小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

484 難波と大和と神婚譚⑬

2016年03月06日 23時56分09秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生484 ―難波と大和と神婚譚⑬―
 
 
 しかし、仮に木島坐天照御魂神社の本来の祭神を天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊
(アマテルクニテルヒコアマノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)だったと考えるにしても、
木島坐天照御魂神社が比叡山と松尾山を結ぶ延長上にあるということに注意が必要です。
 
 比叡山延暦寺の古記録『山家要略記』に、
 
 「欽明天皇元年に大和大三輪の神が天降り、天智天皇元年に大比叡山に顕れた。これは、
此の国の地主なり。この神は天照大神の分身、またの名を日の神」
 
と、あり、比叡山に降臨したのは三輪山の神、つまりは大物主ということになるのですが、
問題は三輪山の神は天照大御神の分身であり太陽神である、と記しているのです。
 
 大和岩雄(『神社と古代王権祭祀』)は、この日神を「此国ノ地主也」と書くのは『大神分身
類社鈔』が「三輪上神社」(日向神社)の祭神を「日本大国主命」と書くことによるのであろう、
と指摘しています。
 
 そして、『三輪大明神縁起』も、
 
 「天上での御名は天照なり。ご降臨の後、二か所に鎮座された。大和国三輪山の大神大
明神(オオミワ大明神)と伊勢国神道山の皇太神である」
 
と、記し、やはり三輪山の神を天照大御神と同一神とするのです。
 現存する『三輪明神縁起』は、伊勢神宮の大神宮寺である弘正寺の関係者によって書き
写され伝わったものです。
 つまり、伊勢神宮の側も、三輪山の神と天照大御神の同一説を受け入れていることになる
わけです。
 
 『日本書紀』の「崇神紀」には、宮中で祀られていた天照大神を大和国笠縫邑に遷した、と
あります。さらに「垂仁紀」には、垂仁天皇二十三年に倭姫命(ヤマトヒメノミコト)によって、
菟田の篠幡、近江、東美濃を経て伊勢に遷座した、と記されています。
 
 このように、『日本書紀』は大和の笠縫邑から各地を巡って伊勢に遷座した、と伝えている
わけですが、これとは別に、伊勢神宮の宮司大中臣真継による『皇太神宮儀式帳』には、
垂仁天皇の時に、天照大御神が「美和(三輪)の御諸宮」で奉斎され、そこから各地を巡って
伊勢に鎮座した、とあります。
 また、『倭姫命世記』は、「倭弥和(三輪)の御室嶺上宮」で天照大神を二年奉斎し、ここから
各地を巡って伊勢に遷座した、と記します。
 
 『山家要略記』、『三輪大明神縁起』、『三輪明神縁起』、『皇太神宮儀式帳』、『倭姫命世記』は、
いずれもこの時代よりもずっと後世に記されたもので、当然ながらその信仰も後世のものです。
 ただ、三輪山の神(大物主)が伊勢神宮の天照大御神と同一視され、かつ比叡山に鎮座する
神であったとする信仰がたしかに存在したのです。
 
 ところが、『古事記』によれば、比叡山に鎮座する神は、スサノオの御子神の大年神と天知迦
流美豆比売(アメチカルミヅヒメ)との間に生まれた大山咋神(オオヤマクイ神)と記しているの
です。
 
 「大山咋神またの名は山末之大主神(ヤマスエノオオオヌシ神)。この神は近淡海国(近江国)の
日枝山(比叡山)に坐し、また葛野の松尾に坐して鳴鏑(なりかぶら)を持つ神なり」
 
と、あるのがそれです。

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