遣されま
したが、タケヌナカワワケの父で、「四道将軍」のひとりオオビコにも興味深
い伝承があります。
『古事記』と『日本書紀』には、オオキビツヒコとワカタケキビツヒコが氷河
(ひかわ)で忌瓮(いわいべ)を据えてから、その地より吉備を平定したという
エピソードに似た話とモモソヒメが関わる話が登場するのです。


・・・つづく