小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

181 大国主たちの御子神

2013年09月25日 00時50分26秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生181 ―大国主たちの御子神―


 アシハラシコオの名は『播磨国風土記』にも登場します。
 それが、これまでに何度かお話しした揖保郡の粒丘の神話
で、アシハラシコオとアメノヒボコの国占め争いの話です。
 この他にも、『播磨国風土記』はアシハラシコオとアメノ
ヒボコの国占め争いの神話として、宍禾郡の奪谷、伊奈加川、
御方の里の話を載せています。

『播磨国風土記』には、これらの他に伊和大神とアメノヒボ
コの国占め争いの話も2つ載せています。宍禾郡波加(はか)
村の神話と神前郡粳岡の神話です。


 ところで『播磨国風土記』は、この伊和の里の神話として
オオナムチの神話を載せているのですが、ここでは、オオナ
ムチの御子神として火明命(ホアカリノミコト)が登場する
のです。
 これまでに何度も取り上げたとおり、ホアカリは、『古事
記』、『日本書紀』ではアメノオシホミミの御子神とされ、
ホノニニギの兄にあたります。なお、『日本書紀』の異伝に
は、ホアカリはホノニニギと子とする神話が載せられていま
す。どちらにせよアメノオシホミミ系の神として描かれてい
ることになります。
 同時に、ホアカリは尾張氏たちの始祖でもあります。

 実際、この『播磨国風土記』の餝磨郡の条には、尾張氏が
登場するのです。
 
 「伊和の里の船丘の北に馬墓の池あり。昔、雄略天皇の時
代に尾治連(尾張連)らの先祖長日子はよき婢(女性の私有
民)と馬を持っていた。
 長日子は死の床にあって、わが子に自分の埋葬について遺
言した。
 それにより3つの墓を造った。
 1つ目は長日子の墓とし、2つ目は婢の墓、3つ目は馬の
墓である」

と、記されています。

 さて、上記のアメノヒボコとの国占め争いは宍禾郡に集中
している印象を受けますが、宍禾郡(現在の兵庫県宍粟市)
には伊和大神を祀る伊和神社が鎮座します。
ところで、その伊和大神を祭祀する氏族がどうやら餝磨郡
(現在の兵庫県姫路市)にも存在したらしいことが『播磨国
風土記』の餝磨郡の条に記されています。
 それが餝磨郡伊和の里の伝承で、

 「伊和部(いわべ)と名づけるは積嶓(宍禾)の郡の伊和
君らの一族がこの地に来て住み着いたので伊和部になった」

と、あるのです。
 現在、伊和神社では伊和大神と大国主は同神であるとして
います。
 もっとも、これについては、研究者たちの間では別神とす
る考え方が優勢のようなのですが、しかし、オオナムチとホ
アカリの神話がこの伊和の里を舞台にしていることから、伊
和大神とオオナムチの密接なつながりが想像できるというも
のです。

 そして、『出雲国風土記』は、伊和大神の御子神として伊
勢津彦の名を記しています。
 イセツヒコは、「伊勢国風土記逸文」では伊勢に坐す神と
して描かれ、また三重県の足見田神社のかつての祭神であっ
たと伝えられています。

 そうすると、親子関係で見てみると、

 大国主 ― アヂシキタカヒコネ(『古事記』)
 オオナモチ ― アジスキタカヒコ(『出雲国風土記』)
 オオナムチ ― ホアカリ(『播磨国風土記』)
 伊和大神 ― イセツヒコ(『播磨国風土記』)

と、いうことになり、いずれも製鉄に関係すると思われる神々
が、大国主や同神とされる神と親子関係にあるのです。
 これらの神はまた尾張、伊勢につながりを持っています。
 ホアカリは言うまでもなく尾張氏の始祖であり、イセツヒ
コは伊勢に坐す神でした。
 では、大和の鴨に坐す神アヂシキタカヒコネは、と、言い
ますと、その妻であるミカツヒメの神話が「尾張国風土記逸
文」に記されていますし、『古事記』や『日本書紀』に描か
れる喪山は美濃(岐阜県)にある山だとされています。

 喪山の神話とは、大国主の国譲りの際に登場するエピソー
ドで、死んだアメノワカヒコの葬儀に訪れたアヂシキタカヒ
コネが、その容姿があまりにアメノワカヒコに似ていたため
に、ワカヒコの親がわが子と間違えてアヂスキタカヒコネの
手足にすがり、
 「わが子は死んでいなかった」
と、言って泣いたので、アヂスキタカヒコネは、
 「なぜ吾を穢い死人に比べるのか!」
と、大いに怒り、喪屋をメチャクチャにしてしまう、という
ものです。
 『古事記』はこの物語の舞台を、

 「此は美濃国の藍見河の河上の喪山ぞ」

と、記します。

 しかし、この喪山の神話よりも、妻ミカツヒメの神話こそ
注目すべきものなのです。


・・・つづく

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