ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

新所沢・長青寺

2014年08月27日 23時53分54秒 | 訪問地周辺散策

新所沢にある施設を訪問しました。訪問先とは違う西口に降りて、この道、パイン通りを歩いて長青寺というところに向かいました。いつものことながら道に迷いながらようやく到着しました。特に由緒らしいものは書いてありませんでした。菩薩像が立っています。所沢の由来は野老(トコロ)のいうヤマイモ科の草が繁殖して覆うっていたといわれています。どんな草かわかりませんが、通り面した家にはきれいな花が咲いていました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三ツ境・白姫神社

2014年08月26日 23時05分39秒 | 訪問地周辺散策

相鉄線の三ツ境にある施設を訪問しました。3年ぶり2度目です。三ツ境を(みつさかい)と読んでいたように相鉄線沿線は全く知らない土地でしたが、今の職場の関係施設が結構あり、横浜駅から相鉄線に乗る機会が多くなっています。

出かける前に、施設の近くに白姫神社があることを確認したので寄ってみました。想像していたものよりこじんまりしていました。寄ってみようと思ったのはこの神社が養蚕組合の守り神だったというとが理由の一つでした。実家でも私がいる頃は養蚕をしていました。蚕の白い繭と、生糸の華やかさを白姫と名付けたのではないかなどと想像してみました。横浜も横須賀も三ツ境も神奈川県は坂が多い県で、広島の災害を思いながら坂のある周辺を散策してみました。ピンク花を見つけて近づいてみたらキョウチクトウでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

向島百花園

2014年08月22日 23時53分20秒 | 身辺出来事

向島百花園の集会場(御成座敷)で、友人を祝う会がありました。40年ほど前に、職場の仲間で月見の会をして以来の園内での宴会です。

向島百花園は江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804~1830年)に造られた庭園。庭を造ったのは、それまで骨とう商を営んでいた佐原鞠塢。交遊のあった江 戸の文人墨客の協力を得て、旗本、多賀氏の元屋敷跡である向島の地に、花の咲く草花鑑賞を中心とした「民営の花園」を造り、開園しました。
 
開園当初は、360本のウメが主体で、当時有名だった亀戸の清香庵字臥竜梅の梅屋敷に対して「新梅屋敷」と呼ばれたほどです。その後、ミヤギノハギ、筑 波のススキなど詩経や万葉集などの中国、日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようにしました。「百花園」の名称は、一説で は、「梅は百花に魁けて咲く」または「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたものです百花園は当時の一流文化人達の手で造られた、庶民的で、文人趣味豊かな庭として、小石川後楽園や六義園などの大名庭園とは異なった美しさをもっています。
 
民営としての百花園の歴史は昭和13年まで続き、同年10月に最後の所有者の小倉未亡人から東京市に寄付され、翌14年7月に東京市が有料で制限公開を開始しました。なお、昭和53年10月に文化財保護法により国の名勝及び史跡の指定を受けました。。。花としては端境期のような状況でしたが、結構見られました。萩のトンネルはまだ咲いていませんでした。因幡の白ウサギを連想するので好きなガマの穂です。小さいのでコガマというらしいです。その他の花

モミジアオイもフヨウもムクゲ、ハイビスカスも同じアオイ科フヨウ属らしいです。オクラもアオイ科だそうです。ムクゲとハイビスカス、オクラの写真はお盆に田舎で撮ったものです。もいろいろありました。ススキもようやく穂を出してくれています。長く咲いてくれtれいる百日紅見えない方が良いという方もいましたが、スカイツリーもよく見えます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲子園から尼崎

2014年08月21日 10時23分43秒 | 訪問地周辺散策

関西出張の2日目は尼崎が訪問先です。午前中の時間を利用して、念願の甲子園球場の高校野球観戦に行ってみました。近くに訪問施設があり年間1-2回は甲子園に訪れるのですが中に入ったのは初めてです。ちょうど第10日目の第二試合沖縄尚学と二松学舎大付属のが始まるところでした。二松学舎の3塁側の特別自由席1500円を購入して観戦しました。午後から尼崎で仕事なので、5回終了、二松学舎の5:4で球場を後にしました。

2006年の球場改装でシンボルだったツタが取り外されましたが、再移植して5年少しは見られるようになっていました。

阪神電鉄甲子園駅も改装中です。左手の出口専用階段は使えるようになっていました。素朴さを残していた駅もリニューアルされるようです。阪神電車の特急に乗ると尼崎は一駅です。

尼崎の施設の訪問時間までに少し時間があったので、昼食に駅そばを食べて寺町に行ってみました。甲子園に行くときに、電車から寺が見えたのでそちらの方向に行ってみました。こんな看板が出ていました。興味があったので時間の許す限りと思って散策しました。

最初は全昌寺、狭いお寺さんと思いましたがちょっと寄ってみました。尼崎は阪神淡路大震災の被害も大きかったようです。案内書きをみて、曹洞宗で永平寺や總持寺に関係するお寺さんということで、この1年でいずれの所にも行っているので興味を持ちました。隣は本興寺です。本興寺(ホンコウジ)は、日隆上人の開基による法華宗本門流の寺院で、京都府の本能寺、千葉県の鷲山寺、静岡県の光長寺と並ぶ四大本山の1つです。1420年(応永27)現在の尼崎城本丸跡に開創されたといわれています。1617年(元和3)尼崎藩主戸田氏鉄が尼崎城を築城する際に、現在の寺町に移転されました。

 本興寺には貴重な文化財が多く残されています。なかでも室町・桃山時代の建造物である「開山堂」「三光堂」「方丈」、日蓮上人御所持の「太刀銘恒次(数珠丸恒次)」、日隆上人自ら開眼した御木像「木造日隆上人坐像」、これらは国の重要文化財に指定されています。その他に県・市の指定文化財や美術品など、宝物殿に納められている寺宝は、毎年11月3日(文化の日)に開かれる「虫干会」で一般公開されています。とWEB上で紹介がありました。奥が深く散策してみました。こちらは開山堂です。さらにこれは大方丈です。いずれも重要文化財だそうです。こちらは電車から見えて興味を持った三重塔です。本興寺三重塔こちらはまだ最近に建てられたもののようです。(昭和四十九年 1974年建立、鉄筋コンクリート製、銅板葺、一辺 5.76m)。

ここで時間いっぱいになったので、駅のロッカーに置いてあったバッグをとり、着替えて訪問施設に行きました。

施設は少し駅から離れていて途中にアーケードの商店街が続いています。帰りがけにアーケードに入ってみました。

経験からアーケードの商店街の端には神社仏閣があると思われるので、駅から遠くなりますが散策してみました。ところがどこへ行ってもそのようなものが見当たりせんでした。家でいろいろと調べてみると面白いネット記事に出合いました。

実はこの辺は戦後の闇市の名残なのだそうです。その商店街、「三和〔さんわ〕に行ったらなんでも揃〔そろ〕う」と言われたものだそうです。人々が「三和」と呼ぶのは、「新三和商店街」「三和本通り」「三和市場」あたりのことで、それぞれに異なった生い立ちを持っています。一番の古株は、戦前にできた三和市場(公設市場)で、あとのふたつは、戦後まもなく玄番〔げんば〕北之町付近に生まれた闇市がそのルーツと言えます。
 なかでも新三和商店街は、衣料品や雑貨を扱う店々を中心に親しまれてきました。阪神出屋敷駅に近く、商店街北側には国道電車が通るなど利便性がよく、また周辺には南部の工場で働く人々の住宅があって、昭和20年代から40年代の頃まで、市内はもとより近隣市からも買い物客が押し寄せました。
 新三和商店街が広がる玄番北之町の一角には、闇で鮮魚の卸売りを始めた池田清一〔せいいち〕が建立したという、天龍神社があります。もともとこの地を守っていた白龍(白い巳〔みい〕さん)のお告げによって祀〔まつ〕られたと言われ、以後この商店街の守り神となっています。またかつての魚の闇市の面影をしのばせる石畳も、商店街の通路からは裏通りにあたる、倉庫となっている一角に今も残っています。

と書かれていました。天龍神社は見ませんでしたが、阪神電車のガードをくぐって前に進むと、だんじりの神社にたどり着きました。貴布禰神社です。こちらは北口ということです。中には白龍さんの言い伝えや白波稲荷神社などが合祀されていました。こちらが本殿です。貴布禰神社は全国に約460社(その内、福岡140社、大分94社)あり、総本宮は京都・鞍馬の貴船神社。伝承によると「神武天皇の皇母・玉依姫命は雨風の国潤養土の徳を尊び、その源を求めて、黄船に乗り、瀬戸内から尼崎、淀川、鴨川を遡り、その川上貴船川の上流のこの地に至り、清水の湧き出ずる、霊境吹井を認めて、水神を奉斎す」とある。この尼崎とは旧社地(長洲)と推察される。
京都の貴船神社は表記が違うが、これは明治4年に太政官達を以て変更されたもので、それまでは気生嶺・気生根・木生嶺・木生根・黄船・貴布禰・木船と諸書に見られる。降雨、止雨を司り、降った雨を地中に蓄えて適量湧き出させる働きを司る神様。水は万物の命の源であり、水がなければあらゆる生物は命を維持することができない。片時もおろそかにすることができない大切な水を供給する水源の神様である。ということらしいです。

ここがアーケードの目的と思って帰路に着きましたが、どうもあまり関係なかったようです。駅の近くでは前回も寄った尼崎戎神社です。こちらも一昔前は相当賑わったのではないでしょうか。今も年間50万人が集まるとかいてありますが。こちらは、見ざる言わざる聞かざるです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有岡城跡、本泉寺

2014年08月20日 23時12分49秒 | 訪問地周辺散策

大阪方面への出張でした。伊丹の施設を訪問しました。関西はJRと私鉄が並行して走っています。伊丹も阪急と競合していますが施設は阪急の駅前にあるので、仕事を終えて、JRにはバスで移動しました。JRの駅前に有岡城の跡があります。寄って見ました。伊丹市のHPでは「有岡城跡は,猪名川の西岸,伊丹段丘(だんきゅう)東縁部の一角に位置します。もとは伊丹氏が南北朝時代から戦国時代にかけて伊丹城を築いていたところです。
天正2年(1574年)11月,織田信長の武将荒木村重は,伊丹氏にかわって伊丹城に入城しました。そして城の名を有岡城と改めて,大改造をおこないました。城だけでなく,侍町と町屋地区をも堀と土塁で囲んだ惣構(そうがまえ)の城としての価値を認められ,昭和54年12月に国の史跡に指定されました(昭和63年5月追加指定)。天正6年(1578年)秋,村重は織田信長に反旗をひるがえし,有岡城は包囲攻撃をうけました。10ヵ月の篭城の末,村重は嫡子村次(むらつぐ)のいる尼崎城に逃れ,まもなく主を失った城は侍町を焼き払われて陥落しました。天正8年,信長の家臣池田信輝の嫡子之助(ゆきすけ)が入城しますが,天正11年には美濃へ移り,伊丹は秀吉の直轄領となりました。その後大名は置かれず,いつしか城は放置され,江戸時代には地元の人々から「古城山」と呼ばれるまでになりました。しかし,焼け残った町屋地区を中心に伊丹の町は酒造りで発展し,15ヵ村一続きの“伊丹郷町”として繁栄しました。明治に入ると,川辺馬車鉄道や阪鶴(はんかく)鉄道(いずれも現在のJR宝塚線の前身)の建設工事により主郭部の東半分が失われました。

」と書かれています。狭い城址ですが井戸跡とか建物跡などが残っていました。

近くにお寺さんがあるというのでこちらも寄ってみました。本泉寺です。

本泉寺概要: 本泉寺の創建は永禄3年(1560)、日栖上人によって開かれたのが始まりとされます。当時は身延山久遠寺(山梨県身延町)の中本山で末寺4ヶ寺を擁する大寺だったと伝えられています。現在の本堂は元禄9年(1696)に再建されたもので2重入母屋、本瓦葺、平入、桁行19m、梁間12.5m、棟梁は昆陽村跡部太衛門尉宗令、現存する寺院建築の中では伊丹市最大の規模を誇ります。。。境内には楠公一族の墓域があり前三国守楠公、従四位上小楠公、楠正貞のものとされる墓が建立されています

江戸時代に入り、当寺第六世本樹院日秀聖人の代より堂宇の新改築が始められ元禄9年(1696)に本堂、祖師堂、妙見堂、番神堂、書院、客殿、庫裏、山門、鐘楼、庵、対面所等の七堂伽藍が完成しました。戦火や阪神淡路大震災を免れた本堂は、約300年の創建当時の姿を保っています。

とあるブログに書かれていますが、実際に木のつやなど、年期を感じさせるものでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする