小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

480 難波と大和と神婚譚⑨

2016年02月18日 01時58分31秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生480 ―難波と大和と神婚譚⑨―
 
 
 三輪氏、物部氏、中臣氏の結びつきは偶然のものとは思えないところがあります。なぜなら
この三氏は、後世、仏教を認めるか否かで強硬な態度を取った氏族でもあるからです。
 『日本書紀』によれば、欽明天皇の時代に、欽明天皇が仏教の礼拝の可否について群臣に
問うたところ、物部尾輿と中臣鎌子が反対したとあり、敏達天皇の時代には、疫病が流行し、
物部守屋と中臣勝海が、疫病流行は仏教を取り入れたことが原因だとして仏像や寺院を焼いた
とあります。また異伝として、三輪逆と中臣磐余も物部守屋にともに仏教を滅ぼそうと諮ったと
あります。
 さらに用明天皇の時代には、用明天皇みずからが仏教の信者になろうとしたことに、物部
守屋と中臣勝海が反対を唱えた、とあります。
 
 このようにタケミカヅチで結びつく三氏ですが、これに尾張氏を加えることができます。
 そのことを説明するには話を稲穂の話に戻すことが必要となります。
 
 中臣壽詞や『日本書紀』の一書にあるように、天孫降臨に際してホノニニギが斎庭(ゆにわ)の
稲穂を授けられたこと、雷と稲の関係をすでに採り上げましたが、今度は践祚大嘗祭における
稲種公(いねのみのきみ)のことを少し採り上げてみたいと思います。
 
 践祚大嘗祭は新天皇が即位して行われる最初の新嘗祭で、つまりは11月の卯の日に行わ
れるわけですが、践祚大嘗祭における稲実公の役目について、井上辰夫著『古代王権と語部』
から、その箇所を紹介します。
 
八月上旬になると神祇官を命じて、宮主一人、卜部(うらべ)三人を悠紀(ゆき)、主基(すき)
両国に派遣する。それぞれの国には二人ずつの卜部が下向するが、そのうち一人を稲実卜部と
称し、一人を禰宜卜部と呼ぶ。
 造酒児(さかつこ)らとともに稲実公一人が両国からそれぞれ選ばれる。
 収穫が近づくと八神殿とともに「稲実斎屋一宇」と「稲実公一宇。造酒児等屋一宇」などの建物が
造営される。
 
 九月になると吉日を選んで抜穂が行われる。その時卜部が国郡司や雑色人などを率いて田に
臨む。一番最初に抜穂を行うのは造酒児であり、次に稲実公、御酒波の順であり、それが終わって
雑色人、庶民と続く。抜き終わるとその稲穂、つまり撰子稲は斎院(八神殿)に入れて乾かす。
その場合、初めに抜いた四束は供御の御飯にされるので、とくに八神殿の横の高萱御倉(たかか
やのおくら)に収められる。
 
 九月下旬になると、これらを竹籠に入れ、編んだ茅で蓋をし、賢木を挿し、木綿(ゆう)をつけて荷と
する。卜部が国郡司や雑色人を率いて運送するが、その場合も供御の御飯の稲の荷を先頭に置く。
それを必ず稲実公が木綿鬘(ゆうかずら)をつけて先導し、京の斎院の外に設けられた仮屋に収納
する。
 今日の斎院は、悠紀と主基それぞれ両処に設けられるが、斎院は内院、外院の両院とする。その
内院には「八神殿一宇、稲実屋一宇、黒酒、白酒屋各一宇」などが建てられる。そして、御稲を稲実屋
に収めるが、とくに供御の御飯に供する稲は棚を造って別置する。
 
 以上のことが稲実公の職務内容なのですが、これは平安時代の『延喜式』に記されていることです。
 そこで古代における新嘗祭について考察したのが柳田國男の「稲の産屋」(『海上の道』に所収)です。
 
 柳田國男の考察では、新嘗とは「ニヒノアヘ」であるといいます。
 稲村、稲積のことをニホ、ニョウというところから来ている、というのがその考察で、全国には産屋の
ことをニホ、ニフ、ニュウと言う方言が多く見られるそうです。(註:ただし現在ではそれらのほとんどが
姿を消してしまったようです)
 また、アヘは穀物を食することの意味を持つ、としています。
 
 さらに、アジア東南の島々の稲作種族の間に、穀母が穀童を産み、育てていく信仰行事が存在し、
これは穀霊の生誕を意味します。
 
 もっとも、上記のとおり新嘗祭における稲実公の任務にこの信仰を見つけることはできません。
 しかし、柳田國男は、八神殿の外に稲実斎屋を造り、さらには稲実公の屋というものが設けられている
ことから、稲実公には籠りの役があったものと考えています。
 また、聖別された稲穂の中から翌年の種実を拝受して、郷里に還ってくる任務があったのではないか、
とも「稲の産屋」の中で述べています。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿