小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

424 阿智王の来朝

2015年09月02日 01時51分52秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生424 ―阿智王の来朝―
 
 
 未斯欣の新羅への帰還が脱出という形をとっているのに対して、百済の王子で日本に
人質に出されていた直支(腆支)の百済帰還が『日本書紀』では厚遇になっているという、
対照的なものであることは先にお話ししたところです。
 『日本書紀』では、直支の帰国は応神天皇十六年のこととなっていますが、その同じ年に
百済から王仁(わに)が日本に来ています。
 
 この辺りのできごとは『日本書紀』を読むかぎり非常に興味深い情勢です。
 簡潔にまとめるとつぎのようになります。
 
〇応神十四年。
弓月君(ゆづきのきみ)が百済から来朝して天皇に、
 「私は母国の120の郡の民をつれて帰化したいと願っております。が新羅が妨害をする
ので、みな加羅国に留まっております」
と訴えたので、弓月の民を救出するために葛城襲津彦を加羅に遣わしたが、襲津彦は3年
たっても帰国しなかった。
 
〇応神十五年。
 百済王は阿直伎(あちき)を遣わしてきた。阿直伎は学問に非常に優れた人物であった
ので、天皇は皇太子菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の師とした。
 天皇が阿直伎に、
 「汝よりも優れた博士は百済にいるのか?」
と、尋ねると、
 「王仁という優れた者がおります」
と、答えたので、上毛野君の祖、荒田別(あらたわけ)と巫別(かんなぎわけ)を百済に遣わ
して王仁を招いた。
 
〇応神十六年
 二月。王仁が来朝した。
 この年、百済の阿花王が薨去したので直支王を百済に帰らせた。
 八月。天皇は、
 「襲津彦が帰ってこないのは新羅に妨害されているからであろう。汝らすみやかに加羅に
向かって新羅を討て」
と、平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)と的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)のふたりに
命じられた。
 このふたりが率いる軍勢が進軍すると新羅王は降伏し、襲津彦は弓月の民をつれて日本に
帰国した。
 
 
 このように、弓月の民の救出をめぐって葛城襲津彦が加羅に渡って新羅と緊張関係に
あった時期に、日本と百済は友好的な関係を保っていたのです。
 もちろん、『日本書紀』の記述がそのまま史実であるかどうかは疑問なのですが、新羅、
百済との関係をよく表していると言えるでしょう。
 
 この弓月君と同じように、多くの人々をつれて帰化した人物のひとりに阿知使主(あちの
おみ)がいます。
 『日本書紀』の応神天皇二十年の記事に、
 
 「倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖、阿知使主とその子、都加使主(つかのおみ)が、
十七縣を率いて来朝した」
 
と、あります。
 この阿知使主は『続日本紀』には、阿智王と記され、漢の霊帝の曾孫とあるので、中国系の
渡来人ということになります。
 ただし、渡来人の系譜にはどこまで信用してよいかは難しく、阿智王の出自についても
皇帝の一族でありながら中国側の資料にはその名が登場しません。
 また、弓月君の子孫である秦氏もその名が示すように中国の秦王朝の出自であると称して
いたようですが、これも朝鮮半島東部の辰(しん)の出自で新羅による朝鮮東部の統一の際に
亡命したのではないかともいわれています。

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