趣味の日記

観劇・歴史・小説・漫画などなど、思いつくままの語り日記

両槻会定例会・上

2009-01-13 23:59:28 | Weblog
寒波到来の土曜日、何枚も着込み、カイロも貼り付け、さらにマフラーに帽子でむくむくに着膨れしながら、参加してきました(笑)。

朝は、橿原神宮前駅に集合。今回は30人以上の参加者ということで、かなりの大所帯です。すっかりお馴染みさんになった皆様と、まずは年始のご挨拶。いよいよ新年の飛鳥歩きスタートです。
今回のテーマは、「飛鳥のみち、飛鳥へのみち」。橿原考古学研究所の近江俊秀先生にご案内いただきながら、日本書紀などに出てくる古道を、地図上で実際に当てはめつつ、古道についてさまざまな角度で検証してみよう、との趣旨。
歴史の物語や人物にはそれなりに首を突っ込んでいる私ですが、考古学的な視点となると、かなり???でも、だからこそこういう機会でもないと、素通りしてしまう分野になってしまいますから、どんなものが飛び出してくるか、興味津々でもありました。

まずは出発から、いきなり駅前交差点が、重要な位置であるとのこと。古代からの大きな交差点で、軽衢(かるのちまた)と呼ばれた場所だそうです。衢=巷と置き換えれば、確かに何となくイメージがわくような気もします。
交差点を南へ折れ、軽寺跡、石川精舎跡へと住宅地の中を抜けて行きます。一人では、絶対迷いそうな路地(苦笑)。
石川精舎跡は、蘇我馬子が仏像を安置したと伝わる場所。ほかにも何箇所か候補地はあるそうですが、蘇我の勢力圏内だったことは確かなようですね。最初にいただいた散策資料には、この境内の馬子塚五輪塔は、中世越智氏の所縁のものとする説も書かれていて、ちょっとニンマリしちゃいました(笑)。
住宅地を抜けて、いつも明日香へ行く時に通る剣池へとルートを戻し、和田廃寺、古宮土壇を回って豊浦寺へ。
○○寺跡というのと、○○廃寺との違いは、お寺の名前がはっきりわかっているのが寺跡、そこにお寺が建っていたことは判明しているが、寺名がわからないものを廃寺というそうです。和田廃寺は、和田という地区に発見されたからその地名を取ってそう呼ばれるのだとか。そう考えると、古代の寺院って名前のわからないものも結構あるんですね。
豊浦寺は、現在は向原寺となっていて、境内に古代寺院の遺跡があります。今回は、境内まで拝観しなかったんですけど、この周辺もまた蘇我氏に所縁の深い場所。蘇我蝦夷が豊浦大臣と呼ばれていることからも、蝦夷パパは甘樫丘に引っ越す前は、この辺りに邸宅を持っていたと考えられますね。
甘樫丘の麓を通って、石神遺跡へ。ここは飛鳥時代の迎賓館があったのではないかと言われてますが、最近違う説も出てきたとか。すぐ近くに、中大兄皇子の作った漏刻(水時計)跡といわれる水落遺跡もあることから、中大兄の邸宅だったんじゃないかという・・・。なるほど~いろんなことを想像する人がいるんですね~。
そしてご案内下さった近江先生のメインの主張は、この石神遺跡と当時の飛鳥寺北端との間の道こそ、古代の安倍山田道だ!という説です。
現在のところ、石神遺跡の北側がその道だというのが有力説らしいのですけど、地形や遺跡の配置からすると、こっちのほうがより説得力がある・・・ようにも思います(笑)。掘ってみればわかりそうなものですが、調査区域の担当研究所が違うと、勝手に掘ることはできないんだそうです。難しいですね~。

先生の楽しくテンポのよいご案内で、すいすいと歩き、無事に昼食場所の飛鳥庵に到着。もちろんここは、入鹿様首塚のお隣。昼食の前に、まずまっしぐらにお参りしてきました。
風がなかったおかげか、万全の防寒対策も功を奏し、ほとんど寒さを感じることもなかったとはいえ、やはり事務局員さんたちが準備して下さった熱いお茶が、とってもほっこりとして嬉しかったです。
熱いお茶とおにぎりで昼食を取り、今度はいよいよ近江先生の講演会場となる飛鳥資料館へ移動。
先生の、ウォーキングでの楽しくお茶目な解説がとっても面白かったので、わくわくしながら会場へと向かいました。


コメント
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