小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

2歳までの言葉の成長

2013年01月09日 02時08分04秒 | 日記
2010年3月31日(水)(2歳0か月)


 以前に比べて春奈がだいぶ喋るようになった。

 前は何を言っているのかよくわからないことを言っている
ことも多かったけど、近頃は、はっきりとした「言葉」に
なっている。

 切れ込んできたのか?

 それとも春奈の中の言葉が増えたのか、そこら辺はよくわ
からんけど、とにかく喋る喋る。


 やっぱり1歳になって後半の半年の時に、特徴として挙げら
れるのは、この時期に関西弁のらしさが出てきたことかな。

 それに比例して日本語のらしさそのものも増してきたように
思う。

 あ、それに、同じものを2つ以上の言葉で言うようにもなっ
たね。
 
 たとえば、「(みんなに)サヨナラした?」と、話しかけら
れた春奈が、
 「バイバイだよ」
と、答えたことがあって、「さよなら」と「ばいばい」が同じ
だと知っていたわけだし、1歳2か月の頃にはファミリーなど
で「再見」を言うようになっていた。

 また、これまで「ミルク」と言っていたものを「牛乳」とも
言うようになったり。

 「ママ」と言っていたものを「お母さん」とか「みんた」と
言うようになったり。

 同じ物を指す言葉が1つではなく2つ以上あり、春奈はこのう
ちの1つだけに絞ることはしていないのですな。

 言葉が2つあればどちらも使っている。
 
 このことは、人間が2つ以上の言語を使いこなすことができる、
ということを本能の部分で証明しているのではないのかな。

 

83 富木と吉備氏の伝説

2013年01月09日 02時04分49秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生83 ―富木と吉備氏の伝説―


 海人との関わりについてお話しする時に、やっぱりこの伝承は外せない
かと思います。
 『播磨国風土記』の讃容郡の項にある記事です。

 昔、天智天皇の時代に丸部の具(わにべのそなう)という者がいた。こ
の者は仲川の里人である。
 この人は河内の菟寸(とのき)の村人が所有する剣を買い取った。が、
剣を得てから家族すべてが死に絶えてしまった。
 その後、苫編部の犬猪(とまみべのいぬい)が、具の住んでいた跡地に
畑を作ることにしたが、この時に剣を発見した。柄の部分は朽ちてなくなっ
てしまっていたが、覇の部分は錆びずに光っていて、まるで鏡のようだっ
た。
 犬猪は不思議に思い、この剣を家に持って帰ると、鍛冶師を呼んで打ち
直してもらうことにした。すると、その時、剣は伸び縮みしてまるで蛇の
ようであったので、鍛冶師は大変驚き、打ち直すのをやめてしまった。
 犬猪はますます不思議に思い、朝廷に献上することにした。
 後、天武天皇の時代に、曾禰連麿(そねのむらじまろ)を派遣して剣を
元の場所に戻した。

 ここに登場するトノキは現在の大阪府高石市の富木(とのき)のことで
すが、ここから近い場所に、泉大津市曽根町の地名があり、曽根神社があ
ります。祭神はニギハヤヒで、曽根氏は物部氏と同族とされています。

 富木には等乃伎神社(とのき神社)があり、ここには巨大な樹があった、
と『古事記』の「仁徳記」に記されています。

仁徳天皇の時代に、免寸河の西に一つの高樹ありき。その樹の影、朝日に
当たれば、淡路島にのび、タ日に当たれば、高安山を越えた。それで、こ
の樹を切って船を作ってみると、大変な速さで進む船ができた。時にその
船を名付けて枯野という。
この船で朝夕淡路島の寒泉を酌み、大御水を献上した。
やがてこの船が壊れると、塩を焼き、その焼け残った木を取りて琴に作っ
てみると、その音七里に響いた。それで詠まれた歌が、

枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り かき弾くや 由良の門の門中の
海石に 触れ立つ 浸漬(なづ)の木の さやさや

この歌は、志都歌の歌返しなり。

『播磨国風土記』の伝承には、富木や曽根氏が登場しますが、揖保郡狭野
の村の項では 別君(わけのきみ)が登場します。

別君玉手(わけのきみたまて)らが遠祖は、元は川内(河内)の国、泉の
郡にいたが、ここは便宜が良くないと言って、この地に遷ってきて、
 「この野は狭いが住むには良い土地だ」
と、言ったので狭野という。

 別氏は、和気氏とも書きますが、河内の和泉とあるので、和泉市和気町
にいた一族でしょう。
 和泉市和気町も富木から近い距離にあるのですが、等乃伎神社と目と鼻
と言える近距離に、景初三年の銘が入った鏡が出土した和泉黄金山古墳が
あることには注意を払うべきでしょう。

 さて、富木の巨木で作った枯野で淡路島の水を汲みに行き、それを天皇
に献上したとする伝承ですが、思い出されるのが、吉備氏の始祖伝承です。

懿徳天皇の皇子シキツヒコノミコト(師木津日子命)の子ワチツミノミコ
ト(和知都美命)は、淡道(あわじ)の御井宮(みいのみや)に坐し、ふ
たりの姫をもうけます。
姉の方がハエイロネ(蝿伊呂泥)、またの名をオオヤマトクニアレヒメノ
ミコト(意富夜麻登久邇阿礼比売命)で妹の方がハエイロド(蝿伊呂杼)
です。
この姉妹がともに孝霊天皇の后となって、それぞれ大吉備津日子と若建日
子吉備津日子を生みます。

 それから、ふたりの吉備津日子による氷川の呪術といい、吉備氏の始祖
伝承には水が関わっています。


・・・つづく