小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

595 大国主に秘められた製鉄の性格 その16

2017年06月07日 01時53分08秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生595 ―大国主に秘められた製鉄の性格 その16―
 
 
 目原坐高御魂神社は『延喜式』に「目原坐高御魂神社 二座」とある、いわゆる式内社なの
ですが、その所在地は現在では不明になっており、橿原市太田市町の天満神社、橿原市
木原町の耳成山口神社、橿原市山之坊町の山之坊山口神社がこれに比定されています。
 
 『多神宮注進状』に、
 
 「外宮 目原神社 天神高御産巣日尊 皇妃栲幡千々媛命」
 
と、あるから二座の祭神が高皇産霊神(タカミムスヒ神)と栲幡千々媛命(タクハタチヂヒメノ
ミコト)の父娘神であることがわかります。
 栲幡千々媛命が『多神宮注進状』に、「皇妃」とあるのは、この女神が天忍穂耳命の妻と
なり、天火明命と火瓊瓊杵尊を生んだからことによるものです。言うまでもなく火瓊瓊杵尊
(ホノニニギ)は皇室の祖だからです。
 
 大和国十市郡の竹田神社の祭神が、現在は天香山命ですが元はその父神である天火明命
だったといわれ、同じ十市郡に高皇産霊神を祭神とする目原坐高御魂神社が鎮座する。これと
同じ構図が京都府城陽市にも見られるのです。
 
 城陽市では、水度神社(みと神社)で高皇産霊神を祀り、水主神社(みずし神社)で天火明命
や天香語山命を祀っているのです。
 ただし、これには補足が必要で、水度神社の祭神は天照大御神と高御産霊神(タカミムス
ヒ神)、そして少童豊玉姫命(ワダツミトヨタマヒメノミコト)の三神です。
 しかし、奈良時代に作られた『山城国風土記』に記されていたとされる、いわゆる「山城国
風土記逸文」には、
 
 「久世の郡、水渡の社(註:水度神社)、み名は天照高弥牟須比命(アマテラスタカミムスビノ
ミコト)、和多都弥豊玉比売命(ワタツミトヨタマヒメノミコト)なり」
 
と、記されていますので、元々は高皇産霊神と豊玉比売の2神を祀っていたものとが後に天照
大御神も祭神に加えられたようです。
 一方の水主神社では、天火明命と天香語山命の他にも計十柱の神を祀っているのですが、
『延喜式』では、祭神が天照御魂神(アマテルミタマの神)となっています。
 何より、この水度神社と水主神社は互いに独立して鎮座しているのではなく、むしろ関連が
あるようなのです。
 現在の水度神社は鴻巣山(こうのす山)の麓に鎮座していますが、かつては鴻巣山の山頂に
鎮座していたといいます。
 大和岩雄『神社と古代王権祭祀』によると、水主神社と鴻巣山の山頂を結ぶ線上に現在の
水度神社が鎮座しており、夏至の日に水度神社と水主神社からのぞむ朝日は鴻巣山山頂
から昇るのです。
 
 また、水度神社と水主神社の関連は祭祀氏族にも見られます。
 水度神社の祭祀氏族は六人部氏(むとべ氏)で、水主神社の祭祀氏族は水主氏(みぬし氏、
あるいは、もひとり氏とも)なのですが、この両氏は『新撰姓氏録』にはともに天火明命を祖と
する、と記されているのです。
 そして、『先代旧辞本紀』には、天火明命五世孫の妙斗米命(タエトメノミコト)が六人部氏の
祖としているのですが、妙斗米命とは竹田川辺連の祖、建刀米命の弟なのです。
 
 ところで、水度神社の祭神、少童豊玉姫命ですが、豊玉比売はホノニニギの子、火遠理命
(ホヲリノミコト)またの名を天津日高日高穂々手見命(アマツヒコヒコホホデミノミコト)の妻なので、
高皇産霊神の系譜に連なっていると言えるでしょう。
 そして、『延喜式』には阿麻氐留神社と高御魂神社の鎮座する対馬国下県郡に、和多都美
神社の名が記されており、明神大社の位を授けられているのです。
 もっとも、和多都美神社は、厳原八幡宮神社がこれに比定されているものの所在地がわから
なくてなっています。ただ対馬国上県郡にも和多都美神社があり、『延喜式』では上県郡の
和多都美神社も明神大社となっているのが、こちらはヒコホホデミと豊玉比売が祭神なのです。
 
 さて、大事なのは、なぜ高皇産霊神を祀る目原坐高御魂神社が多神社の外宮であり、天火明命
あるいは天香語山命を祀る竹田神社が多神社の若宮なのか、ということです。
 それは多神社が三輪山と結びついているとされるからだと考えられます。
 夏至の日に、多神社からのぞむ朝日は三輪山の山頂から昇るのです。
 三輪山は大物主の坐す山ですが、『日本書紀』の一書には高皇産霊神と大物主の神話を
伝えています。
 それによると、大国主が国譲りを承諾した後も、高天の原に帰順しない神々が多くおり、その
首領が大物主と事代主でした。
 そこで高皇産霊は、大物主に、娘の三穂津姫を大物主の妻にし、
「これからは八百万の神々を率いて恒久に皇孫を護れ」
と、言います。
 さらに、それから紀伊国の忌部氏の祖手置帆負神(タオキホオヒ神)を作笠者(かさぬい)とし、
彦狭知神(ヒコサチ神)を作楯者(たてぬい)とし、天目一箇神(アメノマヒトツ神)を作金者(かな
だくみ)とし、天日鷲神(アマノヒワシ神)を作木綿者(ゆふつくり)とし、櫛明玉神を作玉者(たますり)と
します。
 そして、太玉命(フトタマ神)を御手代(みていしろ=代行者の意)として大国主の祭祀をおこな
わせたのでした。
 この神話は大国主の国譲りの続きとなるものですが、これに彦狭知神と天目一箇神が登場して
いるのです。
 彦狭知神を作楯者(たてぬい)としたとありますが、以前に紹介したように、出雲国には楯縫郡
楯縫郷、能義郡楯縫郷と、楯縫(たてぬい)の地名が存在し、広義で出雲に含まれていたと思わ
れる伯耆国にも久米郡楯縫郷がありました。
 それに、但馬国の式内社に養父市の楯縫神社が豊岡市の楯縫神社があり、丹波国にも丹波市の
楯縫神社、篠山市の川内多多奴比神社(かわちたたぬい神社)があります。天目一箇神といい、
播磨から但馬、丹波にまたがる地域に信仰されている神が登場するのです。

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