小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

ツッコミ春奈

2013年09月17日 00時05分41秒 | 日記
2010年11月15日(月)(2歳7か月)


 車の中の荷物を降ろして家の中に
運んでいると、

 「かばん、重たいけど重くない」

と、春奈が僕に言った。何なん?それ。
と、思ったけど、少しして、

 「かばん、重たいけど重くない?」

と、質問しているのだ、と理解した。

 春奈には重い荷物だけどお父さんに
は重くないの?という意味なんだろう、
きっと。

 そう考えてみると、春奈は軽いか重い
かの自分の力を基準にしているのだろう。

 これは大人も少なからず自分を基準に
して軽い重いを判断している部分がある
ように思う。

 幼児にとっては100パーセント自分
が基準なんだろうな。
 

 春奈が絵本を開く。

 いろんな色のTシャツが描かれている
ページを僕に見せて、

 「何色が好き?」

と、訊いてくるから、こちらもまじめに色
を選び、

 「水色と黄色」

と、答えると、

 「どっちやねん」

と、春奈につっこまれてしまった。

 1つにしぼれ、ってか?


 ゆうきがふざけて、みんたのことを、

 「マミー」

と、呼ぶと、春奈が、

 「まみーとちゃう。はるなの母ちゃん」

と、今度はゆうきにツッコミを入れる。

 だけど「母ちゃん」とか言うなよ、2歳の
女の子が。


178 四日市市水沢の伝承

2013年09月17日 00時01分24秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生178 ―四日市市水沢の伝承―


 尾津を経由して三重村にたどり着いた時には、ヤマトタケル
の足は三重に折れ曲がってしまったと『古事記』にはあります。

 三重村が現在のどこに当たるのかについては諸説ありますが、
その比定地のひとつに三重県四日市市水沢町があります。

 水沢町(すいさわ町)に鎮座する足見田神社(あしみだ神社)
は『神名帳考証』には、ヤマトタケルを祭神とする、とありま
すが、現在ここで祀られているのは、志那都比古命(シナツヒ
コノミコト)・志那都比売命(シナツヒメノミコト)・瀬織津
比売命(セオリツヒメノミコト)の3神とその他15神となって
います。

 ただし、谷川健一が宮司から聞いた話として、かつてはシナ
ツヒコ・シナツヒメのかわりに伊勢津彦命(イセツヒコノミコ
ト)が祭神であったと、その著作『青銅の神々の足跡』には記
されています。

 イセツヒコは、かつて伊勢国に鎮座していた神として、「伊
勢国風土記逸文」に登場しますが、『播磨国風土記』では、伊
和大神の御子神とされています。

 古い時代、伊勢国には、葦田郷(あしみた郷)があったので、
それから来た社名であろう、と言われていますが、葦田という
地名から、芦田氏が祭祀氏族だったのではないか、などと考察
されています。
 また、芦田も足見田も「足痛(あしいた)」から来たものと
も言われ、製鉄に従事する人々が踏鞴を踏み続けることで足に
職業病を抱えていたところから来たものではないかとする説も
あります。

 ところで、水沢という地名にも注目したいと思います。
 水沢(すいさわ)は「みさわ」とも読めますが、そこで思い出
されるのが、『出雲国風土記』の仁多郡三澤(みさわ)の記事で
す。

 大神オオナモチノミコト(大穴持命)の御子アジスキタカヒコ
が大人になっても夜昼泣いてばかりで言葉を話すことはなかった
のでオオナモチが、
「御子の泣く理由を教えたまえ」
と、夢占いをしてみたところ、翌朝、アジスキタカヒコが、
 「御津(みつ)」
と、言った、その御津を今は三澤という、という内容です。

 三重県には、もの言わぬ皇子ホムチワケとともに出雲大神の宮
を訪問した曙立王と莵上王のを祀る神社がありますが、ホムチワ
ケは、『古事記』に、

 「八握ひげ胸の先に至るまでま言とわず(言葉を発しなかった)」

と、書かれ、『出雲国風土記』のアジスキタカヒコの神は、

 「御ひげ八握に生えるまで、夜昼泣きまして御言かよわざりき」

と、記されています。
 しかも、『古事記』は、父の垂仁天皇がホムチワケのために、

「尾張の相津に生えていた二俣杉で小舟を作り、それを尾張より
大和まで運んで市師池や軽池に浮かべて遊ばせられた」

と、記し、『出雲国風土記』では、父のオオナムチがアジスキタカ
ヒコのために、

「御子を船に乗せて島々を廻って楽しませた」

と、記しているのも共通しており、2つの伝承が同源のものと推測
されます。

 このように、水沢と三澤の共通点を取り上げてみましたが、さら
に言えば、伊勢の三重村の由来と似た話も『播磨国風土記』に登場
するのです。

 伊勢の三重村の由来が、ヤマトタケルの足がこの地で「三重に折
れ曲がったため」と『古事記』は伝えますが、『播磨国風土記』の
賀毛郡(かも郡)三重の里の条に、次のような伝承が記載されてい
ます。

 「昔、ひとりの女がいた。たけのこを抜き、布に包んで持って帰っ
て食したところ、足が三重に曲がり起き上がることもかなわず。そ
れが三重の名の由来である」

 注意したいのは、この記事が品遅部村(ほむちべ村)の条に並ん
で記されていることです。
 品遅部村の記事は、

 「応神天皇の時代に、品遅部らの遠祖前玉(さきたま)が、この地
を賜ったので品遅部村という」

という、簡素なものですが、『古事記』のホムチワケ伝承では、

 「また、皇子にちなんだ鳥取部、鳥甘部、品遅部、大湯坐、若湯坐
を定められた」

と、記しています。

 これらも同源の伝承と考えられていますが、それでは、どうして
伊勢と、出雲や播磨に同じ伝承が残されたのでしょうか。

 この伝承の発祥は水沢の地理にあるとみられます。



・・・つづく