ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

弥生慰霊堂

2018年10月12日 23時40分50秒 | 社寺仏閣

鍼灸治療に曙橋まで通っていますが、ちょっと予約時間より早く出かけたので、乗換駅の九段下で降りて、武道館方面へ行ってみました。北の丸公園入り口です。

入り口の左手のお堀は牛ヶ淵です。

★ランドマーク牛ヶ淵:牛ヶ淵、は東京都 千代田区にある北の丸公園東側の清水門外にあるお堀である。 『江戸名勝志』(江府名勝志の異本である)に、「九段坂脇の御堀をいふ、昔此処へ銭を積みたる牛落ちて、その落ちてその死せよりの名といふ」とあり、九段坂が急勾配であるため、牛車が落ちそうであることから、この名前がついたとされる。

1590年江戸の人口は急激に増加し、当時困ったのは飲料水不足だった。その結果、小河川をダムでせき止め、千鳥ヶ淵と牛ヶ淵の2つの飲料水専用のダムを作った。また、牛ヶ淵の水は日本橋川右岸の河岸段丘と、武蔵野台地の東麗部の湧水線との間の地に留められたものである。

 北斎は壮年期に洋風風景画に挑戦していた際、牛ヶ淵をモデルに(くだんうしがふち)を手掛けた。 (ウイキペディアより)

右手は桜で有名な千鳥ヶ淵です。

北の丸公園の中に入ると

田安門です。門をくぐると左手に狛犬が見えました。初めて気が付いたので、近づいてみました。

弥生慰霊堂とありました。石段を登ってみました。石燈籠、奥に大きなイチョウの木がありました。

★ランドマーク弥生慰霊堂:弥生慰霊堂(やよい いれいどう)は東京都千代田区の北の丸公園にある慰霊施設。かつては弥生神社・弥生廟と言った。警視庁及び東京消防庁の殉職者を祀る。

社殿は神社建築に近いもので拝殿と本殿からなり、本殿は神明造の屋根であるが千木・堅魚木がない。現在でも鞭懸(神明造の破風にある8本の棒)が残っている。拝殿は吹き抜けで土間となっている。参道入口には狛犬のようなものがあり、また本殿正面の脇には燈籠があるなど、全体的に神社だった頃の面影を漂わせている。境内には「御野立所記念碑」がある。下町方面を眺めたというところは牛ヶ淵の上からのように思われます。

ぐるり廻ってみました。

靖国神社の鳥居が見えます。田安門に武道館が見えます。琴柱灯籠に帰りの参道田安門を出たところから弥生慰霊堂を見ています。

帰りの九段下駅までの道端に南天に

萩の花がありました。花に蝶がしっかりと掴まっていました。

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蘇我・今井神社(千葉市中央区今井)

2018年09月10日 08時55分04秒 | 社寺仏閣

蘇我に出かける用事があり、待ち合わせ時間に周辺を散策したところ、今井神社に出合いました。

出勤前の方のようですがお参りに来ていました。手水舎奥に社殿が見えます。

★ランドマーク蘇我・今井神社:

:今井神社御祭神は天照皇大神、誉田別命、菅原道真命、創建年代は不詳ですが、明治32年に八幡社、天神社を合祀、明治41年今井神社と改称したといいます。境内社

境内社の脇に

こちらは稲荷神社狛犬です。

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正源寺(君津市久留里市場)

2018年09月08日 23時17分42秒 | 社寺仏閣

君津市の久留里駅前にある施設で、うたごえがあるというので友人の車で行き参加してきました。なかなか素晴らしい歌声で感激しました。

帰りがけに、周辺を散策しました。施設の前には名水を汲む小屋がありました。

★ランドマーク平成の名水百選「久留里の生きた水」:明治中期、上総地方で開発された「上総掘り用具」により、各地に自噴井戸が掘られ、人々の生活に無くてはならないものとして大切にされてきました。
 久留里の井戸の水は、清澄・三石山系の山林に降った雨が天然の地層を通る事でろ過され、さらに地下水脈を通って湧き出てくるものです。それぞれの井戸からは、春夏秋冬、24時間、豊富な水がこんこんとわき出ており、地元の観光協会を中心に水質検査が行われ、安心安全な水として保全されています。

これらの井戸から湧き出る水は、水質の良さ、水に含まれている有用な成分、そして美味しいことから「久留里の生きた水」と呼ばれ、、県内各地から多くの人が水を汲みに訪れています。君津市の次世代に伝えたい20世紀遺産に指定されるとともに、平成20年6月には千葉県下で唯一「平成の名水百選」に選ばれています。 

上総掘り用具

施設の前の道路から木フヨウの花が見えたので坂を下ってみました。

さらに坂を下ると正源寺というお寺さんがありました。

山門だけが孤立して残されています。道路側から見ています。

お寺さんの境内から撮っています。右手に新しい観音像が建っていました。

★ランドマーク正源寺:鎌倉時代の徳治2年(西暦1307年)時宗の高僧 他阿真教上人により、上総の念仏根本道場として創建されました。その道場は、厳しい生活を強いられた民衆にとってはこの世の極楽浄土さながらに、明るく楽しい踊り念仏であふれていたと伝えられます。
 それまで、安万支(アマキ)の里と言われていた当地は、生き仏様が久しく留まられた里ということで、久留里(クルリ)と呼ばれるようになったということだそうです。

 その後二百年ほどたった天文15年(西暦1546年)、久留里城を本城として房総半島に一大勢力を築いた戦国大名 里見義堯公にとりたてられて義堯公母君の菩提寺となりました。
 その時当寺は、義堯公より260石の寄進を請け、母君の菩提の為にと阿弥陀如来を本尊として迎え、宗派を浄土宗に改めて、それまで特別の名称を持たなかった念仏道場を「福徳山 東陽院 正源寺」と号する、塔頭4軒末寺8寺を有し、朝な夕なの念仏の声は町はずれまで響き渡ると言われた大寺院へと変貌していったそうです。

栄枯盛衰は世の習い。徳川政権が終わりを告げ、新政権の下での明治時代になると、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、それとともに葵の御紋の権勢と後ろ盾を失った当寺は、塔頭末寺すべてが焼失あるいは荒れ果てて廃寺となっていきました。
 本坊 東陽院も昔日の大伽藍は焼失し、今に残る当時の面影は、山門の一部と樹齢700年の大イチョウのみとなったとのことです。(正源寺HPより)

700年の大銀杏

本堂です。

加勢観世音菩薩の御堂です。

★観音堂:正源寺境内にあるこのお堂には、「加勢観世音菩薩」と呼ばれる観音様がご本尊として安置されたおります。
 当山秘仏とされ、一年に一日だけ8月10日にご開帳されるほかは、厨子の扉を閉め、一般には拝観することは出来ません。
 この観音像は、久留里城を本城として房総半島に勢力を振るった、小説「里見八犬伝」のお話で名高い、戦国大名 里見氏の戦勝祈願佛として、平時は久留里城の奥深くに、戦時は陣中に安置して日夜ご信仰なされていた、身の丈2尺(60cm)ほどの聖観世音菩薩です。 聖観世音菩薩(正源寺HPより)

 

こちらは慈母観音菩薩像です。

鐘楼で古びた感じがなかなか良かったです。

手水舎

六地蔵は沙汰らしくなっていました。

古い石碑も結構建っています。

無縁仏の碑

境内に咲いていました。

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道祖神社、船橋御殿跡、厳島神社、御蔵稲荷神社(船橋市本町4丁目)

2018年08月09日 23時45分46秒 | 社寺仏閣

8月5日のものに、8月9日に太宰治の夾竹桃を加えました。

船橋にあるうたごえのお店ゴリに行くので、途中で近くを散策しました。以前から行きたかった道祖神社に向かいました。ゴリのお店にはいつもフェイスビルを通って行くのですが、久しぶりに駅前の通り行き、斜めの小道に入りました。少し歩くと見えてきました。

階段に手すりが無いので苦労しますが登って行きました。

拝殿です。

手水舎は家庭の流しのように使われていました。三峰神社の鳥居のところで境内を清掃している方々の宴会だったようです。

三峰神社の拝殿

★ランドマーク道祖神社(船橋):道祖神社道祖神は道六神(どうろくじん)とも呼ばれ、元々は村境や辻に祭られ、町や村に悪霊や悪疫が入るのを防ぐ神だった。道祖神は非常に古くから信仰された神様なので、様々な祈願に応える機能を持つようになった。元々の厄除け的なものから、足・耳の病を治すはたらき、さらには子授けや夫婦和合の願いを叶える神様としても信仰されるようになった。境内には仏教の中の“愛の仏”である愛染明王の石仏も移されている。

脇に石仏がありました。文化8年(1811年)と記銘されています。これが愛染明王でしょうか。

その脇に小さなお地蔵さんがありました。

ここを後にさらに小道を進みます。予定をしていませんでしたが、船橋御殿跡と東照宮という案内がありました。

奥まったところの突き当りにあるようです。鳥居の先に史跡の案内がありました。

★ランドマーク船橋御殿跡・東照宮:船橋御殿と東照宮慶長19年(1614年)、この一帯に船橋御殿(将軍家の宿泊休憩所)が建てられ、元和元年(1615年)徳川家康・秀忠父子が東金に鷹狩りに往復する途中に宿泊したところ。以後、東金での鷹狩りは行われず、船橋御殿もなくなったと想定される。その後、船橋大神宮神職に下げ渡され、御殿中心部に家康を祀る東照宮を建てた。現在の建物は安政4年(1857年)に再建され、昭和2年に修繕されたものである。安政4年(1857年)に再建された社殿でしょうか。

隣に御殿稲荷がありました。東照宮の鳥居の前に三猿です。

近くに御堂が見えました。裏口から入ったので表に回ってみました。厳島神社でした。

★ランドマーク厳島神社船橋:厳島神社厳島(いつくしま)神社というと、瀬戸内海に浮かぶ安芸の宮島が有名である。当社もその厳島神社を勧請したもので、田心姫命(たごころひめのみこと)・市杵島(いちきしま)姫命・多気津(たぎつ)姫命を祭っている。元来この三女神は海の神だったが、市杵島姫命は「市」の守り神ともなり、また、弁才天と結びついて水神、学問・技芸の神様としても信仰された。地元では“弁天様”と呼ばれ親しまれた 。

いったん表の通りに出たので戻ろうと思いましたが、ちょっと先に赤い鳥居が見えました。

★ランドマーク御蔵稲荷:御嶽稲荷当時飢餓に備えて穀物を蓄えておく郷蔵(ごうぐら)を建てた。そのお陰で以後、当地では飢餓を免れた。村人はその恩に報いるために、神社を祀るようになったと言われ、これを御蔵稲荷と呼ぶようになった。

★御蔵稲荷の由来と謝恩の碑:この稲荷神社は御蔵稲荷と呼ばれ、祭神は宇賀魂神である。この神は元来作物、食物の神であり、土地の守護神でもある。神社周辺は歴史的由緒が深く、様々な史話を伝える。江戸初期の慶長末年、現在地周辺に初代徳川家康が船橋御殿を建て、二代秀忠、三代家光が度々宿泊休憩をした。四代家綱により廃され、跡地は富氏に与えられた。三代家光の正保年間に、その一角に九日市村の飢饉に備え穀物を蓄えておく御蔵が建られ、当時、郷御蔵と呼んだ。御蔵のお陰で当地では延宝、享保、天明の飢饉にも餓死した者はいなかった。寛政三年御蔵は出水の為流失、御蔵への感謝をこめ地元民が浄財を募り稲荷祠の社殿を大きく建直し、四季折々の祭を行って来た。慶応四年船橋宿一帯は戊辰戦争の兵火のため大半が焼失させられた。その復旧工事中の翌明治二年土取り中御蔵稲荷東北、郷御蔵跡地あたりから、渡来銭の詰まった大瓶三口が出土した。瓶は高さ四尺(一、二メートル)中国銭貨の洪武通宝、永楽通宝等弐百五十貫余(約九四〇キロ)も入っていた。地元では馬六頭で葛飾県庁に届けたが、一部恩恵に浴した者もあったという。その後明治二十一年に、経緯を刻んだ「銭瓶遺跡之碑」を建立したが、昭和中期頃失われた。
昭和初期文人太宰治氏は鄙びた御蔵稲荷を好み、その作品にも書き残し、いくつかの口絵写真でも、御蔵稲地を背景に使っている。昭和三十年代に急激な都市化により、船橋地名の起りであり、山、里、町、浜の文物交流の動線であった海老川が毎年の様に溢れ、氾濫がくりかえされた。昭和三十六年浸水家屋敷二三八戸であったものが昭和六十一年には二、四二六戸と増大、当町会の三分の二が泥水に浸り、物心両面での困苦は筆舌に盡しがたいものがあった。その都度町会集会所を兼ねていた御蔵稲荷社殿が、避難所、食事の炊き出し所として、被害町会民のために役立った。

市民文化ホールの前には太宰治が植えたとされる夾竹桃があります。

★ランドマーク太宰治が植えた夾竹桃:この夾竹桃は、太宰治(明治四十二年~昭和二十三年)が、昭和十年夏から昭和十一年秋にかけて、千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿一九二八番(船橋市宮本町一丁目十二番九号)に借家住まいをしてた時に、その敷地内に植えられたものですが、昭和五十七年十二月、その敷地が整備されることになり、改めてこの地に移植された。

太宰治は当時、「めくら草紙」の中でこの夾竹桃を植えた時の様子を書いておりますが、戦後の作品「十五年間」では、次のようにこの夾竹桃に対する自分の愛着ぶりを書き遺しました。

私には千葉県船橋町の家が最も愛着が深かった。私はそこで、「ダス・ゲマイネ」というのや、また「虚構の春」などという作品を書いた。どうしてもその家から引上げなければならなくなった日に、私は、たのむ!もう一晩この家に寝かせて下さい、玄関の夾竹桃も僕が植えたのだ、庭の青桐も僕が植えたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れていない。 

こんな文書を見つけました。太宰治 愛着深き船橋時代 №8 太宰が愛した夾竹桃よりhttps://tushima.exblog.jp/21901804/

太宰は、船橋に転居してきた年の8月に近所から夾竹桃を貰ったようだ。『めくら草紙』の中に書かれていた。
 夾竹桃を欲しがった理由に『隣りの庭の、三本の夾竹桃にふらふら心をひかれた。』と書き、さらに、『つやつやした小造りの顔の、四十歳くらいの婦人がでて来て挨拶した。少しふとって、愛想のより口元をしていて、私にも、感じがよかった。三本のうち、まんなかの夾竹桃をゆずっていただくことにして、私は、お隣りの縁側に腰をかけ、話をした。たしかに次のようなことを言ったと覚えている。
「くには、青森です。夾竹桃などめずらしいのです。私には、ま夏の花がいいようです。ねむ。百日紅。葵。日まわり。夾竹桃。蓮。それから、鬼百合。夏菊。どくだみ。みんな好きです。ただ、木槿だけは、きらいです。』と書いている。

船橋には太宰治の痕跡がたくさんあるようですので、またあらためて散策します。

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八百稲荷神社・津之守神社・護国神社(四街道市)

2018年07月16日 22時03分39秒 | 社寺仏閣

四街道へ行く機会があったので駅周辺の神社を散策しました。最初に着いたのは八百稲荷神社です。幟には志津原八百稲荷神社と書いていあります。

新しくなった水盤

社殿狐も新しくなっています

社務所です。地域の集会所を兼ねています。古い水盤のようです。

。末社のようです。鳥居です。次へ向かいます。遠景で桜の木とわかりました。社殿の裏には御利益が書かれています。

ここから次の神社に向かいました。通りの両側に神社が見えてきました。手前に津之守神社がありました。工事中でしたが作業していないので入ってみました。

脇には絵馬が飾られています。こちらは明治2年に作られたお賽銭箱です。

拝殿工事の前の社殿です。今は工事中で鳥居も取り外されていました。

よそ者には古くて趣があってよいと思いますが管理などが大変なようで新しい社殿になるようです。

道路を挟んで四街道町護国神社がありました。鳥居です。水盤でしょうか。二の鳥居狛犬です。

祠です。

忠魂碑

★忠魂碑:戦死者の慰霊碑。日露戦争前には記念碑,招魂碑と呼ばれるものが建てられたが,忠魂碑として日本全国に普及していくのは日露戦争以後のことで,大正・今上天皇の即位記念事業として,市町村の在郷軍人分会が献金を募集し,小学校の一角に建立したものが多い。碑文題号の揮毫(きごう)者は帝国在郷軍人会会長の一戸兵衛や鈴木荘六の例が多く,除幕式は慰霊祭を兼ねて3月10日の陸軍記念日に挙行された。日中戦争がはじまると,1939年7月に大日本忠霊顕彰会が発足し,その指導によって戦死者の遺骨を納めた忠霊塔を各市町村に1基ずつ建設するようになった。 (世界大百科事典より)

田舎の小学校にも建っていましたが、戦争遂行の道具のようで昔からなんとなく嫌悪感がありました。

四街道の地名を調べてみました。ちょうど津之守神社と護国神社の間を通っている街道が佐倉街道でこれがこの先で御成街道と交わる交差点道標石塔が建っているようです。★ラドマーク四街道地名発祥の地:JR四街道駅から南西へ500メートルほどいった四街道十字路の傍らに駒方方形の道標石塔が立っています。ここが「四街道の地名発祥の地」で、文字通り4方向への道が伸びています。

石塔の各面には、それぞれの指す方向に向かって、4つの街道の名が書き記されています。

長沼方向が船橋道方面、都賀方向が千葉町道方面、四街道駅方向が東金道・馬渡道方面

大日五差路方向が成田山道方面

石塔は明治14年(1881年)2月に建てられました。まだ鉄道も開通以前で辺りは見渡す限りの原野でした。江戸時代には一里塚が作られ、そばに植えられたエノキの古木が今も立っています。

(文中のエノキですが、強風により倒木の危険が生じたため、老木でもあり保存が困難であることから平成25年5月6日に伐採されました。)(四街道市の歴史より)

四街道交差点です。

 

 

 

 

 

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