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小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

135 阿部氏と出雲③

2013年05月13日 01時32分18秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生135 ―阿部氏と出雲③―


 そもそもオオビコは、ニギハヤヒを祖とする穂積氏の女性ウツシ
シコメを母に持つので、同じくニギハヤヒを祖とする物部氏とは同
族と言っていい氏族なのです。

 その阿部氏の本拠ですが、実のところこれははっきりとせず、た
だ、それでも大和の十市郡阿倍(現奈良県桜井市)が有力視されて
います。
 もし、十市郡の阿倍が本拠地であったなら、三輪山や笠縫、多坐
弥志理都比古神社と近い位置にいたこととなります。

 その他の候補では、駿河の安倍郡、伊賀の阿拝郡などがあります。
 伊賀の阿拝郡は「あはい郡」といいますが、その昔は「あへ郡」
といったそうです。今も敢国神社(あえくに神社)が伊賀市にあり、
この神社はオオビコを祭神としています。

 また、『日本書紀』の、宣化天皇の元年の記事に、阿部臣が伊賀臣
を遣わして伊賀国の屯倉の殻を筑紫国の那津の宮家に運ばせた、
とありますから、本拠地かどうかは別にしても、阿部氏が伊賀に関係
していたことは間違いないと見てよいでしょう。

 伊賀といえば、『日本書紀』の伊勢の朝日郎(アサケノイラツコ)
が思い起こされます。
 アサケノイラツコとイセツヒコの伝承はこれまでに何度か取り上げ
たことがありますが、大和政権による伊勢進出を語る伝承として、
「伊勢国風土記逸文」には、アメノヒワケのイセツヒコ討伐の物語が
見え、『日本書紀』には、物部目連(もののべのめのむらじ)のアサ
ケノイラツコ討伐の物語が見えます。
 すなわち、


雄略十八年に、物部莵代宿禰と物部目連を派遣して伊勢の朝日郎を討た
せた。
 朝日郎は、伊賀の青墓まで来て官軍を待ち受けた。朝日郎の放つ矢は
二重の鎧も貫くほどの威力だったので、官軍は攻めることができず、2
日間対峙したままだった。  
 そこで、物部目連が太刀を手に、筑紫の聞物部大斧手(きくのものの
べのおおおのて)が楯を手にして、ふたりで攻めこんだ。
 これを見た朝日郎は矢を放ったが、その矢は大斧手の楯を貫き、さら
に大斧手の二重の冑も貫いて一寸ほど肉に刺さったが、大斧手は目連を
守り通したので、目連は朝日郎を捕らえて、斬った。


 この時戦場となったのは伊賀の青墓という地であったことが述べられ
ていますが、残念ながら青墓が現在のどこに当たるのは不明で、岩波古
典文学大系『日本書紀』上巻の頭注では、
 「地名辞書に『佐那具の古墳蓋是なり』とあり、三重県上野市佐那具
の御墓山古墳に擬するが未詳」
と、しています。


 もっとも、このアサケノイラツコ討伐の伝承に阿部氏は登場しません。
 ただ、この伝承が、「伊勢国風土記逸文」では、討伐される側の名が
伊勢津彦(イセツヒコ)となっており、イセツヒコは、

 「出雲の神の子、出雲建子命(イズモタケコノミコト)、またの名を
伊勢津彦命(イセツヒコノミコト)、またの名を櫛玉命(クシタマノミ
コト)」

と、あるのです。
 出雲建子命に似た名前として、物部氏、丸邇氏が関係する石上神社内の
出雲建雄神社が思い起こされますが、伝承によれば出雲建雄はヤマタノオ
ロチの尾から取り出された草薙の剣の荒魂であるとされていますし、出雲
建子も出雲の神の子とありますから、どちらも出雲に関係しているとされ
ているわけです。

 物部、吉備の両氏族は出雲に関係する伝承を持ちますが、阿部氏も出雲
フルネ討伐に登場するなど出雲と関係を持っています。
 その阿部氏が、物部氏の活躍する伝承に間接的な形で関係していること
になります。

さて、先ほどお話ししたように、アサケノイラツコ討伐には阿倍氏は登場
しないのですが、先のタケハニヤスの王の反乱鎮定の時も、オオビコが将軍
になっていながら『古事記』の中で実際に戦いタケハニヤスの王を討つのは
副将のヒコクニブクで、丸邇氏の始祖の活躍談になっているのです。

 つまり、どちらの場合も阿部氏は直接戦闘に加わっていないわけで、そも
そもこのふたつの伝承には阿部氏は無関係だった可能性が高いのですが、そ
れでは、なぜ阿部氏の関係が含まれるようになったのかと言えば、阿部氏が
6世紀以降に登場してきた新興の氏族であったと考えられ、かつ天皇の親衛
隊とも言うべき地位に就いたこと、そして服属儀礼を司っていた氏族だった
と考えられること、といった理由になると思います。
 タケハニヤスの王の反乱鎮定も、アサケノイラツコ討伐も、どちらも大和
政権による服属の説話です。
 それでも、結局のところ、これらの服属が阿部氏の武功によるものとして
伝えられることがなかったのは、おそらくは、阿部氏が乙巳の変における蘇
我氏本宗の滅亡に合わせて中央での勢力を失ってしまったことが原因だった
のでしょう。


 もうひとつ、アサケノイラツコ討伐で注目したいのは、この伝承に筑紫の
聞物部大斧手なる人物が登場していることで、阿部氏と筑紫の関係を考えた
時に、筑紫の人がこの戦いに参加して活躍していることは興味深いものがあ
ります。
阿部氏と筑紫の関係とは、具体的に言うと対馬の阿麻弖留神社のことです。


・・・つづく

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