ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

富士山と大阪日帰り出張

2015年11月27日 23時17分07秒 | 訪問地周辺散策

大阪で会議があるので、日帰りで行ってきました。新幹線の指定席はE座席を取っていただき、富士山が撮れるようにしています。この日は天候がよく富士山がよく見えました。小田原の手前で見える富士山は雲がなくきれいに見えました。

三島から新富士までの間で良く見えるのですが、この時はうす雲が少し邪魔をしていました。

大阪では散策できずに、会場に直行しました。

大阪の街路樹のイチョウももう少しで黄色くなるようです。

北心斎橋商店街通りです。

前日は船橋にある「うたごえライブハウスゴリ」に出かけ6か月ぶりに歌ってきました。

木曜日でしたが、まずまずの入りで楽しく歌えました。

 

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猿江公園紅葉・皇帝ダリア

2015年11月21日 17時09分01秒 | 近郊地散策

理学療法士さんに少し休むように言われましたが、動かないと足が固まってしまいそうなので、自転車で近くの猿江公園に紅葉を見に行きました。イチョウの葉もだいぶ落ちてしまっていました。スカイツリーが見えるので、イチョウとツリーを撮ってみました。右側の楓は少し赤くなってきました。

この近くに19日見た花が咲いていました。

足元に花の名前が書いてありました。皇帝ダリアだそうです。秋の羊雲?に合っています。

猿江公園のあるところは、江戸時代から続く徳川幕府による貯木場でした。その後、明治政府御用達の貯木場になり、その後一般の人々に開かれた公園へと、用途が変更されました。公園の北側の地区(写真を撮ったところ)は、戦後しばらく横十間川と繋がっていて貯木場として使用されていました。貯木場が江東区潮見に移転され、1981年に公園として開園しています。わたしが江東区に移住したのが1974年ですので、その頃は大木が大横川やここの貯木場にたくさん浮かんでいました。

イチョウの絨毯です。広場ではこどもが遊んでいました。桜とイチョウの落ち葉です。

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外来日和(東京スカイツリーの真下)

2015年11月19日 20時40分02秒 | 近郊地散策

5km弱離れた病院に自転車で通っています。11月19日は秋晴れで、病院から解放された後に通院経路を散策してみました。

公園に咲いている珍しい花を見つけました。

三囲神社のイチョウも見頃になりました。

抜けるような青空に向かっているスカイツリーです。

真下から撮ってみました。

スカイツリーの立っているところは、東京都墨田区にある京成電鉄の押上駅と東武の業平橋駅の間に挟まれれた東武鉄道の本社隣接地で所有地でもある貨物駅跡地(貨物廃止後業平橋駅3、4、5番線ホームの敷地として使用されたが、廃止)に建設されました。京成駅側にはコンクリート工場もあり北十間川に沿った通りはコンクリートミキサー車が盛んに出入りしていました。

スカイツリー建設中、この地域は塀で囲われており、塀が取り外されたら別世界が現れたという感じでした。

スカイツリーの前にある今の北十間川です。

隅田川と旧中川とをつなぐ延長約3 キロメートルの掘割。途中、大横川、横十間川を分岐し、北西から南東へと斜めに流れています。一部江東区と墨田区の区境になっています。本所の北部かつ横十間川の北に位置し、川幅が十間(約18m)あることから北十間川と呼ばれました。万治2年(1659) に本所の開発に伴い開削された掘割の一つです。輸送路や農業用水など多目的に使われてきました。現在の川筋は隅田川に接続していますが、明治18 年(1885) までは業平橋の東側に土手があり、隅田川・大横川とは連絡していませんでした。

ちなみに隅田川から業平橋までは、寛文3 年(1663) に材木輸送の目的で開削され、源森川と呼ばれていて、隅田川寄りに架かっている橋は源森橋として残っています。水運の衰退とともに現在はその役割をおえ、スカイツリーの開業に合わせ改修され、遊歩道ができたり、中川よりのところは釣り場などになっています。(この写真は9月に撮ったものです)

夏場緑で覆われていた団地の中にある欅の木も色付いています。

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雨の大阪出張・富士山

2015年11月18日 23時15分30秒 | 訪問地周辺散策

退院後初めて一泊で大阪出張でした。久しぶりに富士山が見えたので撮り続けました。小田原近くからの富士さんです。

綿帽子をかぶっている珍しい景色です。

新富士で最も近くに見えます。

大阪では施設訪問後はタクシーで宿に入りました。

宿の朝食は30階から

外を見ながらでした。まだ雨は降っておらず、雨上がりでビルの足元が見えるベランダに出て見ました。

下は土佐堀川です。欅が色付いています。目の前のビルは中之島フェスティバルタワーです。中之島フェスティバルタワーは、高さ200メトで地上39階下3 階。1958年に開館した旧フェスティバルホーを2012年に建て替え、上部に朝日新聞大阪本社、 テナントオフィスが入るほか関西初出店 となる 5店を 含め32店と 、中之島地区最大の商業集積ゾーン「フェスティバルプラザ」が入っています。

少し離れると淀屋橋のところに日本銀行、奥に大阪市役所が見えます。

二日目の訪問先の野田は雨で全く動けませんでした。

阪神電鉄の本社と野田阪神駅の間にあるバスターミナルです。ここで時間稼ぎをしていました。

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正覚寺・鬼子母神(中目黒)

2015年11月11日 21時42分45秒 | 社寺仏閣

目黒区の保健所が開催した特定給食衛生講習会でノロウイルス予防を中心とした話をさせていただきました。退院後初めての講習会で足元もまだ不完全ですが、2時間ほぼ立ったままで話させていただきました。会場は目黒区役所の大会議室でしたので、少し早めに出かけて周辺を散策しました。駒沢通りの面して正覚寺があったので寄ってみました。11月7日になくなったシグママコトさんの通夜があるようです。山門から中に入ってみました。女性の像がありました。昭和9年に建てた三沢初子の像です。

山手通り側に由緒書きがありました。

★ランドマーク正覚寺実相山正覚寺は、元和5年(1619)に日栄上人によって開かれた日蓮宗の寺です。初めは碑文谷法華寺(現、円融寺)の末寺でしたが、元禄の頃、不受不施問題の影響を受けて身延山久遠寺末になりました。
仙台の伊達家との関係が深く、4代藩主綱村の生母である三沢初子が本寺住職4世日猷、5世日登両上人に深く帰依し、客堂や庫裡等は初子の邸宅が寄進されて建てられたといわれています。初子は浄瑠璃や歌舞伎で有名な「伊達騒動」の登場人物「千代萩の政岡」のモデルともいわれる人物です。また、綱村も生母初子の菩提を弔うため当寺へ特別の保護をしたといい、現在も伊達家の紋の入った建具などが残されています。
なお、鬼子母神堂には伝教大師作と伝えられている鬼子母神像が、祖師堂には11代将軍徳川家斉が江戸城中で深く帰依していたという日蓮聖人木像が安置されています。
墓地には三沢初子の墓(都指定文化財)があり、境内には6代目尾上梅幸の弟子尾上梅朝が演じた先代萩の政岡を元に、昭和9年(1934)に建てられた初子の銅像があります。(目黒区教育委員会掲示より)。本堂

こちらは

鬼子母神堂のようです。古地図にも正覚寺と鬼子母神と描かれています。正覚寺と祐天寺の間を通っている道は現在目黒通りとなっています。江戸名所図会より

鬼編犯科帳などでは目黒の不動尊が時々登場します。一度は訪れて見ようと思っています。

入り口のところに碑が建っています。

開運鬼子母善神と書かれています。 鬼子母神の説話の中で特に有名なものが、「鬼子母はもとは邪神でインドの王舎城の町にきては手当たり次第に人間の幼児をさらってきては、自分の可愛い子供達に人間の子供達を食べさせようとしていたのです。
 人々がこれを憂えてお釈迦様に救いを求めたので、お釈迦様は人々の悲しみを憐れんで彼女の愛子賓伽羅(びんがら)を鉢の底に隠してしまわれた。鬼子母は七日間もの時間、地獄の世界から仏様の世界まで隈無く探し求めましたが愛子賓伽羅を見つけることができず、ついにお釈迦様のもとに来たって、子供の行方を尋ねました。
 お釈迦様は鬼子母の懇願に答えて、“おまえは万子があるのにただ一子を失って憂悲苦悩している。ところが世間の人々は一子、あるいは三子五子であるのに、しかもおまえはその子供を殺したのではないか”とその悪行を厳しく戒められたのです。
 鬼子母はやっと自らの悪事の罪を悟り、賓伽羅が戻れば二度と人の子供を殺さないと悔いたのでした。そこでお釈迦様は鬼子母に鉢の下の賓伽羅を見せしめました。ところが鬼子母がどのような神通力を用いても子を取りだすことができません。鬼子母はお釈迦様ににすがって賓伽羅を返して下さい願いました。
 そこでお釈迦様は、『三帰五戒(さんきごかい)』という教えを守り、常に守る事を約束させました。鬼子母はお釈迦様に従い、三帰五戒の教えを受けて、それからは困っている人を助け、仏の道を説き弘める人を守護する誓いを立てられ大善神となりました。」というものだそうです。

こちらは布袋さん。鬼子母神堂の脇に建っていました。

お稲荷さんとお地蔵さんです。mukssi

昔、明治の頃はこの辺りは多くの牧場があったようで、こんな標識がありました。どれが供養塔かわからなかったのですがどうもこれのようです。

駒沢通りの山門の脇の石碑

区役所に行くので駒沢通りを昇っていきました。少し時間があったのと、昼食場所を探しながら、ほぼ坂の上まで歩いてしましました。坂を少し下ったところにレストランがあったので入ってみました。魚定食がなくなったということでビーフシチューを注文しました。注文してから1800円ということで財布の中身を調べてしまいました。よくよく見ると11月9日開店したばかりでした。

サラダは小さい皿に葉物が載っておりドレッシングも塩辛く食べにくかったです。出てきたビーフシチューは

味はまずますだったのですが、肉が半分以上焦げ付いていました。ドレッシングが塩辛いことや焦げ付いていることを伝えようと思いましたが、食べに来ることもないかと思い、お金を払ってそのままごちそうさまを言って店を出ました。コーヒーは付きましたが、スープも欲しかったですね。後から入った女性2人もビーフシチューでしたので、目黒あたりでは昼食に1500円以上も使うのかと下町の私は思ったところです。

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