ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

亀戸・龍眼寺

2015年05月31日 23時38分04秒 | 自宅周辺探索

歩くのが困難で、出歩くのも大変ですが、閉じこもっていても良くならないので自転車で出かけてみました。この間開門時間過ぎて入れなかった龍眼寺に行きました。

龍眼寺山門です。萩寺の名で親しまれている龍眼寺の境内入口正面左には、 榎本其角、大納言家長郷、正面右には、 松尾芭蕉の句が彫られていました。

龍眼寺のHPより

「天台宗 慈雲山 無量院 龍眼寺 (萩寺):龍眼寺創建は応永2年(1395年)、良博大和尚が観世音の夢告とおり、柳島辻堂の下に眠る観世音をまつり、村に流行していた疾病を平癒し、慈雲山無量院柳源寺と号しました。

その後、寺の湧き水で洗顔すると目がよくなると眼病平癒の観世音として信仰を集め、龍眼寺と改名しました。江戸初期には、住職が百種類もの萩を諸国から集めて境内に植えたことから、通称“萩寺”として多くの文人墨客が訪れ、「江戸名所図会」には萩を愛でる人々で賑わう様子が描かれています。

境内に咲く四季折々の花々は、訪れる人の心を和ませ、松尾芭蕉、落合直文など文人墨客の句碑が昔の風情を偲ばせます。」と書かれていました。

亀戸七福神の布袋さんが祀ってあります。

 

本堂です。

夢殿を模し、八聖(正)道にちなんだ八角のお堂、八正道とは、理想の境地に達するために実践する正しい行いや生活態度のことだそうです。。

地蔵堂:子護八起地蔵尊(ねごやおきじぞうそん)が安置してあるそうです。

不動堂:願い事がある方は、護摩木にお書くようになっていました。ひとつ300円でした。庚申塔があるはずでしたが見当たりませんでした。萩の花はまだ少ししか咲いていませんでした。

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ブラタモリ・函館

2015年05月31日 14時12分35秒 | 身辺出来事

のど自慢のTVを見ていたら、続いてブラタモリの番組で函館をやっていました。

青森から列車に乗って海底トンネルを通って函館に行っていました。

2年前にこのコースで函館に行ったので懐かしく感じました。2年前に撮ったものを載せてみました。

こちら青森側の連絡船はTVには出てきませんでしたが、連絡船に続く青森側のレールです。

この船の内部がTVに映っていました。

ここから先に函館駅に続くレールがあったようです。

当時のブログはこちらから見られます。

http://blog.goo.ne.jp/sa194520131207/e/6f301bf7fe4dd6882cc3443a12d43560

歩くのが大変で出歩かないので、こんなものを記録してきます。

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夕焼けとスカイツリー

2015年05月27日 22時35分02秒 | 身辺出来事

腰痛のため今週は会社を休ませてもらっています。整形外科のリハビリに2日続けて通っています。途中スカイツリーの下を通ります。鉢植えの花が堀に飾ってありました。

リハビリの施設はアサヒビールの本社ビルの中にあります。治療終えて表にでたら夕日が当たっていました。自宅から見た夕焼けとスカイツリーです。

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土佐堀川・淀屋橋

2015年05月20日 23時15分04秒 | 訪問地周辺散策

大阪に出張でした。初日は吹田駅前の施設で、いつもは7月下旬にいっているのですが、今回は早めました。施設は駅のすぐ前にあるのですが、真夏はそこまで歩くのが大変と思うくらいでした。今回も気温が上昇し暑かったのですが7月下旬とは比べて楽でした。

初日の点検を終えて、宿泊した場所は肥後橋の所でした。この宿から目の前に大阪フェスティバルタワー、フェスティバルホールが見えます。下は土佐堀川になっています。

2日目は宿を出て肥後橋を渡り、タワーの下を通り淀屋橋に向かいました。下から見たフェスティバルホール

振り返ると宿が見えます。上流が淀屋橋になっています。淀屋橋を渡って少し行ったところに本日の訪問する施設があります。

土佐堀川の堤にバラ園がありました。バラの花は盛りを過ぎてしまっていましたが、まだ少し元気そうなバラを撮りました。淀屋橋のところに日本銀行大阪支店旧館がありました。

じゃらんにこんな説明がありました。「土佐堀川、堂島川、そして大阪のメインストリート・御堂筋に面して建つ近代建築。明治36年(1903)にベルギーの国立銀行をモデルに建設された、緑青の色が美しい円屋根をもつレンガと石造りの3階建て本格的洋風建築だ。設計は東京駅舎や中央公会堂を手掛けた辰野金吾らによる。江戸時代この地には島原藩大阪内屋敷があり、明治初期には関西財界の指導者五代友厚の別邸があったそうだ。昭和の時代、業務空間拡大のため、一時は高層ビルへの全面建替えも計画されたが、3面の外部の壁面と内部の重要な部分を保存し、西側敷地に高層棟を新築した。予約すれば、旧館の内部や新館の営業室などを見学することができる。」中には入らず写真だけ撮ってきました。こちらが正面玄関だったのでしょうか。

淀屋橋の上の花壇の花です。

橋を渡ったところに淀屋橋の由来?淀屋の碑、と淀屋の屋敷跡の碑が立っていました。

『淀屋は江戸時代前期の大坂を代表する最大の豪商であった。淀屋の豪富と闕所のことはあまりにも有名である。
  淀屋の本姓は岡本氏、通称三郎右衛門。城州岡本の出身。辰五郎の称もあった。豊臣氏が天下をとるに及んで大坂に出て十三人町(今の大川町)に卜居し淀屋と称し、材木を商う。元和元年京橋一丁目の淀屋持地に青物市を開き、また米の相場をたてる。中之島を開発し、常安請地を開く。常安橋-常安町の名がいまにのこる。   初代常安の長子(養子)喜入善右衛門、常安町家、斉藤町家の祖となる。次子(実子)常有五郎左衛門は別に大川町家の初代となり、言直から六代までつづく。   心斎橋筋から西肥後橋の間にその宅地あり。その宅地内の小路を淀屋小路という。四十八戸前のいろは蔵有り。町人蔵元の元祖といわれたが、巨大なる米商人と目すべく、淀屋米市のために土佐堀川に自費で橋をかける。淀屋橋であり、こゝで行われた淀屋米市の盛大さは、この碑の絵が表現する通りであった。
  日本学士院会員 宮本又次 記』

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浅草・駒形堂

2015年05月18日 21時30分54秒 | 近郊地散策

出張で八千代台に行った帰り、吾妻橋にある整形外科に直行しました。京成電車から都営地下鉄浅草駅へ、浅草駅は地下の深いところにあり階段で苦労していたので、エレベーターがあればと探してみました。エレベーターはあったのですが出たとことは吾妻橋でなく駒形橋より先のところに出てしまいました。ここからではタクシーでも使いたいところでしたが、近くにある駒形堂に寄って一休みしながら散策しました。

駒形堂 清水稲荷

江戸名所絵図会の塗り絵だそうです。

左手奥に見える青い橋が駒形橋です。

★ランドマーク浅草駒形堂浅草寺のHPによると『浅草寺縁起』によると、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)の兄弟が江戸浦(現隅田川)にて漁撈中、1躰の仏像を感得した。郷司土師中知(はじのなかとも)はこれを拝して、聖観世音菩薩さまのご尊像と知り、自ら出家、屋敷を寺に改めて深く帰依したと伝えられる。 駒形堂は、観音さまが上陸された、浅草寺の草創ゆかりの地に建つお堂で、本尊は馬頭観世音菩薩。別名「こまんどう」とも呼ばれる。毎月19日にお開扉され、参拝できる。午前10時より法楽があり、4月19日は大祭。
  はじめは川に面して東向きに建てられたが、たびたび焼失の憂き目にあった。寛保2年(1742)の再建から、川を背にして西向きに建てられるようになった。現在のお堂は平成15年(2003)11月に建立されたもので、境内は日ごろ、地元町会の方々の手で整備されている。」と書かれていました。

歌川広重の名所江戸百景「駒形堂吾妻橋」の浮世絵です。

 

戒殺碑です。これは付近の魚類の殺生を禁じたもののようです。元禄6年(1693)3月建立、隅田川の南は諏訪町より、北は聖天町までの漁を禁じた。とのことです。奥の白い壁は「浅草むぎとろ」の建物です。駒形橋の近くの碑です。御堂の後ろにスカイツリーが見えます。

駒形橋を渡ってアサヒビール本社の中にある整形外科に歩いて行くことを決めました。

駒形橋から

アサヒビール本社方面を見ました。左手の赤い橋が吾妻橋です。

 

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