小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

あっち・こっち

2012年11月17日 01時22分59秒 | 日記
2010年1月5日(火)(1歳9か月)


 昨日で正月休みも終わり、今日は仕事始め。

 家に帰ると春奈を風呂に入れてやる。

 湯船の中で春奈と並んで一緒にお湯につかっていると、
春奈が、

 「こっち行って」

と、反対側を指さした。

 それ「あっち行け」と言ってるのか?

 「あっち」と「こっち」がまだ区別できていないようだ。

 にしても、えらそうな。

51 出雲西部の紛争

2012年11月17日 01時14分30秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生51 ―出雲西部の紛争―


 このシリーズも気が付きゃ50回を超えてしまいました。
 始めた当初は20回くらいで終わる予定だったんですけどね。
 いざ書き始めてみると終わらない終わらない。だらだらとなって
いますが、もう少しお付き合いくださるならありがたいかぎりです。


 さて。
 仁多郡は出雲南部に属し、フルネがイイイリネを殺害した塩冶郷は出雲西部に
属するのです。『出雲国風土記』では、やはり西部の出雲郡の項に、神門臣古禰
(かむどのおみふるね)の名がみえることからも、フルネが西部に拠点を持つ
豪族だったと思われます。

 ただし、アジスキタカヒコの伝承に関して言えば、出雲郡の項に、この神と同神
の可能性を持つアカフスマイヌオホスミヒコサワケノミコト(赤衾伊農意保須美
比古佐和気能命)を祀る神社があることが記されていますし(アカフスマイヌオ
ホスミヒコサワケがアジスキタカヒコと同神と考えられるのは、どちらも后である
女神の名前がアメノミカツヒメであるからです)、神門郡の項、高岸の郷の記事には、

 アジスキタカヒコの命、夜昼かまわず大層泣いておられた

と、ありますし、同じく神門郡の塩冶の郷の記事には、アジスキタカヒコの子ヤム
ヤヒコノミコト(塩冶毗古能命)がこの地に坐すのが塩冶の地名の由来とあります。

アカフスマイヌオホスミヒコサワケの信仰は出雲北部の秋鹿郡にも見られ、こちら
の記事に、后アメノミカツヒメが登場します。

 こうして見てみますと、ホムチワケ伝承に共通するアジスキタカヒコネ、アカフ
スマイヌオホスミヒコサワケが出雲の広範囲にまたがり大和葛城にもつながるのに
対し、出雲フルネの事件は非常にローカルな伝承なのです。
 そもそもフルネのイイイリネ殺害は、出雲西部での身内争いだったわけで、それ
が、発端が神宝を見たいと垂仁天皇が言って来たこと、結末が大和政権の討伐を受
けた、という話に挟まれることになったしまったのです。しかし元はローカルな話
だったのです。
 ところが、後日談にあたる氷香戸辺の子の神託が、崇神天皇時代の疫病流行に絡
むような形となり、ホムチワケ伝承に絡み、天下国家レベルの話になっていくのです。

 しかし、フルネはどうしてイイイリネを殺害するほどの怒りを覚えたのでしょうか?
 垂仁天皇の使者がやって来た時、フルネは筑紫に赴いており不在でした。何の目的
で九州に出かけていたのか、と想像するに、祭祀に関することだったのではないかと
思われます。それは、何度かお話した、沖ノ島の宗像大社奥津宮祭祀遺跡と出雲大社
境内遺跡に見られる古代祭祀の共通性から、そのように考えられるのですが、このこ
とからも、フルネが司祭者だった可能性がうかがえます。
 2代目の天皇の位をめぐって、カムヤイミミの命が、弟のタケヌナカワミミの命に
天皇になるよう勧め、自身は、
「私はそなたを助け、忌人(いわいびと=神を祭る人)となって仕えよう」
と、言っています。

 また、『日本書紀』の神武紀の中でも、エカシ(兄カシ)オトウカシ(弟ウカシ)
の兄弟と、エシキ(兄シキ)オトシキ(弟シキ)の兄弟が登場し、どちらも兄はイワ
レヒコ(後の神武天皇)に帰順しなかったので殺され、弟は帰順しています。(ただ
し『古事記』では、オトシキも兄同様に帰順しなかったためともに殺された、と正反
対のことが書かれています)
 それから、『魏志』倭人伝にも、邪馬台国では卑弥呼が神に占い弟が結果を皆に伝
えた、とあります。姉が祭祀を行い弟が政治を行っていたことになります。

 これらのことから、兄弟のうちどちらかが祭祀を行いもう一方が政治を担当してい
たことがうかがわれます。
 ならば、イイイリネが政治を行い、その政治的判断から大和政権に神宝を渡したわ
けで、祭祀を司るフルネにとっては神宝を失うことはとんでもない出来事だったこと
になります。
 深読みすれば、神宝をフルネの手元から話してしまうことでイイイリネは権力を自分
に集中させることを企み、それに対してフルネは反撃に出た、とも解釈できなくもあり
ません。
 門脇禎二(『出雲の古代史』)は、そもそもフルネとイイイリネは兄弟ではなく、
フルネは出雲・建部郷中心の地域の首長、イイイリネは日置・塩冶郷中心の地域の
首長とし、出雲北西部における共同体の内紛とみる説を提唱しています。

 かくしてイイイリネを殺害してフルネでしたが、大和政権の差し向けた軍によって
彼もまた滅ぼされてしまいます。
 フルネのイイイリネ殺害は、神による怒りであり、フルネは神の代行者でした。と
ころがその神罰の執行の結果、大和政権によってフルネは滅ばされてしまった。それ
で出雲の人々は恐れ、神の祭祀を自粛するようになった、というのがこの伝承の本来
の姿だったのではないでしょうか。

 それが、氷香戸辺の子の神託、美具久留御魂神、アジスキタカヒコに共通するホム
チワケが出雲大神の祟りとする伝承、などに発展したのは、そのように仕組んだ者が
いたのです。


・・・つづく