小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

351 難波のアメノワカヒコ伝承

2015年01月15日 01時34分28秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生351 ―難波のアメノワカヒコ伝承―


 しかし、比売許曽神社の祭神がアカルヒメから下照比売(シタテルヒメ)に替わった
理由は何なのでしょうか。

 シタテルヒメは、『古事記』も『日本書紀』もともに大国主の御子神としています。
 『古事記』は、

 高比売命、またの名を下照比売命

と記し、『日本書紀』は、

 下照姫、またの名は高姫、またの名は稚国玉(ワカクニタマ)

と記します。
 そして、『古事記』も『日本書紀』もともに一致して記しているのが、アヂシキタカ
ヒコネの妹であり、アメノワカヒコの夫である、ということです。
 また、高照光姫(タカテルヒメ)という神がいますが、この神もシタテルヒメのことだ
ともいわれています。
 たしかに、『古事記』も『日本書紀』もシタテルヒメの別名をタカヒメだと記しては
いますが。
 この高照光姫のことはまた後で述べるとします。

 さて、シタテルヒメの兄とされるアジシキタカヒコネは葛城の高鴨神社の祭神として
有名ですが、実は難波でも祀られています。
 それが大阪市鶴見区の阿遅速雄神社(あちはやお神社)で、この地は旧の東成郡にあたり
ます。

 そして、シタテルヒメの夫アメノワカヒコもまた難波に関係することが、『続歌林良材集』
の中に、『摂津国風土記』のものとして記されているのです。それは以下のものです。

 「津国風土記にいわく、難波の高津(註:現在の大阪市中央区高津。生国魂神社の近く)は、
天稚彦が天降りし時に、天稚彦と、従って降れる神、天探女(アメノサグメ)が磐船に乗って
この地に至った。天磐船の泊まったことが高津の地名の由来という」

 この説話を載せる『続歌林良材集』は江戸時代のものであるため、本当に『摂津国風土記』
に載せられていたものなのかどうか、と疑問視する研究者も少なくはないようですが、ただ、
この伝承は『古事記』や『日本書紀』が伝えるアメノワカヒコの伝承とは異なる内容です。
 『古事記』が伝える伝承は次のようなものです。

 天照大御神たち天つ神たちが、ホノニニギを降臨させる前に、国譲りのため天菩比神(アメノ
ホヒ神)を使者として大国主のいる葦原中国に遣わしますが、アメノホヒは逆にオオクニヌシに
媚び従い、3年たっても帰って来ませんでした。
 そこで今度はアメノワカヒコを遣わすことに決め、天之朝迦古弓(あめのまかこゆみ)と天之
波波矢(あめのははや)を授けて葦原中国に遣わしましたが、アメノワカヒコもまた、大国主の
娘シタテルヒメを妻にし、また葦原中国を自分が得ようと考え、8年たっても復奏しませんでした。
 ここに天つ神たちはまた集まって、
 「なぜアメノワカヒコは戻って来ないのか?またいずれかの神を遣わしてその理由を問おう」
と、話し合い、鳴女(ナキメ)という名の雉を遣わすことにしました。
 この雉の鳴女がアメノワカヒコの家の木にとまり、天つ神の言葉を言っていますと、天佐具女
(アメノサグメ)がこの鳥の声を聞き、アメノワカヒコに、
 「あの鳥の鳴く声は大変不吉なものでございます。どうか射殺してくださいませ」
と、言ったので、アメノワカヒコは、天つ神より授かった弓矢で鳴女を射殺してしまいました。
この時に射た矢が雉の胸を貫通し、そのまま天の安川の河原にいたアマテラスと高木の神の足元に
届きました。
 高木の神はこの矢を拾うと、
 「これはアメノワカヒコに授けたものだ」
と、言い、そして、
 「もしこの矢が悪い神を討つために射た矢なであればアメノワカヒコには当たるな。もしこの矢が
邪心をもって射たものであればアメノワカヒコに当たれ」
と、言って矢を落としますと、アメノワカヒコの胸に刺さり死んでしまいました。
 それで、アメノワカヒコの父天津国玉神とその妻子が降ってきて、喪屋を作り、八日八晩葬儀を
行いました。
 この時、アヂシキタカヒコネが弔問にやって来ましたが、その容姿があまりにアメノワカヒコに
似ていたために、天津国玉神は、
 「わが子は死なずにいた!」
と、言い、シタテルヒメも、
 「わが君は死なずにいた!」
と、言ってアヂアシキタカヒコネの手足にすがりついて泣いたので、
 「吾は友なればこそ弔いにやって来たのに汚らわしい死人と間違えるとは!」
と、大いに怒り、剣を抜くと喪屋を斬り伏せ飛び出してしまいました。
 この時、シタテルヒメはアヂシキタカヒコネが自分の兄であることに気づき、そしてその名をあら
わし知らせようと思い、

 天なるや 弟棚機(おとたなばた)の うながせる 玉の御統(みすまる) 御統に 
 穴玉はや み谷 二渡らす 阿治志貴高日子根の神ぞ

と、歌いました。

 これが『古事記』の伝えるもので、『日本書紀』も同じ伝承を載せています。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿