小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

「まんま」から「こわん」に

2012年11月10日 01時05分14秒 | 日記
2009年12月28日(月)(1歳8か月)


 春奈がごはんを催促する時に、

 「こわん」

と、言った。

 今まで「まんま」だったのが「ごはん」に変わり始めたようだ。

 家族のみんなは春奈に向かっては、

 「まんま食べよか」

 などと話しかける。

 でも、春奈以外の家族には「ごはん」と言っている。

 春奈はそれを耳にしているうちに、「まんま」が「ごはん」とも
言うこと、そして周りのみんなは「ごはん」の方を使っていること
に気付いたのだろう。

 そして、それがわかると今度は自分もそれを使ってみよう、と
なったのだろう。

 春奈もどんどん言葉を見つけ、使用し、赤ちゃん用語からだん
だんとみんなが使う言葉へとシフトしていくのだろうな。

46 美具久留御魂神と大国主

2012年11月10日 00時55分51秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生46 ―美具久留御魂神と大国主―


 そうすると、丹波国氷上郡の氷香刀辺の子に降りた神託に、
「玉藻鎮石 出雲人の祭る 真種の甘美鏡」とあるのもまた、
その意味が変わってくるわけです。
 従来の解釈では、「玉藻鎮石」は、川藻の揺れる川を指す
としていますが、玉藻そのものが神につながることになって
くるのです。

 ところで、この神託、「 玉藻鎮石 出雲人の祭る 真種の
甘美鏡 押し羽振る 甘美御神 底宝御宝主 山河の水泳る
(みずくくる)御魂 静かかる甘美御神 底宝御宝主 」には、
「水くくる御魂」なる一文が登場しますが、大阪府富田林市には、
式内社の美具久留御魂神社(みぐくるみたま神社)があります。
 ここの祭神は、美具久留御魂大神ですが、この神はオオナムチ
だとされているのです。
 それから、左殿に天水分神(アメノミクマリの神)、右殿に
国水分神(クニノミクマリの神)を配合しているのは、この神社
が大阪府千早赤阪村の建水分神社(たけみくまり神社)を上水分
社と呼ぶのに対して美具久留御魂神社を下水分社とするからです。
 社伝によると、この神社の由来は氷香刀辺の子の神託をうけて
崇神天皇がイクメ皇子を遣わして美具久留御魂の名を贈り祀らせ
たものといいます。

 一方の上水分社、建水分神社の由来は、崇神天皇5年に飢疫が
起こり農民が農作に従事しなくなったので、崇神天皇が諸国に
ため池などを作らせ金剛葛城山麓のこの地に水分神を祀らせたこ
とに始まるとされます。
 これは、『日本書紀』の崇神天皇5年の記事に、

 国内に疾疫多くして、民、死亡れる者ありてなかばすぎたむとす。

とあるのと一致します。これが翌年になると国が大いに乱れ、結果、
天照大神を笠縫に遷し、イチシノナガオチに大国魂神を祀らせ、
オオタタネコに大物主神を祀らせることになるのです。
 すると、これまでに幾度となくお話しいましたこの3神の祭祀と
氷香刀辺の子の神託が関連したできごとになってしまうのです。
しかも、美具久留神がオオナムチであると伝えられているとなると、
です。

 しかし、それならば、どうして出雲や丹波から離れた大阪府の富田
林市にこのような神社と伝承があるのでしょうか。
 明治時代に、全国に数あった神社がそれぞれの地域にある1つの
神社に統合されました。
 美具久留御魂神社の場合、ここに統合された神社に大伴神社があり、
また、郡天神社や利雁神社などの、元は羽曳野市にあった神社もここ
に統合されました。
 この羽曳野市に隣接した藤井寺市には、伴林氏神社(ともはやしの
うじ神社)があり、伴林氏は大伴氏の一族なのです。
 大伴氏はアメノオシヒノミコト(天忍日命)の子孫と『古事記』は
伝えていますが、この神は『古事記』の中では、アマツクメノミコト
(天津久米命)とともに、天孫降臨で日向に降り立つホノニニギの
先導をする役目を担っています。
 出雲臣が天孫降臨で使者の役目を担ったアメノヒナドリの子孫を
称していることから、出雲臣と大伴氏は密接な関係にあり、そのこと
からこの地に美具久留神の祭祀が生れた可能性も考えられます
 なお、美具久留御魂神社に統合された大伴神社は六歌仙のひとり
大伴黒主を祀りますが、大伴黒主が中央の豪族大伴氏と関係するの
かどうかはよくわかりません。むしろ無関係であろう、とされてい
ます
 そもそもこの人は近江国滋賀県郡大友郷の人と伝えられています
が、現在の滋賀県高島市もかつては滋賀群に含まれていた地で、高
島市には和邇(わに)という地名が残されています。

 と言うのも、美具久留御魂神社は別名和邇神社(わに神社)とい
うからなのです。
 水野祐は、美具久留御魂神を和邇神であり、和邇神とは龍神のこと、
としています。さらに、オオナムチは龍神であった、と水野祐はし
ます。

 和邇といえば、出雲国造の神賀詞の中でオオナムチの子とされる
コトシロヌシが、八尋和邇に変身して摂津三島のミゾクイミミの娘
玉依姫の元に通った、とある『日本書紀』の記事を思い浮かべてし
まします。

 オオナムチが龍神であったのかどうかわかりませんが、しかし、
出雲と和邇の伝承が、『出雲国風土記』の登場するのです。


・・・つづく