ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

あづま地蔵尊

2015年01月29日 23時58分02秒 | 近郊地散策

腰痛のクリニックで墨田区吾妻橋にあるアサヒタワークリニックに通っています。このクリニックはアサヒビール本社の2階にあります。もともとは、アサヒビールの社員がビールケースなどを運ぶ際に腰痛になることが多くそのために開設した整形外科です。私はビルの隣が職場だったので現役の時から通っています。

このビルは、1989年の竣工と同時に東京の新名所となりました。中央に見える22階建ての「アサヒビールタワー」は、琥珀色のガラスと頭頂部の白い外壁で、泡のあふれるビールジョッキをイメージしています。 隣接する「スーパードライホール」は、フランスの著名なデザイナー、フィリップ・スタルク氏によるもので、屋上の「炎のオブジェ」は、躍進するアサヒビールの心の象徴ということらしいです。

あづま地蔵尊はこの橋を渡ったところにあります。

これは吾妻橋一丁目町会有志によって、震火災水難殉難者各霊供養、交通安全御守護のために建立されたもののようです。

地蔵尊は線画として描かれており、地蔵尊に向かって、右側には震火災水難殉難者各霊、左側には交通安全御守護と刻まれています。

地蔵尊に向かって右側には「あづま地蔵尊」と刻まれた石盤があり、その背面には世話人として32名の氏名と朝日麥酒株式会社(現アサヒビール株式会社)の名前が記されています。

この碑に興味を持つのは、私の祖父が大震災の時に隅田川に浮かんだ死体処理のために動員されたということを聞いていたからです。また小学校5年生の時の東京見学でバスガイドさんが、東京大空襲の時にも多数の遺体が浮かんでいたと話していたことが心に残っています。

今では、スカイツリーのビューポイントの一つになっており、毎日外国の方や日本の観光客が写真を撮っています。この日も多くの外国の方々がいました。

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黙仙寺・大船観音

2015年01月28日 23時45分11秒 | 訪問地周辺散策

大船の施設を2年ぶり3回目の訪問をしました。前回は雪の降った後を大船観音まで登りました。今回は大船観音の発起人になっている黙仙寺に寄ってみました。入り口には崖崩れがあったので、参拝客以外は入らないでと書いてありましたが、参拝客なので入ってみました。登るとすぐに崩れた後らしいところに出合いました。登った途中にあった標札です。

階段は割れ目ができていたり補修の大変さがうかがわれました。上のお地蔵さんからさらに昇って本堂に着きました。裏に回ってみると墓でした。舗装された道に出たので、少し歩いてみましたが、駅から遠ざかるので戻って、来た道を帰ることにしました。黙仙寺は曹洞宗で山号は無我相山(むがそうざん)。1909年(明治42年)、濱地八郎という人物が、自ら信仰する金剛経を広めるため、永平寺管長日置黙仙禅師を開山に迎え、静岡県にあった祐昌寺という寺を移しました。本尊は釈迦牟尼。なお、大船観音建立の中心だった高階瓏仙は黙仙寺の二世だそうです。大船観音にも昇ろうと思いましたが、足腰は限界でした。前に登っているのであきらめました。かわりにバスターミナルにある空中回路から山を眺めてみました。

大船観音は1929年(昭和4年)、地元有志の発起により、護国観音として築造が開始され、1934年(昭和9年)には輪郭が出来上がっていましたが、戦局の悪化により、築造は中断。第二次世界大戦後、財団法人大船観音協会が設立され、1960年(昭和35年)4月に完成しました。なお、大船観音協会には、曹洞宗管長の高階瓏仙(たかしな ろうせん)や、東京急行電鉄の初代社長・五島慶太の名前を始め、各界の著名人の名があります。財団法人大船観音協会は、1981年(昭和56年)11月30日に解散し、宗教法人大船観音寺と改称されたそうです。

正面に鐘楼も見えます。駅の近くから見える横顔です。黙仙寺は後ろの山の中にあります。

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江戸城跡

2015年01月27日 21時42分49秒 | 訪問地周辺散策

東京駅の八重洲口にある施設を訪問しました。少し早めに会社を出て、反対側の丸の内方面にある江戸城跡に行ってみました。江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった城です。江戸時代は江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われています。また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれようです。

江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城です。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になったそうです。

徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となりました。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となりました。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっています。そ

の東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されています。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっています。

堀の鳥たち

渡り鳥で無い白鳥です。

前回も寄ったのですが、二重橋まではいかなかったので、今回は訪れてみました。これが二重橋だと思っていましたが、調べて見たらこちら下の橋のようです。奥に見えるのは伏見櫓です。

上の橋は皇居の入口に石で造られた手前の「正門石橋」で、下の写真、奥の「正門鉄橋」という橋が「二重橋」ということのようです。ただ一般的には両方を二重橋と言っていつようです。二重橋から続く二重橋濠です。二重橋の前には多くの観光客がいましたが、ほとんどが中国の方々だったようです。こちらは巽櫓です。

巽櫓は本丸から見て東南(辰巳)の濠の角にあることから名づけられました。
この巽櫓も伏見櫓や富士見櫓と同じように、関東大震災で損壊したのちに解体して復元されたものです。桔梗濠と桔梗門です。桔梗門は皇居参観者や勤労奉仕者などが出入りする門で、「内桜田門」と呼ばれていますが、昔この門の瓦に太田道灌の家紋が(桔梗)ついていたことから桔梗門と呼ばれるようになったとも伝えられているようです。

蛤濠です。蛤濠の内側が、江戸城の本丸になるようです。現在で言うところの東御苑です。本丸防衛のため、やや水深の深い水濠になっているそうです。

坂下門です坂下門は江戸城西丸造営直後に造られたと伝えられています。西丸大奥に近く、西丸の通用門として利用されていましたが、今は宮内庁の出入口として利用されています。文久2年(1862)1月、老中安藤対馬守がこの門外で水戸浪士に襲われた「坂下門外の変」は有名です。

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亀戸あさくさ古道、浅間神社から常光寺

2015年01月23日 23時16分45秒 | 歴史の小道

亀戸あさくさ古道を訪ねてみました。

逆井の渡しの碑です。

次は元佐倉道の碑です。

『元佐倉道跡」の道標~亀戸あさくさ古道の起終点~』江戸に向かう「元佐倉道」は「逆井の渡し」を小松川村から亀戸村に渡り、竪川通りを西に進むと、最初の分岐点「是より右 富士せんげん道」の道標(浅間神社境内保存)に出会います。道標を右に折れ、広がる田園風景を浅間神社、亀戸水神、六阿弥陀、香取神社、亀戸天神を経て浅草に至る江戸時代の古道です。

浅間神社です。近くまではたびたび訪れていましたが、神社を散策したことはありませんでしたので、今回初めて足を踏み入れてみました。由緒書きです。
その昔、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東夷ご征討の折、相模から上総へ船で向うとき「こんな小さな海なら、駆けて跳び上がってでも渡れる」と大言壮語し、海を渡りました。ところが海の中程までくると突然暴風が起こり、日本武尊の船は漂って渡ることが出来なくなってしまいました。その時、日本武尊に従っていた弟橘媛(オトタチバナヒメ)という媛が「これは、日本武尊のお言葉に怒った海神の仕業だ」と言い、日本武尊の身代わりに自らの身を海に投じました。すると暴風はたちどころに止み、船は無事、岸に着くことができました。後に、弟橘姫の笄(こうがい)と櫛(くし)が奥湾に漂着しました。

そのうち、笄がこの辺り高貝(こうがい)洲(す)と呼ばれていた現在の亀戸9丁目(旧神社跡)付近に漂着したと言われています。(写真は、現在の笄塚です。)
これをお聞きになった十二代景行天皇は大層愁いて、ここに笄を埋め、祠を立てて祀りました。当時の諸将が苦難の折に、この祠に参り祈願すると何事も必ず聞き届けられたとも伝えられています。大永七年、後奈良天王・室町時代(1527年)富士信仰の尤も盛んな時代に、里人たちは甘露寺元長に勧請し、霊峰富士山の御守護神・木花咲耶比売を戴き、この笄塚の上に浅間社として創立し、ご遷座を成したとされています。

現在の社殿は、昭和二十年の東京大空襲にもその難を免れ、七十数年を経て現在に至っております。近年鉄骨の神社の多い中で、稀少な木造建築ともなっています。」と書かれていました。

水盤:説明書きより「石質は安山岩(小松石)である。正面に富士山の姿が彫られ、その中央に「玉」と刻まれている。この印は、富士講の紋であったと思われ、当神社の明治期以降の石碑類の多くに刻まれている。富士山の上に「奉献」とあるから、富士講が当社に奉納したものであることがわかる。左側面の刻銘は次の通りである。石質は安山岩(小松石)である。正面に富士山の姿が彫られ、その中央に「玉」と刻まれている。この印は、富士講の紋であったと思われ、当神社の明治期以降の石碑類の多くに刻まれている。富士山の上に「奉献」とあるから、富士講が当社に奉納したものであることがわかる。左側面の刻銘は次の通りである。浅間神社は、大永七年(1527)の創立とも、近世初期の創立とも伝えられている。またこの地は、古代に日本武尊の妻、弟橘媛の笄が流れ着いた地ともいわれる。いつごろこの地に富士山が造成されたのかは不明だが、延宝七年(1679)に版行された「江戸方角安見図」の亀戸の図に、二棟の社殿を構えた「富士」の名前が見える。江戸時代の前期までには、この地に浅間神社が創祀されていたことが知られる。

庚申塔:六ッ目地蔵小屋に他の供養塔と一緒に建てられている。総高100cm。石質は安山岩(小松石)である。青面金剛の合掌している手や庚申塔正面の上部右上や、三猿の「聞か猿」の右足が欠損している。正面の刻銘は次の通りである。この庚申塔は舟型で、上部に月日、青面金剛の下に三猿があり、その両端に二鶏が刻まれている。青面金剛は六臂で合掌しており、左上の手に矛、左下の手に矢、右上の手に鏡、右下の手に弓を持っている。

富士せんげん道道標:側面には「地蔵講中 本所□ツ目 願主良歓」、左側面には「享和元酉年十月吉日」の刻銘がある。この道標は、右へ曲って浅間神社、亀戸天神社、六阿弥陀六番目の常光寺を経て浅草へ行く道を示すものであるが、この道は、すでに延宝七年(1679)の「江戸大絵図」にも見ることが出来る。

江戸大絵図です。まだ逆井の渡しについては描かれていません。

現在の六之橋(当時は六之渡し)は北詰に東向きに建っており、逆井の渡しから来る人に、これらの道を示していたと思われる。」ここから浅草までの古道があったようです。これにつられて水神宮に向かいました。昔は大きな森になっていたようです。

水神森亀戸水神宮の創建は古く、各種の文献を総合すると室町幕府十二代将軍足利義晴の治世の頃(1521~1546)と推定されます。土民が水害から免れん為の祈願とし て大和国吉野の丹生川上神社から勧請したもので、祭神は弥都波能売神(ミズハノメノカミ)という水を司る女神です。(罔象女神とも表記します)付近には鈴 木姓、田中姓の方が多くいらっしゃいますが、何れも土着の古い農家の流れをくむ方達であり亀戸の中でも特に歴史を有する地区でもあります。昭和20年3月 の大空襲の際に甚大な被害に遭いましたが昭和35年6月に再建され、現在は毎年6月第一日曜日に例祭を斎行しています。
近辺には水神小学校や水神駅、また水神通りなどがあり地域の皆さんに親しまれています。水盤

常光寺まで足を延ばしてみました。

六阿弥陀道道標 延宝7年在銘本道標は総高148センチ、塔身・基礎より構成され、二石とも石質は安山岩である。基礎は後補とみられ、花立と水鉢が施されている。塔身は駒型で、正面に「南無阿弥陀佛」、左側面に「自是右六阿弥陀道」、右側面に「延宝七巳未((ママ))年二月十五日 江戸新材木町同行六十□」((人))と陰刻があり、延宝7年(1679)2月15日、江戸新材木町(現中央区日本橋堀留町一丁目)の同行60人により建てられたものとわかる。現在、常光寺墓地北隅に置かれているが、元来は現在地と異なる場所に置かれていたと考えられる。戦前には現在の江東商業高校の北西側隅に面した常光寺の塀際にあったといわれ、その後、現在地に移されたものと思われる。

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東大島神社

2015年01月23日 22時38分57秒 | 自宅周辺探索

江東区大島にある学童クラブで働く方々にノロウイルスの話をしてきました。その帰り道、周辺を散策してみました。まず向かったのが東大島神社です。神社のHPの由緒書きには「江戸時代中期に小名木川水運をもとに村々が栄え、その鎮守様 として五つの神社(永平神社・ 子安神社・小名木神社・北本所牛島 神社 ・南本所牛島神社)が建てられました。
町の発展とともに神社も賑わいを増し、お祭り・行事なども盛大にお こなわれていましたが、昭和20年3月10日の東京大空襲により町並み全てが灰燼と化し、社殿・社史ともに焼失しま した。

町並みの復興とともに神社再建の声があがり、昭和27年に五社を合併し現鎮座地に社殿 が建立され、翌28年には竣工記念大祭が盛大に執り行われまし た。
町並みも整備され、もとの賑わいを取り戻すも、月日とともに社殿等 の傷み多く現れ、昭和53年に現社殿・参集殿が建てられました。」と書かれています。

鳥居

社殿です。

狛犬の所の梅の木もほころびてきましたが、開花までは至っていませんでした。

各文化財は消失した五社より集められ奉斎してあります。詳細などは、資料戦火にて消失のため不明です。ということですが、ということで、これらが一カ所に集まれていたので撮ってきました。

力石豊栄社石祠 文政二年

庚申塔 天明七年

水神宮石祠 

六角石塔 

西門です。

 

 

 

 

 

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