小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

大国主と垂仁天皇 その14

2017年03月10日 00時11分15秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生277 ―大国主と垂仁天皇 その14―


 三重県三重郡の鎌ヶ岳には良質の水銀が採れるところがあるといい、事実、
昔は採掘場があったそうです。

 水銀のことを古くは「丹(に)」と言い、水銀の採れるところを丹生と呼び
ますが、曙立王を祀る佐那神社の鎮座する三重県多気郡多気町には丹生という
地名が存在し、ここには丹生鉱山があって、1973年(昭和48年)まで
採掘がおこなわれていました。
 先に指摘したように、佐那神社の鎮座するのは多気町仁田ですが、『出雲国
風土記』がアジスキタカヒコの神話を伝えるのも仁多郡です。
 仁田も仁多も、「丹田」を意味しているとも考えられなくもありません。
 水銀の採掘される地では鉄などの鉱物も採取される、と先にお話しましたが、
佐那神社が鎮座する多気町仁田のあたりの古い地名は佐奈で、現在もJR佐奈駅や
佐奈小学校など、佐奈の名が残されています。
 おそらく佐奈とは、「鐸(さなき)」から来ているものと考えられます。古代の
製鉄などに関わっている地には「さなき」につながる地名が残されていることが
少なくないからです。
 また、『出雲国風土記』の仁多郡の条には、

 「以上の諸郷より出る鉄は堅くして、もっとも雑具(くさぐさのもの)を造るに
堪ふ」

と、あり、この地から良質の鉄が採れたことを伝えています。
 やはり製鉄に関係しているようなのです。

 これらのことは、三重村伝承に言えることで、『播磨国風土記』の賀毛郡の条
には、品遅部村や三重村の伝承とともに雲潤の里(うるみの里)の伝承も載せて
います。
 そこには雲潤の里の丹津日子神(ニツヒコの神)いう神が登場しますが、
「津(つ)」は「~の」という上代の言葉だと解釈すれば、この神の名は
「丹の神」という意味になります。

 さて、この『播磨国風土記』ですが、実に興味深い伝承が記されているのです。
 ここまで、垂仁天皇とその御子ホムチワケと製鉄の関わり、大国主の御子神
アジスキタカヒコと製鉄の関わりを考察してきたわけですが、それでは大国主と
製鉄の関わりは存在するのか、という問題が残されています。
 実は『播磨国風土記』には、その問題を解くための伝承が記されているのです。

 それは、大国主の別名であるアシハラシコオや、大国主と同神とされる伊和
大神と、製鉄集団を率いてきたといわれるアメノヒボコとの紛争です。
 まずはその伝承を採り上げてみます。

揖保郡
 粒丘。粒丘の由来は、天日槍命(アメノヒボコノミコト)が韓国からやって来て
宇頭の川尻(揖保川の河口)にて、アシハラシコオに、
 「汝は国の主ときく。この国に吾の住む土地を分け与えてはもらえないか」
と、頼んだ。
 これに対しアシハラシコオは、海中ならばよい、と答えた。
 客神は、剣で海をかき混ぜ、海水を飛ばして土地を作り出した。
 その威に驚き畏れたアシハラシコオは、先に国占め(くにしめ)を行おうと、
粒丘に登って食事をした。この時口から飯粒がこぼれ落ちた。ゆえに粒丘という。
 その丘の小石は米粒に似ている。
 また、杖を土に刺したところ、そこから清水が湧き出して川となり、途中で南と
北に分岐した。北に流れる水は冷たく南に流れる水は温かい。

宍禾郡
奪谷。アシハラシコオとアメノヒボコの2柱の神が、この谷を奪い合った。ゆえに
奪谷という。お互いに奪い合いをしたために、形が葛のように曲がっている。

 伊奈加川。アシハラシコとアメノヒボコが国占めをした時に、この川にいななく
馬があった。それでこの川を伊奈加(いなか)川という。

波加の村。アメノヒボコと伊和の大神がそれぞれに国占めをした時、まず先に
アメノヒボコがこの地にやって来た。
 伊和大神は後からやって来て、
 「はからずとも先を越されてしまった」
と、言ったので波加の村という。
 この地では手足を洗うと必ず雨が降る。

御方の里。御形の名の由来は、アシハラシコオとアメノヒボコが黒土の志爾嵩に
来た時、それぞれ黒葛(つづら)を3条持って、足に着けて投げた。その時
アシハラシコオの黒葛は、1条は但馬の気多郡に落ち、1条は夜夫郡(やぶ郡)に
落ち、1条はこの地に落ちた。それで三条(みかた)という。
 アメノヒボコが投げた黒葛はすべて但馬に落ちたので、但馬の出石の地を占有
して坐す。
 ある言い伝えによれば、伊和の大神が、自分の土地である証として御杖を
この地に突き立てたので御形という名になったという。

神前郡

粳岡(ぬかおか)。伊和の大神とアメノヒボコの2柱の神がそれぞれ軍勢を
率いて戦った時に、大神の兵士たちが稲をついた。その糠を集めると丘になった。
この岡を墓(つか)といい、または城牟礼山(きむれ山)という。

八千草。八千草の名の由来は、アメノヒボコの軍勢が八千人いたことから八千草野と
呼ばれるようになった。

 以上の伝承のうち、宍粟郡には最多となる4つの伝承が残されていることは
興味深いところです。なぜなら、『日本書紀』によれば、アメノヒボコが最初に
やって来た地が宍粟郡だからです。



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