小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

風呂上りのバナナ

2012年11月18日 00時27分59秒 | 日記
2010年1月6日(水)(1歳9か月)


 いつものように、

 「春奈、風呂入ろか」

と、声をかえると、

 「あぷろ」

と、春奈が答えた。

 この間までは「あっぷ」だった。

 だいぶ「おふろ」に音が近づいているな。

 
 風呂から上がると、春奈が目ざとく大好きなバナナを
見つけた。

 「アナナ、アナナ」

と、ほしがるけど、わが家では、バナナは1日に1本と
いう決まりなので(春奈用ルール)、すでに1本食べた
春奈にはもうあげられない。

 「寝る前に食べたら虫歯になるよ」

などと言ってなだめる。

 それにしても、相変わらず食い意地が張っている。

 でも、今「アナナ」って言ってたよな。

 これも今まで「アマナ」と言ってたのに。

 いろんなところで言葉が進化していっているようだ。

52 フルネの時代の杵築の神とは?

2012年11月18日 00時14分19秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生52 ―フルネの時代の杵築の神とは?―


 では、それは何者なのかと言えば、真っ先に挙げられるのが、出雲国造の神賀詞
(かむよごと)奏上に代表される出雲巫覡集団でしょう。

 神賀詞奏上は、出雲国の国造が代替わりし、新しい国造が就任すると、一族百余人
とともに大挙上京し、数々の神宝や供え物の献上とともに、天皇の長久と若返りを
祈る神賀詞(かむよごと)を唱和するものです。

新しい国造の就任の際には、まず朝廷で行われる補任式があり、新国造が上京して
辞令を受け取るのですが、その後国に帰り、1年間物忌みをした後、一族を率いて
再び上京し、天皇に神賀詞を奏上しました。その際に、おびただしい数の、水晶や
瑪瑙(めのう)などの玉、剣、鏡、布、白馬、白鳥などを献上します。
 それが終わると、国造たちは一度出雲に帰り、また1年間の物忌みをした後、再び
上京して前回と同じ神賀詞と神宝を奉じるのです。

 『出雲国風土記』にある、出雲国造が神賀詞奏上のために大和に赴く時には、
アヂスキタカヒコネの神話の舞台となった仁多郡御沢(三沢)の水で沐浴をして
から出発するとあるのはこの時のことです。

 ただし、この神賀詞奏上に中央の有力豪族のバックアップがあったと想像できま
す。でなければ一地方の国造が天皇に神賀詞を奏上する習わしを獲得するのは困難
であるはずですから。
 その有力豪族は、時代によって変わっていったと思われます。これまで見てきた
かぎり、その豪族たちは大伴氏であり、物部氏であったと思われます。
 そして、これらの豪族たちが権力争いに敗れ中央の舞台から去っていた後、出雲
国造は新しい実力者に近づいていきます。
 これまで見てきた、オオクニヌシに関わる神話や伝承の地、つまり、アヂシキタ
カヒコネ(アジスキタカヒコ)の大和葛城や、美具久留御魂神の南河内、武内宿禰
の摂津三島、そしてフルネ討伐の阿倍氏、それに尾張氏や渡来系氏族に関わる豪族
となると、ある豪族を除いて存在しません。
 それは蘇我氏です。
 出雲大神宮の鎮座する京都府亀岡市に曽我部に地名を持つ地域があることは注目
に値します。なぜなら曽我部とは、蘇我氏の私有部民を指す名称と同じものだから
です。

 もう1つ、注意が必要なこととして、出雲国造の神賀詞に登場する神が、

 高天の原のタカミムスヒの神は天孫に地上を治めさせようと思い、アメノホヒの命
を調査に向かわせた。
 アメノホヒは、
「地上は禍々しい世界ですが、これを天孫の住まわれる世界にいたしましょう」
と、言って、わが子アメノヒナドリの命にフツヌシの命を副えて地上に遣わせた。
 アメノヒナドリは、荒ぶる神を払い伏せ、国作りましし大神オオナモチの命を媚び
鎮めた。
 オオナモチは、自分の和魂を、大物主くしみたまの命と名を添えて大和の大三輪の
神奈備に坐せ、子のアジスキタカヒコネの命の御魂を葛城の鴨の神奈備に坐せ、コト
シロヌシの命の御魂を宇奈堤に坐せ、カヤナルミの命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せ、
自らは皇室の守り神とならんと、杵築の宮に静まった。

と、あるように、あくまでもオオナモチであってオオクニヌシではないのです。
 このことは、大国主命なる神の誕生がそれ以降のことであることを示しています。
 おそらくそれは、蘇我氏が大いに関係していると思えるのですが、このことは一旦
置いて、出雲フルネの時代に話を戻します。

 神門臣古禰について、『出雲国風土記』の出雲郡建部の郷には次のように記されて
います。

 先に宇夜(うや)の里となづけられた由来は、ウヤツベノミコト(宇夜都弁命)が
ここの山の峰に天降ったからで、その神の社は今もなおここに鎮座する。それゆえに
宇夜の里という。
 しかるに後に建部(たけるべ)と名を改めたのは、景行天皇が、
 「わが皇子ヤマトタケルの名を忘れまい」
と、おっしゃられ建部を設置されたからである。
 その時、神門臣古禰を建部に定められた。すなわち、建部臣(たけるべのおみ)ら
は、古来より現在に至るまでこの地にいる。

 なんだか『古事記』にある、ヤマトタケルの出雲タケル殺しを連想される記事です
が、フルネの旧領に大和政権による部民が設置されたことを出雲側から記した内容です。
 同じ『出雲国風土記』の仁多郡三澤の郷の記事の中に、「正倉(みやけ)」あり」と
記されており、出雲国造が神賀詞奏上のために上京する前に禊を行う地に屯倉(みやけ)
が置かれていたのです。
 屯倉とは、大和政権の直轄地のことで、そこに住み人民も大和政権の所有民になり
ます。

 そうすると、フルネの時代に起こった出雲西部の内紛の時に祭祀されていた神は、
神賀詞よりも古い原杵築の神だったと考えられるわけです。

 そもそも杵築大社が現在の出雲大社に名を改めたのは明治になってからのことですし、
祭神にしても、オオクニヌシではなくスサノオだった時代もあるこの神社の真の祭神に
ついては、古くから日本史のミステリーの1つになってきました。
 ただ、考えられるのは、原杵築の神とは、天照大御神や大国主命、大物主命といった
新しい神などではなく、これまで見てきたような、アマテル神や、御諸山に坐す神のよ
うに、「海を照らしながらやって来る神」や、『古事記』の、海原を照らしながら追い
かけてくる大蛇の姿のヒナガヒメや、八尋和邇に姿で出産する海神の娘トヨタマビメと
同類の神、すなわち、出雲大社の神在祭に行われる龍蛇を海上に迎える神事の、海上よ
り白波の上を藻に乗って杵築の海辺に寄り来る龍蛇に当たるのではなかったでしょうか。
 オオクニヌシの前に現れた「海を照らしながらやって来た神」が御諸山に鎮座し、海
の神穂高見命が穂高岳に鎮座するように、海から来る神は山に鎮座します。当時の出雲
は杵築大社のすぐ近くにまで海が迫っていたとも言われています。

 ところがフルネ滅亡を機に出雲西部は変化をしていくことになります。


・・・つづく