ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

糀谷

2013年06月27日 10時47分12秒 | 訪問地周辺

雨の中、京急糀谷駅近くにある施設を訪問しました。京急蒲田駅方面を見ています。蒲田駅の高架にともない糀谷駅も高架の工事中でした。
萩中神社の創建年代は不詳だそうですが、神明社と称し江戸時代後期には既にあったようです。明治維新後村社に列格、大正6年の風水害のによる再建の際、萩中にあった東官守稲荷神社を境内に遷しています。左手の鳥居のところが東官守稲荷神で、羽田七福いなりのひとつです。羽田七福いなりとは、大田区本羽田・羽田にある稲荷社を巡る巡礼です。糀谷駅から、穴守稲荷駅までの8社から構成されているそうです。雨でぬかるみ近づくことができませんでした。鳥居の左手には萩中神社の力石がありました。娯楽の少なかった昔、江戸時代から明治時代までは、鍛錬と娯楽を兼ねて、力石を用いた力試しが盛んに行われていたようです。磐持石 / 盤持石 / 晩持石(ばんもちいし)、力試し石(ちからだめしいし)など地方によって様々に呼ばれていました。

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下総中山法華経寺

2013年06月26日 00時44分34秒 | 訪問地周辺

下総中山という駅は昔高架でなかった時は、駅にお寺の案内が出ていたように記憶しています。いつから高架になったのか定かではありませんが、津田沼まで総武線が複々線化されたのが1972年ということで40年もまえのことになるのでしょうか。
いつか、お寺に寄ってみたいと思っていましたが、ようやく今回実現しました。由緒より、法華経寺(ホケキョウジ)は、鎌倉時代の文応元年(1260年)創立し、中山法華経寺とも呼ばれています。山号は正中山です。日蓮宗の霊跡寺院、大本山です。鎌倉時代の高僧日蓮聖人が最初に開いたお寺です。
鬼子母神の信仰厚く、子育安産、病気平癒の祈祷、社運隆盛のための参詣の人も多く訪れます。日蓮聖人の御真蹟、立正安国論、観心本尊抄など国宝、重要文化財の建造物があり、春秋の彼岸法、お千部、お会式、日蓮宗大荒行堂開設や聖教殿の開扉もあります。
五重塔、法華堂、四足門(しそくもん)、祖師堂絹本着色十六羅漢像は国重要文化財となっています。

長い参道の両脇にはたくさんのお寺がありました。智泉院遠寿院など。
法華経寺の境内には、重要文化財の大祖師堂これも重要文化財の五重塔です。
こちらは四足門で奥の建物が法華堂、二つとも国の重要文化財です。右手の廊下ネコのいた妙見堂猫1
同じく猫がいた宝殿門
日蓮宗大荒行堂そして鬼子母大尊神堂大仏由緒鐘楼堂などを見てきました。
龍閣橋から見た帰りの参道です。右手の自転車のところに七夕の願い事を書くものが置いてありました。

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下総中山のネコさんたち

2013年06月25日 21時28分42秒 | 訪問地周辺

午前中に下総中山駅と西船橋駅の中間にある施設を訪問しました。午後は市川駅のところの施設を訪問することになっていたので、昼の時間に中山の法華経寺周辺を散策しました。手前が黒門で奥が山門です。
法華経寺については、次号で詳しく書きますが、ここでは多くのネコさんにあったのでその写真を載せます。最初のネコさんは妙見堂のところにいました。猫1-1
次は宝殿門の階段のところに帰りがけには龍閣橋を渡ってすぐの右手の上のところに猫3-1山門に向かっていくと参道わきに猫4これは大物でした。私が触れてもびくともしませんでした。
黒門の手前左側に市川市の施設があり小さな公園になっていますが、ここはネコさんたち天国のようです。白ぶちさんや黒ねこさんトラねこさんがいました。
合計7匹、殆どが寝ていましたが、白ぶちさんと黒ネコさんは耳に切れ目があり地域猫さんですが、黒ネコさんだけは神経質そうにこちらを向いていました。

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壇ノ浦 赤間神宮

2013年06月20日 11時06分02秒 | 訪問地周辺

下関は午後から大雨のということで、宿泊地の小倉を早々と発ちました。3年前は訪問地の往復で寄り道した程度でしたが、壇ノ浦に向かってみまし。バス停の壇ノ浦には海峡と関門橋が見えるだけでした。
帰りの空港に向かう途中で気が付いたのですが、壇ノ浦の古戦場は関門橋を超えたところにありました。
海から見える赤い社に向かいました。赤間神宮でした。赤間神宮は、源平壇之浦の合戦に敗れ、わずか8歳で関門海峡に入水された安徳天皇を祀っています。
平家一門を祀る塚があり、『耳なし芳一』の舞台でもあります。
墓の門前に芳一堂がありました。
壇之浦を望む水天門は鮮やかな竜宮造りとなっています。竜宮城は1月行った鳥羽にもありましたが、平家物語から、こちらの方がその気にさせるものでした。
「先帝身投げより」源氏の兵が、平家の船に乗り移り、漕ぎ手、舵取りも射殺され、切り殺され、舟を立て直すことも出来ず、船底に倒れ付した。知盛は小船に乗り、御所の船に参上し、「世の中は、今はこれまでのようだといい、見苦しいものは皆海に投げ入れなさい」と舟の舳先から船尾へを自ら掃除をした。
二位の尼(平時子。清盛の妻)はこの有様見て、安徳天皇を抱き「わが身は女であるけれども、敵の手にかかるようなことはしたくない。主上のお供をいたします。」天皇は驚かれた様子で、「尼君様、私をどこへ連れて行こうとするのじゃ」「これから極楽浄土という目出度いところへ一緒にお供しますぞ」
二位殿はそのまま抱き、「波の下にも都はございますぞ」と慰めて、入水したということで、海の底の竜宮城を想像させます。
平家物語をしっかり読んだことはありませんが、小学1年生の学芸会で浦島太郎を演じたこともあり、竜宮城には興味があります。
駅に向かう途中にフグの市場で有名は唐戸市場があり、駐車場にツバメが巣くっていました。tubame市場の周辺にフグのレプリカがありました。
帰りの飛行機は梅雨空の上を飛んでいました。sora 1雲が綿のようにふかふかしていたり、雲と空の間が「水(雲)平線」のようでした。





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小倉城 八坂神社

2013年06月19日 22時23分58秒 | 訪問地周辺

3年振り、大分市と下関市の施設に訪問しました。前回は下関→大分の順に訪問し、大分市内を散策する時間がありましたが、今回は逆回りで大分は施設訪問で終りました。宿泊場所の小倉に2本早い特急で着き、八坂神社と小倉城を散策しました。関門海峡に面した小倉は、陸海の交通の要衝として、古くから砦や城が構えられた地でした。この地を抑えるために 繰りひろげられた、多くの豪族たちの攻防の歴史も残っています。
小倉城は、1602年(慶長7)細川忠興により築城されました。忠興は城下町繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて商工業保護政策を実施。外国貿易も盛んにし、同時に祇園祭りも誕生させています。
城は、戦乱により焼失し、現在の天守閣は1959年(昭和34)に復元されたものです。隣に小倉城庭園があります。
庭園側から八坂神社に向かいました。正門本殿
八坂神社:古くは「こくらのぎおんさん」と呼ばれており、阪東妻三郎(1943年版)や三船敏郎(1958年版)らが主演した映画『無法松の一生』に登場する小倉祇園太鼓はこの神社の例大祭のものです。祭は1618年(元和4年)にはじまり、約390年の歴史があります。現在は、毎年7月の第3土曜日・日曜日に開催されています。この神社は、北九州市およびその周辺地域において、もっとも多くの参拝客でにぎわう神社となっているそうです。「祇園社=ぎおんさん」と呼ばれていましたが、1868年(慶応4年)の神仏分離令(廃仏毀釈運動)により、「八坂神社」に改められました。市内に無法松の碑があるというので、訪れてみました。
八坂神社は閉門時間に近かったので、正門のところにネコちゃんがのんびり寝転んでいました。人が近づいたので、植木の中に入ってしまいました。
小倉城に隣接して松本清張記念館があります。3年前は中に入りましたが、すでに入場時間が過ぎていました記念館
松本清張記念館は、清張死没を受け、生前の功績を称え後世に語り継ぐことを目的として、清張の郷里である小倉北区の、小倉城址域の南西端の一角に1998年(平成10年)8月4日開館しました。
館内には、作家としての清張の業績について、映像や展示物などで紹介しています。
記念館の前の通りは清張通りとなっていました。

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