ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

ユリカモメ出現・猿江恩賜公園

2016年11月28日 22時30分29秒 | 公園散策

いつもリハビリウォーキングで利用している都立猿江恩賜公園もいよいよ落ち葉の季節になってしまいましたが、木蔵池にはユリカモメが現れました。

散歩コースは一周1080mあります。ここを両手杖で20分かけて歩いてます。散歩しているうちでもっとも遅い歩きです。15年6月の一度目の手術のあと、10月、11月のリハビリはここで歩くのではなく、時々自転車できて写真を撮るというものでした。12月28日の2度目の手術のあと、病院での外来日リハビリが終ってなかなかしっかり歩けないので、どうしてもちゃんと歩くリハビリをしたいと、16年7月の終わりから猿江公園でのリハビリウォーキングをはじめました。最初はとにかく一周を歩く、8月からは二周を、そして10月からは三周歩くのを目標にしてきました。三周歩くとちょうど1時間歩くことになります。

歩き出しがうまくいかない、杖と足のリズムが悪くて、歩くのが嫌になるほどです。100mごとに距離が書いてあるので、100mを何歩で歩いているのかひたすら数えて歩いています。1歩1歩では数えるのが大変なので、2歩を1として数えています。調子が良いと100(200歩)で歩くことができますが通常は103(206歩)、多いと110(220歩)にもなってしまいます。歩数が多いと気分も暗くなるので、10月後半からICレコーダーで音楽を入れて、それを聞きながら歩くようにしました。つらいことを気にしないで歩けるようになりました。

だいたい二周は必死にあるいて三周目になっていろいろと写真を撮りながら歩くようにしています。もともと猿江公園の所は木蔵(丸太の貯蔵池)だったので、名残として池を少し残していますがそこに寄って池からの風景や池に映る景色を撮って楽しんんでいます。手前に浮いているのはオオオニバスで、夕方きれいな花を咲かせていました。

今は鴨やユリカモメが舞い降りています。

ポプラ並木は北海道のようだと言った方がいましたが。

木越、池越えに見える東京スカイツリーもビューポイントのひとつと思います。

そんな池も11月28日の午後2時ころでも氷が張っていました。

この日は冷たい池の中に1羽だけユリカモメが浮かんでいました。

翌日訪れて見ると鴨が戻って、ユリカモメも多くなっていました。おまけに水の引いた水連の上にアオサギが寒そうに立っていました。晴れると散歩も気持ちよくできます。秋は雲の動きもいいものがあります。

ちょっと前11月22日頃は見頃だったイチョウ並木も28日にはすっかり葉が落ちてしまいました。イチョウや欅の葉もほとんど落ちていますがこれらに代わって少し葉の幅の狭い木々が色づいています。

楓も見頃です。

猿江公園の南区域でも楓が見ごろになっていました。

皇帝ダリアもまだ咲いています。

これは山茶花?

 

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亀戸中央公園、秋の競演山茶花と紅葉

2016年11月22日 20時49分41秒 | 公園散策

自宅近くにある都立公園、11月22日に亀戸中央公園に行き、リハビリウォーキングしながら写真を撮ってきました。中央公園でのウォーキングは初めてでした。

公園では山茶花が見ごろになっています。

山茶花の白い花は初光と富士の峰があるようですがちょっと判断が付きません。こちらが冨士の峰でこちらが初光でしょうか。サザンカコーナーというものあります。

ピンクの花これは乙女

こちらは昭和の栄は10月から咲いていてそろそろ盛りを過ぎて散り始めています。こちらの赤い花は福包と書いてありましたがこれもかなり散っています。

山茶花と椿の見分けが難しいですがこのように花びらが散るのが山茶花の特徴のようです。こちらは立寒椿というサザンカとなっています。

欅や桜の紅葉が真っ盛りでした。

楓もいい色になっていました。

皇帝ダリアが植えられたのはは中央公園が早かったようです。トイレの横にあるツワブキです。

公園は旧中川に面しており河川にはアジサイが植えられています。近くの橋から東京スカイツリーご良く見えます。左手の林が亀戸中央公園です。総武線のガードを挟んで両側に広がっています。右手の河川の木々も紅葉しています。

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西光庵・西向天神社・富士塚

2016年11月20日 23時54分06秒 | 社寺仏閣

新宿文化センターでうたごえ喫茶ともしびの秋の大うたごえコンサートに行ってきました。少し早めに出て近くの社寺仏閣を散策しました。新宿三丁目駅で降りて最初目標にした法善寺に向かって歩きました。出来ればその先の抜弁天に行きたいと思っていました。迷いながら東京医大まで行き、さらに小道を歩いていて寺院があったので、もしや目的法善寺と思いましたが西光庵でした。

入り口に新宿区指定の有形文化財が保管されていると看板に書いてありました。

行く前に江戸時代の古地図を見て行ったのですが、ここは西光寺の所のようでした。

時間もあまりなったのですが、せっかくですので散策してみました。地蔵尊があるようですが、手前の墓地に入ってみました。これは千両みたいです。

奥まで入って行くと徳川とかかれた大きな墓石がありました。最初の墓石は徳川 義宜(とくがわ よしのり)の墓のようでした。=1858年7月4日(安政5年5月24日)- 1875年(明治8年)11月24日)は、江戸時代末期の大名。尾張国尾張藩の第16代藩主(藩主としては最後の人物)。

最も奥には徳川慶勝の墓がありました。

「従一位勲二等徳川慶勝卿墓」と書かれています。徳川 慶勝(とくがわ よしかつ)は、日本の幕末から明治初期にかけての大名、政治家。尾張藩14代藩主、尾張徳川家第14代・第17代当主。尾張藩支藩(御連枝)であった美濃高須藩主・松平義建の次男。三男が徳川義宜(尾張藩16代藩主)で義宜が死んだので第17代当主をやったようです。(ウイキペディアより)義宣と義勝の墓の間にあるのは義勝婦人徳川準子さんの墓のようです。

徳川準子(貞徳院矩姫)天保2年(1831)~明治35年(1902)

福島二本松の大名丹羽長富の三女として生まれる。名は於矩。19歳で尾張家14代藩主慶勝の夫人となる。植松茂岳、有経に和歌を学ぶ。『貞徳院殿和歌集』がある。

徳川の墓の入り口に近衛隊の石燈籠が建っていました。墓も秋めいていました。クチナシの実ですか?

コンサートの開始時間もあるので、西光庵を出て適当なところを左に折れていくと西向天神社に出ました。一度前に来ているのですが再度散策してみました。

古地図に富士山が書いてあるので富士塚がどこかにあるのではないかと探して歩いていましたが、ここにありました。

富士塚は天保13年(1842年)に築かれたようですが、大正14年6月に再築記念と書かれています。大震災で壊れでもしたのでしょうか。

ランドマーク富士山信仰:富士山を信仰の対象としている富士浅間信仰という信仰がある。この信仰では富士山に登山することが修業にあたるのだが、江戸時代にはなかなか実際の登山はできなかった。そこで地元に富士山のミニチュアを作り、そこに登ることで富士登山を疑似的に体験する施設が作られた。それが富士塚である。

富士塚は大きいもので高さ十m程度で児童公園の築山ほどの大きさであるが、富士山から運ばれた溶岩が積み上げられ、本物の富士山同様の登山ルートと要所要所の信仰対象が再現されている。

戦没者慰霊碑西向天神祠碑です。

紅梅林

神楽殿

神楽殿鏡板の絵:根本に笹をあしらった一本松の彩色の版画であり、大和絵の大家である高取雅成が描いたものどということです。

お百度石拝殿こちらは2014年4月の時の写真です。

★ランドマーク西向天神社安貞2年(1282)に明恵上人(1173-1232)が創建したと伝えられ、社殿が西を向いているため西向天神と呼ばれました。また棗の天神とも呼ばれます。「江戸名所図会」ではその由来を不明としていますが、一説に三代将軍家光が鷹狩りの祭に立ち寄り、境内が荒れている様を見て、黄金の棗を下されたからといわれています。
天正年間(1573-92)に兵火を受け焼失しましたが、村人により祠が建てられ、その後、聖護院宮道晃法親王が江戸に下った祭に、元信という僧侶に命じ社殿などが再建されました。天保13年(1842)には富士塚が築かれ、現在でも境内に残っています。
別当寺であった梅松山大聖院は、神社の北側にあります。江戸時代には聖護院宮を開基とする門跡寺院で、本山修験派の江戸の拠点となっていました。
境内には、太田道灌の山吹の里伝説に登場する紅皿の墓と伝えられる板碑があり、寺の前の狭い石段を山吹坂と呼んでいます。大久保菅公廟碑

これは天神さんとどんな関係があるのでしょうか・家で調べてみました。

「新宿の女」を作詞した石坂まさをの作詞作曲家生活30周年を記念して平成11年(1999)に建てられたものだそうです。
西向天神社は、「新宿の女」のキャンペーンのために二人が新宿の飲み屋街を25時間ぶっ続けで流して回るという「新宿25時間キャンペーン」のスタートを切った記念の場所だそうです。http://walkerhide.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_e6d7.htmlこちらの方が書いておられました。

奥にあるのは

大聖院に伝来する古文書・古記録類で、宝暦元年(1751)から明治4年(1871)におよぶ2巻5冊1葉である。
内容は、大聖院と別当寺をつとめていた西向天神社の由緒に関するものが多いが、文政7年(1824)の「東大久保村地誌書上帳」や境内にある紅皿の碑に関する「紅皿縁起」なども含まれている。
点数は少ないが、残存する古文書の皆無な大久保地区にとっては貴重な史料である。(新宿区教育委員会掲示より)

★ランドマーク大聖院大聖院は、中世より春日部にありましたが、後当地へ移転、西向天神社の別当、天台宗本山派の江戸番所を勤めていました。境内には太田道灌の山吹の里に伝説登場する少女・紅皿の墓があります。墓には寄れませんでした今度ぜひ見たいです。

こちらは紅葉林この石仏の由来はわかりませんでした。こちらもわかりません。

ここはかなり段差がありますが「紅血の碑」にちなんで山吹坂というそうです。

★ランドマーク紅血の碑:伝説では、太田道灌が高田の里(現在の面影橋のあたりとされる)へ鷹狩に来てにわか雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立ち寄った。その家の少女・紅皿は、庭の山吹の一枝を差し出し、『御拾遺集』の中にある「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」の歌にかけて、雨具(蓑)のないことを伝えた。後にこれを知った太田道灌は歌の教養に励み、紅皿を城に招いて歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。

坂(今は階段)を降りて下から見上げています。

富士塚を下から見ています。左側の上になります。

回り道しましたがコンサート会場に着きました。この写真を撮っていたら後ろの女性に怒られてしまいました。

 

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新宿御苑菊花壇展(11月17日)

2016年11月18日 09時09分40秒 | 季節の花

新宿御苑の菊花壇展を見てきました。御苑のHPでいろいろと解説が載っていますのでそれを拝借しました。

★ランドマーク新宿御苑菊花壇展新宿御苑の秋の花といえば、日本庭園を彩る皇室ゆかりの菊花壇展。
 毎年11月1日から15日まで、日本庭園にて開催し、期間中は特別開園期間として、毎日休まず開園いたします。
 年に一度の晴れ舞台。菊花の艶やかな競演がおりなす、伝統美の世界。咲き誇る花々を愛でながら、新宿御苑で風情あふれる菊のお花見を是非お楽しみください。ということらしいです。千駄ヶ谷門です。

菊花壇展は日本庭園で行われています。中央入り口です。脇に大作り菊が飾ってあります。

★菊花壇展の歴史菊が皇室の紋章と定められたのは、明治元年(1868)でした。このときから日本国民にとっては、皇室と菊花が直接的な関係を持つようになります。
 宮内省は皇室を中心として菊を鑑賞する為に、明治11年(1878)に赤坂の仮皇居で初めての「菊花拝観」を開催しました。明治13年(1880)からは「観菊会」と名称が変更になりましたが、以後昭和11年(1936)年まで、戦争、震災、大喪、御大典などの年を除き、毎年開催されました。
 「観菊会」は、明治22年(1889)まで赤坂仮皇居、以後昭和3年(1928)までは赤坂離宮で開催されましたが、赤坂離宮の展示場所が大宮御所の造営敷地となったため、翌昭和4年からは新宿御苑で開催するようになりました。
 昭和12年(1937)から昭和23年(1948)までは、日中戦争と第二次世界大戦の影響で観菊会は中止となりました。昭和24年(1949)5月21日に「国民公園新宿御苑」として一般に公開されるに及び、11月1日から15日まで、13年ぶりに菊花壇を日本庭園内に設け、宮内省時代から受け継いだ伝統の新宿御苑菊花を初めて一般に公開しました。
 昭和26年(1951)からは一般公開中に特別招待日を設け、内閣総理大臣主催の「観菊会」を開催。昭和28年(1953)からは総理大臣主催の「観菊会」は取りやめ、所管の厚生大臣主催の「菊を観る会」へと変更になりました。そして昭和46年(1971)7月1日、環境庁発足とともに、厚生省から環境庁へと所管が変わり、環境庁長官主催の「菊を観る会」へと変わりました。昭和47年からは、特別招待日を設けての「菊を観る会」は催さず、期間中は環境庁長官招待による任意の「菊を観る会」となり、平成13年からは環境大臣招待として現在に至っています。と新宿御苑のHPに書かれています。

道順に沿っていくと

懸崖作り花壇 (けんがいつくりかだん)作り始め:大正4年(1915)
 竹と木の素材をいかしたよしず張りの上家に、30鉢の大中小の山菊懸崖作りを、野趣にとんだ古木の花台の上に配色よく並べた花壇です。
 懸崖作りは、山野に自生する野菊が、岩の間から垂れ下がって咲いている姿にヒントを得て作り始めたもので、野趣を生かした独特の味わいがあります。
 懸崖作りに用いる菊は小菊で、分枝性の旺盛なものを摘心によって仕立てます。この花壇に陳列している品種は、小菊のなかでも一重咲きの山菊とよばれる品種を用いています。

見ている方が枯れてしまったのと言っていましたが、そうではなく、こういう種類のものとわかりました。

★伊勢菊・丁子菊・嵯峨菊花壇 (いせぎく・ちょうじぎく・さがぎくかだん)作り始め:昭和30年(1955)

 木の素材をいかしたよしず張りの上家に、伊勢菊32株、丁子菊32株、嵯峨菊25株を配色よく植え込んだ花壇です。
 伊勢菊は伊勢地方(現在の三重県松阪市・津市)で発達した菊です。花びらが平たく、咲き始めは縮れていますが、開花するにしたがって伸び、垂れ下がって満開となります。花びらが長く垂れ下がるほど良い花とされています。
 丁子菊は、昔、おもに関西地方で作られた菊です。花の中心の筒状の花びらが香料の丁子の花に似ていることから、この名前がつきました。外国では「アネモネ咲き」とよばれ人気があります。花びらは平たいものや匙のような形のものがあります。
 嵯峨菊は、嵯峨天皇の御愛の菊として、京都の大覚寺に植えられたものが始まりといわれる、もっとも古い歴史をもつ古典菊です。花びらが平たく、咲き始めは乱れ咲きに開き、次第に花びらがよじれて立ち上がり、全部立ちきって満開となります。雅趣に富んだ菊です。
見事なものだと感心しました。大作り花壇の前の紅葉です。

いよいよもっとも奥に飾ってある大作り花壇です。

大作り花壇 (おおづくりかだん)作り始め:明治17年(1884)

木の素材をいかした、障子屋根とよしず張りの上家に、大菊の大作り菊を陳列した花壇です。
 大作りは1本の株から何百というたくさんの花を咲かせるように仕上げたもので、菊のなかでもとくに発達の旺盛な品種を用います。 

この作り方で一番大切なことは、多くの花を咲かせることはもちろん、個々の花においても枝や葉が均一で、花の大きさが揃いかつ開花期が同時でなければなりません。
 飾りつけは個々の花をこんもりと、そして半円形に整然と結い立てるもので、この栽培と仕立てには高度の技術が必要とされています。この様式は新宿御苑独自の技術であり、菊花壇の中でも見ごたえのある花壇です。全国各地の菊花壇展でみられる千輪作りの先駆けにもなっている菊です。黄色が両端に真中が白でした。これで日本庭園の一番奥まで行きました。

池の中にも飾ってありました。橋を渡って戻ります。

こちらは

江戸菊花壇 (えどぎくかだん)作り始め:明治11年(1878)

 木の素材をいかした障子屋根の上家に、1株27輪仕立ての中菊29株を3列の互の目に奥行きをつけて植え込み、篠立て作りにした花壇です。
 中菊は関西の大菊に対し、江戸において流行したので、江戸菊ともよばれています。また、花びらが様々に変化することから、狂菊ともよばれています。その狂い方によって、「追抱(おいがかえ)」、「褄折抱(つまおれがかえ)」、「丸抱」、「乱れ抱」、「自然抱」、「露心抱(ろしんがかえ)」「管抱(くだがかえ)」の7通りの名前がつけられています。
 花びらは平たいもの、管のようになったもの、匙のようになったものの3種類あります。
 この菊は花びらが様々に変化する狂いの芸が特徴で、御苑独自の仕立てと、全体の色彩の変化と配列の美しい花壇です。新宿御苑の菊花壇の中でももっとも古い歴史のある植え込み様式です。

いろいろな色の花がありました。

こちらはまた楽しくなるような花でした。

一文字菊、管物菊花壇 (いちもんじぎく、くだものぎくかだん)作り始め:大正14年(1925)

 木の素材をいかした障子屋根の上家に、一文字菊13品種97株、管物菊13品種97株の計194株を22列に1本仕立てで植え込んだ花壇です。
 一文字菊は一重咲きで、花びらが平たく幅広く伸びるのが特徴です。この菊は御紋章菊ともよばれています。
 管物菊とは、すべての花びらが管状になっている菊で、花びらの太いものを太管物菊、細いものを細管物菊、その中間の太さのものを間管菊とよんでいます。この花壇に用いるのは細管物菊で、一般に栽培されている玉巻性のものではなく、細く長く雄大な花びらを持つ品種で、新宿御苑で独自に作り上げた品種を用いています。

芝生にも花壇ができていました。

肥後菊花壇 (ひごぎくかだん)作り始め:大正14年(1925)

 竹の素材をいかしたよしず張りの上家に、35株の肥後菊を3列の互の目に植え込んだ花壇です。
 肥後菊は、18世紀末に肥後(熊本)地方で、藩主・細川公が藩政施行にあたり文化政策のひとつとして、栽培が始められ発達した古典菊です。清廉なこの菊を例に、武士道の意義を説いたといわれています。藩外への流出を固く禁じるなど、長い間門外不出の秘花でしたが、藩士・秀島英露が栽培方法や花壇様式の作法を考案した、『養菊指南書』を著し、全国に広まりました。

花は一重咲きで花びらは平たいものと管状のものがあります。花びらと花びらの間に隙間があるのが特徴です。

大菊花壇 (おおぎくかだん)作り始め:明治17年(1884)

 木の素材をいかした障子屋根のよしず張りの上家に、大菊の厚物と厚走りの39品種311株を1本仕立てにして、黄・白・紅の順序に、45度の角度で1列1種として植え込んだ花壇です。
 配色の美しさが昔の神馬の手綱の模様に似ていることから、このような植え込みの技法を手綱植えとよんでいます。
 厚物は、花びらの先端が中心に向かってうろこ状に丸く盛り上がって、手まりのような形になるのが特徴です。厚走りは、一番外側の花びらが長く飛び出ています。
 1本1本の花の美しさはもちろんのこと、各列に並んだ花の整形美や色彩の変化、これに調和する建物の総合美を鑑賞します。  ここで菊花壇はここが最後です。

新宿御苑の菊花壇は、回遊式の日本庭園内に上家(うわや)といわれる建物を設け、特色あふれる花々を独自の様式を基調に飾り付けた花壇です。
 それぞれの花壇は、順路に沿ってご覧いただくと、もっとも美しく鑑賞できるようにデザインされています。

ということで、道順にすべて見てきました。以前務めた会社が新宿御苑の隣にあったので、昼休みを利用してたびたび訪れていましたが、すべて見たのjは初めてでした。

大木戸門です。いつもの御苑散策コースは千駄ヶ谷門から入って大木戸門に抜けるとうものです。

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新宿御苑の紅葉(2016年11月17日)

2016年11月17日 23時12分49秒 | 公園散策

鍼灸治療に行く途中で、新宿御苑に菊と紅葉を見に行ってきました。小春日和で園内散策には絶好の日和でした。楓の真っ赤な紅葉やイチョウの鮮やかな黄色までには2-3日早い感じがしましたが、まずまずの紅葉を見ることができました。

千駄ヶ谷駅から千駄ヶ谷門に向かいます。イチョウの盛りは左手のイチョウが真黄色になります。ということでほんの少し早かった感じがしました。

新宿御苑のルーツが書いてありました。

★ランドマーク新宿御苑新宿御苑の敷地は、天正18年(1590)に豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が江戸城に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けた江戸屋敷の一部です。
 東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶ広大な土地で、のちの甲州街道や青梅街道になる江戸から西にのびる街道と、鎌倉街道が交差する要所であったことから、この一帯の警護など軍事的な目的で家康が信頼できる家臣に与えたとされています。
 内藤氏7代清枚は元禄4年(1691)に三万三千石の信州高遠城主となりました。内藤家の屋敷地はその石高に比べてあまりにも過分であったため、その後かなりの部分を幕府に返上しましたが、明治5年にはまだ十万坪以上が残されていました。  新宿御苑は、この内藤家の九万五千坪余と、当時すでに私有地化していたものの、もとは内藤家の屋敷地であった隣接地を合わせた十七万八千坪(58.3ha)の土地に誕生することとなりました。

 また、現在大木戸門を入った突き当たりにある玉藻池を中心とする日本庭園は、安永元年(1772)に玉川上水の余水を利用して完成した内藤家の庭園『玉川園』の一部です。
 このようなことから、新宿御苑のルーツは内藤家の江戸屋敷と言えます。

古地図江戸切絵図です。内藤駿河守と書いてあるとろに御上水玉川水番、大木戸と書いてあります。玉藻池

玉藻池の排水口です。

何度も訪れているので、千駄ヶ谷門から入ると一路、下の池に向かいます。下の池の排水口の所です。中の池の方に向かいます。

水仙の花壇のところから下の池全体を見渡します。中の池です。ドコモタワーが見えます。

池の端にある楓です。

菊花壇展の日本庭園の中央入り口です。

入ったすぐ左手に旧御涼亭が見えます。

平日の午後ですが結構賑わっていました。

ここらは見頃になっていました。日本庭園の奥まで行き、ここから戻ります。ここはススキのある風景でビューポイントのひとつです。折り返しで少し裏道という感じです。

新宿門に向かうとこです。咲いている花はあまり見つかりませんがサザンカがあちらこちらで咲いています。サザンカに蝶が止まっていました。

三角花壇には鶏頭が植えてありました

こちらの花は今朝NHKで他の公園を映していましたが、ツワブキということでした。日陰に群生しています。

三角花壇からイギリス風景式庭園を見ています。

いつもきれいに紅葉する個々の楓はまだ少し早かったようです。こちらは十月桜(ジュウガツサクラ)です。

大木戸門に向かうところです。左手に温室が見えますが、まだ一度も入ったことがありません。

ここにユリノキとイチョウの大木があり、いい色に染まっていました。でももう少しするとこの落ち葉が一面イチョウの黄色い落ち葉になります。

イチョウの木の下にある丸花壇には皇帝ダリアが咲いています。皇帝ダリアは半年でこの高さまで成長します。

バラ園の方に向かうところです。この左手奥に玉藻池があります。イギリス風景式庭園から日本庭園の方向を見ています。フランス形式庭園、バラ園の脇のポプラ並木です。

 落ち葉が積もっていました。

並木の下は枯葉で覆われていました。

玉藻池の所の休憩所に寄ってからちょっと戻ってみました。山の右手が温室です。

大木戸門のところにあるサザンカです。

大木戸門です。

江戸名所図会に掲載されている四谷大木戸です。左側が城内で奥が城外、今の新宿駅方面です。江戸時代はそれぞれの出入り口に木戸があって、時間になると閉まってしまい、人の移動が出来なくってました。今の不夜城の新宿では考えられません。ちなみに馬三頭が運んでいるのは城内の下肥だそうです。

キャプション「五十にて四谷をみたり花の春 嵐雪」 江戸城内はここまでで、これ先新宿方面は城外になります。

当日はここから出てタクシーで鍼灸治療院に向かいました。

 

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