ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

櫛田神社・大宰府天満宮

2013年02月28日 07時34分28秒 | 訪問地周辺散策

九州は雨の予想でしたが、雨は夜のみで朝方にはあがりました。そこで少し早めに宿を出て、近くある櫛田神社に寄ってみました。由緒では、櫛田神社は、博多の総鎮守として、「お櫛田さん」の愛称で広く市民から親しまれている神社です。祭神は大幡主命(櫛田宮)・天照皇大神(大神宮)・素盞嗚尊(祇園宮)となっています。この櫛田神社は伊勢松坂の櫛田神社を勧進したものだと考えられ、天正15年(1587年)の豊臣秀吉が博多復興にあたり、現在の社殿の建立寄進がなされました。神社に奉納される博多祇園山笠は、博多の夏の風物詩として全国的にも有名です。境内には「櫛田の銀杏」が葉を繁らせ、その根元には2点の蒙古碇石があるということです。
あまり期待していませんでしたが、いきなり山笠が現れました。これは、通例祭り期間中にしか見ることができないはずの博多祇園山笠の飾り山を、歴史を伝えるために唯一常設されているものだそうです。また、入り口付近には「櫛田の銀杏」とよばれ、県の天然記念物に指定されている樹齢約1000年の銀杏の木がありました。
楼門には博多総鎮守と書かれていました。
今回の出張でぜひ行きたいところがあったので、早々と次に向かいました。太宰府天満宮です。昨年北野天満宮、防府天満宮を訪れており、これで、日本の三天満宮といわれるものをすべて見ることができたからです。梅の花が咲き、暖かだったこともあり境内は賑わっていました。梅の木はたくさんありますが、有名なのは「飛梅」です。これは菅原道真が藤原時平との政争に敗れて遠く大宰府へ左遷されることとなった時、屋敷内の庭木のうち日頃からとりわけ愛でてきた梅の木・桜の木・松の木との別れを惜しんだそうで、そのときに梅の木について詠んだのが「東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅花(うめのはな) 主なしとて 春な忘るな」だそうです。
そして伝説では、道真を慕う庭木たちのうち、桜は、主人が遠い所へ去ってしまうことを知ってからというもの、悲しみに暮れて見る見るうちに葉を落とし、ついには枯れてしまったという。しかして梅と松は、道真の後を追いたい気持ちをいよいよ強くして、空を飛んだ。ところが松は途中で力尽きて、今の兵庫県神戸市須磨区板宿町近くの後世「飛松岡」と呼ばれる丘に降り立ち、この地に根を下ろした。一方、ひとり残った梅だけは見事その日一夜のうちに主人の暮らす大宰府まで飛んでゆき、その地に降り立ったといわれているもので、境内で最も早く咲くそうです。ほかにもたくさんの梅の木がありましたが、こそこそと動いている花があったので、のぞいてみると、ゆらいしていたのはメジロでした。
ここの巨木・老木は樹齢 1000~1500年、樹高39m、幹回り12m、根回り20mという国指定天然記念物の楠です。本日の出張地の久留米で昼食を食べ表に出たら、猫が呼び込み?をしていました。

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博多

2013年02月27日 22時39分24秒 | 訪問地周辺散策

福岡県に出張でした。初日は福岡市の六本松と天神が訪問地で、泊りは中洲でした。福岡便はANAB777で窓側のK席だったので雪に覆われた見事な山々を見ることができました。
これは八ヶ岳でしょうか。こちらは南アルプスと木曽駒ヶ岳でしょうか。知っている方に教えてもらいたいと思います。
福岡市の訪問地、天神から宿に向かう途中に神社がありました。水鏡神社というそうですが、由来に「菅原道真は京より大宰府に左遷される道中で博多に上陸した際、今泉にある四十川(現在の薬院新川)の水面に自分の姿を映し、水面に映る自身のやつれた姿をみて嘆き悲しんだとされ、これにちなんで今泉(中央区今泉)に社殿が建造され「水鏡天神(すいきょうのてんじん)」「容見天神(すがたみのてんじん)」と呼ばれた。」と書いてあり、天神の地名はここから生まれたようです。
中洲に向かう途中の川に天神橋と書いてありました。
あまりその土地の食べものには興味がなく探して食べるほどではないのですが、ここではとんこつラーメンを食べました。

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善導寺

2013年02月23日 22時41分25秒 | 身辺出来事

若く30代にして亡くなった姪の一周忌に群馬原町にある善導寺に行ってきました。浄土真宗のお寺なので法要も、お坊さんの話もわかりやすいものでした。法要の後、寺の前に像があったので写してきました。
家に帰ってから調べたら、勢至丸とは、法然上人の幼名であることがわかりました。ちなみに法然上人は浄土真宗の七高僧の第七祖で、寺の名前になっている善導は第五祖だそうです。
次々とわからなことがでてきますが、七高僧(しちこうそう)とは、浄土真宗の宗祖とされる親鸞が選定した7人の高僧のことだそうです。寺の周りの日陰には雪が残っていましたが、道路の脇の日向では「いぬふぐり」の小さな花が咲いていました。「いぬふぐり」は、うたごえの店でよく歌う反戦歌の題名でもあります。
帰りは吾妻線から高崎駅で高崎駅新幹線に乗り換えてきました。

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薬師寺・唐招提寺

2013年02月21日 10時43分29秒 | 訪問地周辺散策

大和西大寺が奈良2日目の訪問先でした。奈良駅前に宿泊したので、早めに出発して、まず興福寺に寄ってみました。興福寺は、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院です。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇っていました。南円堂は西国三十三所第9番札所となっています。「古都奈良の文化財」の一部として1998年に世界遺産に登録され、1999年から日本国の史跡整備保存事業として、発掘調査が進められていいます。平城京での創建1300年を期に中金堂が再建中であり、南大門の再建も計画されています。
手前の猿沢池では石像のようにゴイサギが立っていました。三重塔(国宝)へ行く途中に延命地蔵尊が立っています。三重塔から工事中の北円堂(国宝)に向かいました。南円堂の前から五重塔(国宝)を見ています。
目的の大和西大寺にある施設への訪問にはまだ時間があったので西ノ京に寄りました。昨年も立ち寄りましたが、ここには薬師寺と唐招提寺があります。薬師寺は「法相宗[ほっそうしゅう]」の大本山です。天武天皇により発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)、更に文武天皇の御代に至り、飛鳥の地において堂宇の完成を見ました。その後、平城遷都(710)に伴い現在地に移されたものです。(718)平成10年よりユネスコ世界遺産に登録されています。
薬師寺では薬師如来に会ってきました。国宝の東塔は修理中できらびやかな西塔が立っています。西塔は昭和56年(1981)に復興されました。東塔と比較して、鮮やかな色になっていますが、それは奈良を表わす色使いでもあるそうです。塔の連子窓[れんじまど]に使われている色を「青[あお]」色、扉や柱に使われている色を「丹[に]」色と呼び、万葉集の一節に「あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり」と歌われている事からも当時の平城京の華やかさを表現する意味もあったのではないかと思われます。「青丹良し」とは奈良の枕ことばを意味するのです。

薬師寺には梅の木がたくさんありましたが、まだ少し早かったようで、白梅だけが少し咲いていました。
昨年は行けなかった唐招提寺まで歩きました。唐招提寺は、南都六宗の一つである律宗の総本山です。鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部(にたべ)親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。
「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。
金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。
現在では、奈良時代建立の金堂、講堂が天平の息吹を伝える、貴重な伽藍となっています。金堂の中の廬舎那仏坐像や薬師如来立像、千手観音立像には圧倒されました。
奈良は高校3年で修学旅行以来なので50年ぶりということになりますが、薬師寺と唐招提寺、法隆寺が印象的だったことを覚えています。
次回はぜひ法隆寺へ立ち寄りたいと思っています。
目的の大和西大寺では、ランドマークそのものの西大寺に寄りました。西大寺は東大寺に対する西の大寺という意味だそうです。残念ながら、創立当時の建物がすべて失われて、江戸時代再建されたので、国宝に該当するようなものが残されていませんでした。
五重塔跡と本堂ですが、本堂も江戸時代に再建されたもののようです。
背景の空でわかるように2日目も寒い奈良でした。

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雪の東大寺

2013年02月20日 22時45分27秒 | 訪問地周辺散策

奈良県に出張でした。19日は雪、20日も寒い日で山の雪は消えませんでした。初日の訪問先は奈良市だったので、雪の中、昨年に続き東大寺に行きました。
途中、雪の奈良にふさわしい名前の、氷室神社がありました。氷室神社は氷献灯や、しだれ桜で有名なようです。奈良といえば鹿ですが、道々で遭遇します。東大寺南大門の手前では集団で雪を避けていました。
南大門。東大寺は728年、聖武天皇が皇太子供養のため建立した金鐘寺が東大寺の始まりです。華厳宗大本山。741年に聖武天皇が護国信仰に基づいて国分寺の建立を命じられた際、金鐘寺を大和国分寺として金光明寺と称した。743年になり聖武天皇が大仏造顕の詔を公布、745年に金光明寺にて造営が開始された際、東大寺となった。大仏は752年に開眼供養が行なわれたが、大仏殿や講堂などの伽藍が完成したのは789年になる。その後1180年に平重衝によって、1567年には松永久秀によって伽藍が焼失。現在の伽藍は1709年に再建されたものです。東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されています。
天候が悪くてもさすがに国宝と世界遺産の東大寺には多くの観光客がいました。南大門と中門の間に鏡池があります。中門や大仏殿が鏡に映ったように見えるのでいうのかと思っていましたが、池の中の島が取っ手のついた鏡のようだということで名づけられているようです。大仏殿の前の芝生は雪に覆われていました。
大仏様は大きいだけであまり魅力を感じられませんでした。金堂(大仏殿)は国宝です。当初の大仏及び大仏殿は、聖武天皇の発願により、8世紀に造られたものでしたが、その後2度の兵火で焼け落ち、現存する大仏殿は江戸時代の再建されたものです。大仏は台座と袖、脚などの一部に当初部分を残すのみで、体部の大部分は中世の作、頭部は江戸時代の作です。いろいろなところにある木像が魅力的でした。2月ということで二月堂に上ってみました。東大寺二月堂(とうだいじにがつどう)は、奈良時代(8世紀)創建の仏堂です。現存する建物は1669年の再建で、日本の国宝に指定されています。奈良の早春の風物詩である「お水取り」の行事が行われる建物として知られています。「お水取り」は正式には修二会(しゅにえ)といい、8世紀から連綿と継続されている宗教行事です。二月堂から降りてくるとまた鹿に出会いました。いつもより鹿せんべいをくれる人がいないので鹿も手持無沙汰?中には呼び込みをしている?ものもいました。
帰りがけ、氷室神社前あたりで、振り返ってみると若草山が一面雪に覆われていました。寒い寒い奈良訪問でした。

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