小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

94 竹野姫の伝承

2013年02月04日 00時06分01秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生94 ―竹野姫の伝承―


 ところで、このヒバスヒメ姉妹たちのエピソードですが、ちぐはぐな
部分が見られます。

 サホビメが推薦したのは、エヒメ、オトヒメの姉妹。
しかし、垂仁天皇が召したのは、ヒバスヒメノミコト、オトヒメノミコ
ト、ウタゴリヒメノミコト、マトノヒメノミコトの4姉妹。
もっとも、エヒメは兄姫、オトヒメは弟姫、この時代は姉妹でも「兄弟」
と言いましたから、単に姉の姫と妹の姫、という意味の言葉なのかもし
れません。

 ただし、同じ『古事記』が、「開化記」の中では、

 ミチノウシ王は、丹波の河上のマスノイラツメ(摩須郎女)を娶られて
お生まれになったのが、
ヒバスヒメノミコト(比婆須比売命)、
次にマトノヒメノミコト(真砥野比売命)、
次にオトヒメノミコト(弟比売命)、
次にミカドワケノミコ(朝廷別王)の4名。

と、記し、ミチノウシ王の王女は3人となっているのです。

 『日本書紀』では次のようになります。

 丹波の5人の姫を召された。
 長女をヒバスヒメ、次女をヌハタノイリビメ、三女をマトノヒメ(真砥
野媛)、四女をアザミニイリビメ、五女をタカノヒメ(竹野媛)という。
 ヒバスヒメを皇后に、妹の3人を妃とした。ただし、竹野媛のみは、容
姿が良くなかったので帰してしまった。

 『日本書紀』だと姫の数は5人になっていて、古事記では帰されたこと
になっているマトノヒメは妃に選ばれ、その代わりにタカノヒメという姫
が帰されたことになっています。

 しかし、この竹野媛は『古事記』では、「開化記」に、

 この天皇、旦波(丹波)の大縣主、名はユゴリ(由碁理)の娘タカノヒ
メ(竹野比売)を娶られてお生まれになられたのがヒコユムスミノミコト
(比古由牟須美命)。

と、あります。このことは、『日本書紀』でも同じことが書かれているの
で、『日本書紀』には2人の竹野媛が登場することになります。

 ところで、『日本書紀』では、別の一伝も書かれていて、その異伝によ
ると、ミチノウシ王はヒコイマス王の子ではなく、
 「一書にいわく、ヒコユムスミ王の子なりという」
と、なっています。
 
 ヒコユムミ命はミチノウシ王の伯父にあたる人物ですから、世代的には
親子であってもおかしくはないのですが、『日本書紀』の異伝だと、ヒバス
ヒメ姉妹はヒコイマス王の孫ではなくヒコユムスミ命の孫ということになり
ます。
 そう言えば『古事記』には、

 長男のヒコユムスミノミコの子は、オオツツキタリネノミコ(大筒木垂根
王)、次にサヌキタリネノミコ(讃岐垂根王)の2名。このおふたりには合
わせて5名の姫がおられました。

と、あります。この記述は『日本書紀』で姫が5人になっているのと一致し
ます。『古事記』がわざわざ「このおふたりには合わせて5名の姫がおられ
ました」と記しているのは、『古事記』の編纂者もヒバスヒメ姉妹がヒコユ
ムスミ系だとする伝承があることを知っていたのでしょう。


・・・つづく

最新の画像もっと見る

コメントを投稿