今日で、震災から14年が経ちました。
私が住んでいる地域は、神戸市内を思えばずっとマシでしたが、それでもそれなりの被害を受け、今でも当時の状況は生々しく思い出します。
我が家は運良く残ったものの、両隣は半壊状態。電気は当日すぐに通りましたが、水とガスが約1ヶ月止まったまま、不便な生活を強いられました。
家は無事でも、中はめちゃめちゃで、食器棚も全滅。棚の上のものはすべて落ちて、床に広がってました。
夜明け前、地鳴りで目が覚め、何事かと思った瞬間に襲ってきた揺れは、忘れられるものではありません。
幸いにも家族にはケガひとつなく、ともかく外に出なければと、私が常に勉強机の上に置いていたラジオ付きウォークマンを手探りで引っつかみ、そこにあった適当な上着をパジャマの上に羽織って、靴が見当たらずスリッパで庭へ。まだ真っ暗だったことを覚えています。
隣の家からも人が出てきて、お互いに声を掛け合いながらまずは夜明けを待ちました。持っていたラジオを付けても、まだその時点では情報もほとんどなく、とにかく地震が起きたということしかわかりません。
やっと明るくなってきて、周りの様子が見えてきた頃、ラジオでもようやく、神戸のほうでものすごい地震があったこと、大変な被害が起き始めてることが、おぼろげながらようやく伝わってきました。
日が昇るのを待って、とりあえず家が無事なのを確認し、中を覗いて呆然。それでも、外よりは中が暖かいので、いつでも飛び出せるよう庭に面した部屋に、着替えやらを探して運んできて、ちょっとずつ動きはじめました。
昼前には電気が戻ったので、テレビを付けてぞっとしました。映っていたのは、燃える神戸の街並みと、止まった電車、倒れた高速道路・・・。
今思えば、すごく怖いことをしたと思いますが、とにかく食べるものがないので、ガス漏れの危険も考えず炊飯器で炊けるだけご飯を炊いて、たくさんのおにぎりを作り、お隣にも配ったりして・・・。よくガス爆発を起こさなかったものです(汗)。そのあとすぐに危険だからとガスを止められ、水も水道管に残ってた分を使い果たすと、それ以降一滴も出なくなり・・・。
当時は携帯電話なんてまだなかった時代ですから、親戚に安否を連絡しようにも、家の電話はつながらず、公衆電話に何時間も並んだりして。
余震もありましたし、1週間ほどは家族みんなで、ひとつの部屋でコタツに雑魚寝。私のアルバイト先のパン屋さんから炊き出しのご飯やパンをもらってきたり、どうにか駆けつけてきてくれた親戚が、食料や携帯コンロを持って来てくれて、それで数日は何とか生活してました。
そのうち、近くの公民館で水とかインスタント食品が配られたり、スーパーにも食料品が届きだしましたし、電車も動き出したので、大学(当時私は学生でした)に行くついでに、買出しをしたり。
お風呂に入りたくて、大阪の銭湯に何日置きかで通ったり。
水道が回復した時、蛇口をひねると当たり前のように出る水が、こんなにありがたいものかと思いましたね・・・。
もっともっと大変な目に遭われた人のことを思えば、我が家の被害なんて微々たるものではありますけど、それでも震災の恐怖というのは、何年経っても覚えていて、簡単に忘れられるものではないですね。
今日は、近所のスーパーでも炊き出しイベントがありましたし、テレビでも震災特集が組まれてたりして、当時のことをじっと考えさせられる一日でもありました。
私が住んでいる地域は、神戸市内を思えばずっとマシでしたが、それでもそれなりの被害を受け、今でも当時の状況は生々しく思い出します。
我が家は運良く残ったものの、両隣は半壊状態。電気は当日すぐに通りましたが、水とガスが約1ヶ月止まったまま、不便な生活を強いられました。
家は無事でも、中はめちゃめちゃで、食器棚も全滅。棚の上のものはすべて落ちて、床に広がってました。
夜明け前、地鳴りで目が覚め、何事かと思った瞬間に襲ってきた揺れは、忘れられるものではありません。
幸いにも家族にはケガひとつなく、ともかく外に出なければと、私が常に勉強机の上に置いていたラジオ付きウォークマンを手探りで引っつかみ、そこにあった適当な上着をパジャマの上に羽織って、靴が見当たらずスリッパで庭へ。まだ真っ暗だったことを覚えています。
隣の家からも人が出てきて、お互いに声を掛け合いながらまずは夜明けを待ちました。持っていたラジオを付けても、まだその時点では情報もほとんどなく、とにかく地震が起きたということしかわかりません。
やっと明るくなってきて、周りの様子が見えてきた頃、ラジオでもようやく、神戸のほうでものすごい地震があったこと、大変な被害が起き始めてることが、おぼろげながらようやく伝わってきました。
日が昇るのを待って、とりあえず家が無事なのを確認し、中を覗いて呆然。それでも、外よりは中が暖かいので、いつでも飛び出せるよう庭に面した部屋に、着替えやらを探して運んできて、ちょっとずつ動きはじめました。
昼前には電気が戻ったので、テレビを付けてぞっとしました。映っていたのは、燃える神戸の街並みと、止まった電車、倒れた高速道路・・・。
今思えば、すごく怖いことをしたと思いますが、とにかく食べるものがないので、ガス漏れの危険も考えず炊飯器で炊けるだけご飯を炊いて、たくさんのおにぎりを作り、お隣にも配ったりして・・・。よくガス爆発を起こさなかったものです(汗)。そのあとすぐに危険だからとガスを止められ、水も水道管に残ってた分を使い果たすと、それ以降一滴も出なくなり・・・。
当時は携帯電話なんてまだなかった時代ですから、親戚に安否を連絡しようにも、家の電話はつながらず、公衆電話に何時間も並んだりして。
余震もありましたし、1週間ほどは家族みんなで、ひとつの部屋でコタツに雑魚寝。私のアルバイト先のパン屋さんから炊き出しのご飯やパンをもらってきたり、どうにか駆けつけてきてくれた親戚が、食料や携帯コンロを持って来てくれて、それで数日は何とか生活してました。
そのうち、近くの公民館で水とかインスタント食品が配られたり、スーパーにも食料品が届きだしましたし、電車も動き出したので、大学(当時私は学生でした)に行くついでに、買出しをしたり。
お風呂に入りたくて、大阪の銭湯に何日置きかで通ったり。
水道が回復した時、蛇口をひねると当たり前のように出る水が、こんなにありがたいものかと思いましたね・・・。
もっともっと大変な目に遭われた人のことを思えば、我が家の被害なんて微々たるものではありますけど、それでも震災の恐怖というのは、何年経っても覚えていて、簡単に忘れられるものではないですね。
今日は、近所のスーパーでも炊き出しイベントがありましたし、テレビでも震災特集が組まれてたりして、当時のことをじっと考えさせられる一日でもありました。