小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

ハイチュー大好き

2013年09月27日 01時13分53秒 | 日記
2010年11月30日(火)(2歳8か月)


 先日、春奈が、ゆうきやりえのガム
をほしがったので、代わりにハイチュー
を与えた。

 ところが春奈、ハイチューがいたく
気に入ってしまった!

 まあ、そんなわけで・・・

 春奈にハイチューの味を覚えさせてし
まったことで、みんたに散々に叱られた。

 「虫歯になりやすいのに!」と。

 春奈はそんなことどこ吹く風で、今日
も火曜日の北野田ファミリーの時間中に、
僕のところに来て、

 「お父さんのガム(ハイチューのこと)
ちょうだい」

と、言ってくるから、

 「おうち帰ってからな」

と、返すと、

 「早く帰ろ」

と、言い、さらに、みんたのところに行って、
こう言った。

 「ヒッポ終わろ」



 家に帰ると、早速ハイチューをねだる。

 「お母さんに怒られるから、お母さんの
おらん時にな」

と、みんたに聞こえないように小声で言うと
頷いた。

 それから一切ハイチューをねだらない。

 ところが、みんたが風呂に入るなり、僕に
こう言った。

 「お父さん、ガム」

 そんな春奈、今日で生まれて満2歳8か月。

182 尾張のホムチワケ伝承

2013年09月27日 01時09分04秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生182 ―尾張のホムチワケ伝承―

 「尾張国風土記逸文」には、次のような神話があります。

 垂仁天皇の御子ホムツワケ(品津別)は7歳になっても言葉
を話すことはなかった。
 ある時皇后の夢に神が現れ、
 「吾は多具の国の神、名を阿麻乃弥加都比女(アマノミカツ
ヒメ)という。吾を祀れば皇子の口はきけるようになり、長寿
を得るであろう」
と、お告げがあったので、天皇は神を占う者をも求めた。そし
て、日置部の始祖建岡君(たけおかのきみ)が占うことになっ
た。
 建岡君は美濃国の花鹿山に登ると、賢樹(註:榊のことか)
の枝で縵(かずら=髪に冠する髪飾り)を作ると、
 「吾の縵が落ちたところに神あり」
と、言って投げた。そうして、縵の落ちたところに神の社を建
てた。
 それが由来となって縵の里という。今は訛って阿豆良(あづ
ら)という。

 ここにあるアマノミカツヒメのために建てた社というのが、
尾張一宮市にある阿豆良神社(あづらじんじゃ)と伝えられて
います。

 この伝承は、まさしくホムチワケ伝承そのもので、『古事記』
よりもこちらの方がオリジナルである、と考える研究者もいます。
 ただ、どちらが原型であるかは横に置いても、尾張氏たちの本
拠である尾張国にホムチワケ伝承が残されていることは重要です。
 しかも、アマノミカツヒメの夫が、ホムチワケ同様に、口がき
けない神アヂシキタカヒコネである、ということもこれと大いに
関係していると見てよいでしょう。

 ちなみにアマノミカツヒメは、『出雲国風土記』の楯縫郡の条
ではアマノミカジヒメノミコト(天御梶日女命)という名で登場
します。ここには、

 「阿遅須枳高日子命(アヂスキタカヒコノミコト)の后天御梶
日女命、多久の村に来まして多伎都比古命(タギツヒコノミコト)
を産みたまいき」

と、あり、アジスキタカヒコの后だ、と明記されています。
 しかし、一方で、同じ『出雲国風土記』でも秋鹿郡の条では、

 「伊農の郷に坐す赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(アカフス
マイヌオホスミヒコサワケノミコト)の后天ミカ津日女命(アメ
ノミカツヒメ)が国めぐりをされてこの地にやって来られた時、
「伊農の神よ」と、おっしゃられたので伊努の名がついた。神亀
三年、字を伊農と改める」

と、あり、アカフスマイヌオホスミヒコサワケノミコトの后とい
うことになっています。

 建岡君が縵を投げたという花鹿山の麓には、天甕津日女命(ア
メノミカツヒメノミコト)を祀る花長上神社(岐阜県揖斐郡揖斐
川町)が鎮座しますが、これと対になるようにして花長下神社が
存在します。こちらの祭神は赤衾伊農意保須美比古佐和記能命
(アカフスマイヌオホスミヒコサワケノミコト)なのです。

 アカフスマイヌオホスミヒコサワケノミコトは、『出雲国風土
記』の出雲郡伊努郷に、

「国引きましし意美豆努命の御子、赤衾伊努意保須美比古佐倭気
能命の社、すなわち郷の中に坐す。ゆえに伊農という。神亀三年、
字を伊努と改める」

と、記されています。
 国引ましし意美豆努命とは国引き神話として有名な八束水臣津
野命(ヤツカミズオミツノノミコト)のことです。
ミズオミツノノは『古事記』や『日本書紀』には登場しないこと
から、ローカルな地方神と見る向きもありますが一概にそうだと
は言えないでしょう。
ミズオミツノノは、『出雲国風土記』では出雲国を造った神とし
て伝えられています。
にもかかわらず、『出雲国風土記』はオオナモチのことを「天の
下造らしし大神」と呼んでいるのです。
おそらくは、オミツノノのような神々の業績がオオナモチに集約
され、大国主へと姿を変えていったのでしょうが、その過程で、
アメノミカツヒメの夫が大国主の御子神アジスキタカヒコに替え
られたのかもしれません。

 さて、アメノミカツヒメの考察はこれくらいにして、「尾張国
風土記逸文」の伝承に話を戻したいと思います。と言うのも、も
うひとつ、この伝承には注意したい点があるからなのです。

 この伝承では、建岡君が美濃の花鹿山で縵を投げると尾張一宮
市に落ちたとなっています。ずいぶんと遠くまで飛んでいったも
のです。

 しかし、『播磨国風土記』の宍禾郡の条には御形の伝承として
次のような記事を載せています。
 
「御形の名の由来は、アシハラシコオとアメノヒボコが黒土の志
爾嵩に来た時、それぞれ黒葛を3条持って、足に着けて投げた。
その時アシハラシコオの黒葛は、1条は但馬の気多郡に落ち、1条
は夜夫郡(やぶ郡)に落ち、1条はこの地に落ちた。それで三条
(みかた)という。
 アメノヒボコが投げた黒葛はすべて但馬に落ちたので、但馬の
出石の地を占有して坐す。
 ある言い伝えによれば、伊和の大神が、自分の土地である証と
して御杖をこの地に突き立てたので御形という名になったという」

 それから『日本書紀』の神武天皇の条では、

 「高尾張邑に土蜘蛛あり。その人となり背低くして手足長し。
侏儒(ひきひと)に似たり。皇軍、葛で網を作り、それを投げ被
せて殺せり。よってその村をなづけて葛城という」

と、いうエピソードを載せています。
なお、『日本書紀』はこの高尾張邑の土蜘蛛を「赤胴の八十梟帥
(あかがねのやそたける)とも記していますから、銅鐸などの銅
に携わる人々だったとも考えられています。
 しかし、尾張の大和における拠点の高尾張邑を舞台にした伝承
が、アメノミカツヒメのホムチワケ伝承や、アシハラシコオとア
メノヒボコの争いに共通した部分を有していることに興味をひき
ます。


・・・つづく