小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

英語の生活

2012年11月19日 00時49分59秒 | 日記
2010年1月11日(月)(1歳9か月)


 みんたに、

 「はるー、お父さんにお風呂入れてもらいー」

と、言われた春奈が僕の所に来て、

 「あふろいれて」

と、言った。

 先日の「あぷろ」からさらに進化している。

 服を全部脱がせてやると、裸ん坊の春奈は、

 「GО!」

と、言いながら浴室に走っていった。

 英語を意識しているのか?

 ただ言葉とシチュエーションは合っている。

 たぶん、ゆうきが何かの時に使っていて、それ
をマネしたのだろうけど、本人は英語だと認識し
ていないにちがいない。

 たまに、英語教育の一環として、家の中では子供
と英語で会話するようにしている人がいるようだけ
ど、そんな家庭では今みたいなことがいつも起こっ
ているのかい?

 英語の生活って、何だかなあ。バイリンガルは
疲れそうだ。
 やっぱりマルチリンガルの方が楽っぽい。

53 出雲と吉備

2012年11月19日 00時44分51秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生53 ―出雲と吉備―


 古墳時代初期の出雲では四隅突出型方墳と呼ばれる古墳が造られまし
た。
 これは、方墳、すなわち四角形の古墳の4つの角が外に大きく張り出
した形の古墳で、出雲だけでなく山陰から北陸にかけての日本海沿岸に
見られるものです。
 この四隅突出型方墳は地山を削って作る製法で、近畿を中心に広く
分布する前方後円墳は平野や丘の上に石と土を盛り上げて造られます。

 斐伊川と三刀屋が合流する地点、ここは現在県道45号線と出雲神話街道
が交わる所でもあり古代においても交通の要所だった所です。
 ここから少し西側に向かった所、雲南市三刀屋町に松本1号墳は築かれ
ました。
 全長50メートルのこの前方後円墳からは、獣帯鏡、ガラス小玉、刀子、
針などの副葬品も見つかりました。この古墳は4世紀後半頃の築造と考えら
れ、岡山市の備前車塚古墳に酷似しているとの調査結果が出ました。
 備前車塚古墳は、全長48メートルの前方後円墳で、被葬者は大吉備津
日子命(オオキビツヒコノミコト)ではないかという説があります。
 この古墳からは、11枚もの三角縁神獣鏡と内行花文鏡、画文帯神獣鏡を
含む計13枚の鏡が出土しましたが、11枚の三角縁神獣鏡のうち9枚は同
じ鋳型で作られており、それは、古墳時代初期に造られた京都府木津川市の
椿井大塚山古墳で出土したものと同じものでした。

松本1号墳と同じ時期に造られた出雲の古墳に神原神社古墳があります。こ
ちらは、方墳で雲南市加茂町神原にあり、斐伊川と赤川の合流地点から東に
向かった所の神原神社内に築かれたものです。ちなみに神原神社そのものは
元は別の所にあり、1972年に今の場所に移転されたものです。
 こちらの神原神社古墳からも三角縁神獣鏡が出土しましたが、この鏡には
「景初三年」と銘が刻まれていました。景初三年の鏡は、邪馬台国の女王
卑弥呼が魏から賜った鏡と考えられていますが、その1枚がここから出土し
たのです。

 そして、松本1号墳と神原神社古墳は、被葬者を納めた木管の埋葬法が、
出雲東部のものとは異なり、大和や吉備(現在の岡山県とその周辺を含む
地域)の埋葬法と同じなのです。

 これらのことから、この2つの古墳は、大和や吉備との関係性が考えら
れるのです。しかも、どちらの古墳も斐伊川近くに造られています。
 このことから、フルネが崇神天皇の派遣したキビツヒコ(吉備津彦)と
タケヌナカワワケ(武渟川別)によって討たれた後、大和政権の支配下に
治められた結果と考える研究者も少なくありません。

 門脇禎二(『出雲古代史』)は、大和は関わっておらず吉備だけが関わっ
ているとする説を提唱しています。
 この当時の大和政権を、各地に存在した勢力圏の集合体で、天皇はこの
連合体のリーダー的存在だったとする研究者は少なくないのですが、門脇
禎二は、

○フルネの時代にはまだ吉備は大和影響下には入っていない独立王国であった。
○吉備勢力が出雲に攻め込みフルネを滅ぼし支配下に置いた。
○松本1号墳と神原神社古墳の被葬者は、吉備から進駐してきた指揮官である。

などの考えを発表していますが、いかに古代史が資料の少ない中で推理色と
想像力で進められるものとはいえ、この説はその証明が難しく、そのために
賛同する研究者も少ないようですが。

 記紀や『出雲国風土記』からは、吉備勢力が乗り込んできた痕跡を見出す
ことはできませんが、それでも吉備が物部氏とともに出雲に進駐したことは
ある程度史実なのではないかとする考えは根強くあります。

 それでは、吉備とはどのような勢力だったのでしょうか。

『古事記』には、7代孝霊天皇の皇子たちが吉備を治めた吉備臣たちの始祖
だとあります。それは次のように記されています。

またオオヤマトクニアレヒメノミコト(意富玖夜麻登邇阿礼比売命)を娶ら
れて、お生まれになったのが、
ヤマトトモモソビメノミコト(夜麻登登母母曽毘売命)、
ヒコサシカタワケノミコト(日子刺肩別命)、
ヒコイサセリビコノミコト(比古伊佐勢理毘古命)またの名をオオキビツヒ
コノミコト(大吉備津日子命)、
ヤマトトビハヤワカヤヒメ(倭飛羽矢若屋比売)
の4名。
またそのアレヒメの妹ハエイロド(蝿伊呂杼)を娶られて、お生まれになっ
たのが、
ヒコサメマノミコト(日子寤間命)、
ワカヒコタケキビツヒコノミコト(若日子建吉備津日子命)
の2名。

さらに、

オオキビツヒコとワカタケキビツヒコは、ともに針間の氷河(ひかわ)で忌瓮
(いわいべ)を据えられ、その地より吉備を平定されました。
オオキビツヒコは吉備の上つ臣の祖先、ワカタケヒコキビツヒコは吉備の下つ臣
と笠臣の始祖。

 吉備に上つ道と下つ道があり、それぞれ大吉備津日子と若建日子吉備津日子
が始祖になっていますが、『古事記』の記載では、この2人は母親が姉妹同士
になっています。

 ところで『日本書紀』の方を見てみますと、妙なことに気づかされるのです。


・・・つづく