小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

⑭ニギハヤヒという神

2012年10月03日 23時53分12秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生⑭ ―ニギハヤヒという神―


 物部氏と婇氏がともにニギハヤヒの子孫だということは何度かふれました。

 前にお話ししましたように、九州の日向から大和にやってきたイワレヒコ(後の
神武天皇)でしたが、トミノナガスネヒコ、通称トミビコに敗れてしまいます。
 一度紀州に退き、吉野から再び大和を目指します。そして、トミビコとの再戦と
なるのですが・・・

 『古事記』にはこうあります。

 さて、ここにニギハヤヒノミコト(迩芸速日命)が参られて、天つ神の御子におっ
しゃるには、
 「天つ神の御子が天下られたと聞きましたので追って天下って参りました」
 そうして、天津瑞(あまつしるし=天つ神である証拠)を献上し、お仕えになら
れました。
 このニギハヤヒの命が、トミビコの妹トミヤビメ(登美夜毘売)を娶って生まれ
たのがウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)です。このウマシマジの命は、物部連、
穂積臣、娞臣の始祖です。
 かくして、荒らぶる神々を言向け(ことむけ)平和し(やわし)、従わぬ者を討
伐され、畝火(うねび)の白檮原(かしはら)の宮に坐しまして天下をお治めにな
れたのです。

 このように、『古事記』では、その宿敵トミビコとの決着がどうなったのか何も
語っていません。
 一方の『日本書紀』にはトミビコとの決戦がイワレヒコの大和平定、すなわち神
武東征のクライマックスになっています。


 ニギハヤヒは、これまた前にお話ししたことですが、『先代旧辞本紀』には、ア
マテルクニテルヒコアマノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト(天照國照彦天火
明櫛玉饒速日尊)と、されており、尾張氏たちが自分たちの始祖とする火明命と合体
した名前なのです。『先代旧辞本紀』は、本来は別々の神であるニギハヤヒとホアカ
リを、何らかの理由で同じ神としてしまったのでしょうか?


 さて、『古事記』の中では、

天つ神の御子におっしゃるには、
 「天つ神の御子が天下られたと聞きましたので追って天下って参りました」

という、ニギハヤヒお言葉があります。
 この文章にある、最初の「天つ神の御子」は神武天皇のことでまず間違いないで
しょう。では、ニギハヤヒのセリフにある「天つ神の御子」とは誰のことを指し
ているのか、です。
 天下って来たのは、神武天皇ではなくてホノニニギ、つまり神武天皇のおじい
さんです。だけどこれがホノニニギのことを指しているとしたなら、これまたず
いぶんと時間が経過しています。なぜホノニニギのもとに行かずに大和にいるの
か?という疑問が生まれます。

 じゃあ、神武天皇のことだとするなら、今度はニギハヤヒのセリフがおかしい。
 もし、これが、
「天つ神の御子が大和に来られたので天下って来た」
というセリフなら納得できるのですけどね。


 ところが、これらの矛盾は、日本書紀ではすっきりしているのです。
 まだ九州にいた頃のイワレヒコのセリフです。

 「東によい土地があるらしい。そこには、天磐船(あまのいわふね)に乗って
降ってきた者がいるという。その地はきっと天下を治めるのにふさわしいところ
だろう。国の中心なのだろう。その降って来た者はニギハヤヒというらしい」

 つまり神武天皇がまだ九州の高千穂にいた時点で、もうすでにニギハヤヒは大
和にいたことになります。
 しかも、『日本書紀』では大和(『日本書紀』ではヤマトのことを「大和」で
はなく「日本」と表記していますが)の命名者はニギハヤヒで、この神が天の磐
船から降り立つ時に、「虚空(そら)見つヤマトの国」と名付けた、と書いてい
るのです。


 さて、トミビコとの再戦の場面。
 『日本書紀』では、この時トミビコはイワレヒコに使者を送って、

 「昔、天の磐船に乗って天より降って来られた神がいる。クシタマニギハヤヒ
ノミコトと申される。この神はわれの妹である三炊屋媛(みかしやひめ。トミビ
メと同一人物)を妻にしてウマシマデノミコトという子もいる。われはニギハヤ
ヒノミコトを主君として仕えている。
 なぜ天つ神の御子がふたりもいるのか。なぜ天つ神の子と名乗る。われが思う
にはお前はニセモノであろう」

と、言ってきました。

 これに対してイワレヒコはこう返します。

 「天つ神の子は他にもおるのだ。お前の主人も天つ神というなら証拠品がある
はずだ。まずそれを見せよ」

 そこで、トミビコとニギハヤヒが天羽羽矢(あまのははや)と歩靫(かちゆき)
を見せると、イワレヒコもまた同じものを見せます。
 これで、トミビコもイワレヒコが天孫であると認めないわけにはいかなくなった
のですが、それでも戦いをやめようとはしなかったので、ニギハヤヒはトミビコを
殺してしまいます。

 古事記では、ニギハヤヒは神武天皇(あるいはホノニニギ?)に仕えるために天
からやって来たことになっていますが、日本書紀だと、元々治めていた大和の地に
神武天皇がやって来たから国を譲った形になっているわけです。


 さて、ニギハヤヒが降り立ったのは哮峯(いかるがたけ)とされていますが、こ
の哮峯がどこなのかは残念ながらよくわかっていません。ただ、多くの研究者が生
駒山である、としています。
 大阪府交野市には、ニギハヤヒの天の磐船を祀る磐船神社がありますが、やはり
生駒山のふもとです。
 東大阪市は生駒山のふもとにある石切剣箭神社(いしきりつるぎや神社)は、ニ
ギハヤヒとその子ウマシマデを祭神としています。
 また、南河内郡河南町平石にも磐船神社があります。こちらもまた巨石がでんと
鎮座しております。
 金剛葛城山系の岩橋山が哮峯になるわけです。
 ただし、河南町平石はかつて石川郡に属しており、この石川がニギハヤヒの子孫
である物部氏を滅ぼした蘇我氏の拠点だったことを考えると、ここがニギハヤヒ降
臨の地とは考えにくいのが弱点になります。


 ずいぶんと物部氏に関係する話に時間をかけてしまいましたが、次は大阪府へと
話は移ります。

・・・つづく
 

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