小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

637 蘇我氏の登場 その3

2018年11月09日 02時50分26秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生637 -蘇我氏の登場 その3-


 それはつまり、『日本書紀』の編纂スタッフは、欽明天皇こそ正当な皇統であり、継体・安閑・宣化
天皇を「仮の天皇」と見ていたのかもしれない、ということです。
 たしかに、『日本書紀』の表現は継体天皇を大王としてふさわしい人物として描いています。しかし、
『古事記』はオヲド王を手白髪命の夫にして皇位に就けた、と上から目線で記しているのです。
 次に継体天皇の3人の御子、安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇ですが、生母に違いがあるのです。
 安閑・宣化の両天皇の生母は尾張連草香の娘、目子媛(メノコヒメ)、対して欽明天皇の生母は手白髪命、
すなわち仁賢天皇の皇女なのです。
 この手白髪命が産んだ欽明天皇こそが「正当な大王」である、というわけです。 

 そこで、この時代の各天皇の皇后を見てみることにします。
 19代允恭天皇の後は、御子の安康・雄略天皇、雄略天皇の御子である清寧天皇と続きますが、清寧
天皇には子がいなかったので、その次には17代履中天皇の孫である顕宗・仁賢天皇が天皇の位に就く
ことになります。この顕宗天皇から。

顕宗天皇 難波小野王(雄略天皇の孫か?)
仁賢天皇 春日大郎女(雄略天皇の皇女)
武烈天皇 皇后不在
継体天皇 手白髪皇女(仁賢天皇の皇女)
安閑天皇 春日山田命(仁賢天皇の皇女)
宣化天皇 橘仲皇女(仁賢天皇の皇女)

 顕宗・仁賢天皇はたしかに履中天皇の孫で、そこだけを見たならば皇位継承は問題ないように思えます。
ですが、允恭系の清寧天皇とはハトコの関係になり血縁上の繋がりが遠いことも否めないわけです。その
ために允恭系の皇女を皇后に迎えることで前王朝の直系となり得たわけなのですが、実際には皇子の方が
「婿入り」したのだ、とする見解もあります。これは当時が女系であったから、とする考えから来るもの
です。

 時代を遡れば、神武天皇も九州にいた時に阿比良比売(アヒラヒメ)という女性を妻にして多芸志美美命
(タギシミミノミコト)をもうけていますが、大和を平定した後に大物主神の娘である伊須気余理比売
(イスケヨリヒメ)を皇后に迎えています。
 大和の支配者となるには地主神の娘を皇后にする必要があったためでしょう。これも一種の「入り婿」の
形と言えます。
 だから、長兄のタギシミミも神武天皇が崩御すると、後継者となるために義母であるイスケヨリヒメを
妻にしているのです。
 しかし、タギシミミは弟である、イスケヨリヒメの生んだ神沼河耳命(カミヌナカワミミノミコト)の
殺害されてしまったからです。
 記紀はこの事件を、タギシミミがカミヌナカワミミを殺害しようとしたのでカミヌナカワミミの方から
先に仕掛けたものだと記しており、かつタギシミミが第2代天皇に就いたとは記していません。真相は
どうであれ兄殺しのカミヌナカワミミが綏靖天皇として即位し、かつ何事も起きなかったのは、地主神も
カミヌナカワミミが大王となることを望んだから、と解釈されるのです。
 もしかすると『日本書紀』の編纂者たちも神武天皇から綏靖天皇へと継がれていったことが頭にあったのか
もしれません。ただ、継体天皇から欽明天皇へと継がれていったことにしたくとも、その間に安閑・宣化の
ふたりの天皇がいたとする記録が存在していたためにその存在を否定することができなかった、と推測する
こともできるかと思います。

 先にお話ししたように、欽明天皇即位の年を巡る謎を解くためのひとつの説として、安閑・宣化天皇の
朝廷と欽明天皇の朝廷が並立していた、とする二王朝論を説く研究者もいますが、事実はいまだ霧の中と
言えるでしょう。
 ですが、宣化朝と欽明朝と結ぶ人物がいます。
 蘇我稲目です。

 『日本書紀』の「宣化紀」元年の記事として、

 「大伴金村大連を大連とし、物部麁鹿火大連を大連とした。この両名はこれまでどおり。また、蘇我稲目
宿禰を大臣とする。阿倍大麻呂臣を大夫とする」

とあります。蘇我氏が歴史の舞台に躍り出た瞬間と言えるでしょう。
 欽明朝においても蘇我稲目は引き続き大臣の地位におり、なおかつ娘の堅塩媛(きたひひめ)と小姉君
(おあねのきみ)のふたりを欽明天皇の妃にしているのです。

 もっとも蘇我稲目については、歴史上実在した人物だと言われていますが、伝承的な部分も多分にあり、
したがって宣化天皇の時に大臣になったとする記事も伝承のものであるという可能性も否定できないのですが、
ともかくこの記事を読むかぎり宣化朝で大臣となった蘇我稲目が欽明朝においても娘を天皇の妃にする力を
有していたことになり、宣化天皇から欽明天皇へは自然な流れで続いていたことになります。

 ただ、蘇我氏の台頭はやがて物部氏との対立を招くこととなるのです。
 歴史が好きな方は、後に蘇我氏と物部氏が軍事で戦うことになることをご存知でしょうが、一般にこれは
仏教の伝来に伴う崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の宗教対立によるもの、と解釈されてきたきらいがあります。
 ところが、両氏の対立は仏教を信仰するかしないか、といった話ではなかったのです。

 この章では、蘇我氏と物部氏の対立を軸に、大国主命という神が誕生することになったその下地とも言える
時代背景を考察していきたいと思います。

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