ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

三崎稲荷神社(千代田区三崎町)江戸名所図会めぐり

2018年06月27日 17時23分15秒 | 江戸名所図会めぐり

駿河台側の御茶ノ水にある病院から神田上水懸樋跡を散策する途中で三崎稲荷神社に寄ってみました。

病院の前の通りを皀角坂〔さいかちざか〕を下ってこの表示のある水道橋駅の東口のところに着きました。

白山通りを渡るには歩道橋を昇らないと渡れませんでした。歩道橋の上から医科歯科大学病院に隣接して三崎稲荷神社が見えました。

昔の古地図によると神田川の河岸に隣接してあったようですが、今は中央線と駅前の通りを隔てたところにありました。表に回って撮りました。

江戸名所図会に描かれています。

★ランドマーク三崎稲荷神社:創建は建久(12世紀末)以前とされています。氏神社の社号は三崎稲荷神社ですが、金刀比羅神社を合祀しているため、三崎神社と通称されています。創建当初は和田倉付近にあり、その後三崎村に移転、万延元年(1860)講武所の設置に伴って水道橋に移転し、甲武鉄道(現JR中央線)が万世橋まで延長されたのに伴い明治38年(1905)現在の地に移りました。

 江戸時代、参勤交代で諸大名が登城する中、当社で祓い清めることを恒例としたことから「清めの稲荷」と称されていたとされる。また、道中の安全を期したことから、「旅行安全」の神として崇敬を集めたとされる。

社殿、6月30日の夏越大祓いのために茅の輪が飾ってありました。この言葉を唱えながら三回廻るそうです。

こちらは一茶の句です。

狛犬

手水舎ですがこの先に江戸名所図会の水盤がありました。わたし彩(いろ)の「江戸名所図会」~大人の塗り絵より、水盤は図会の鳥居の右側にあったもののようです。

★江戸名所図会について:江戸時代の代表的な地誌『江戸名所図会』は、江戸を中心として名所旧跡や神社仏閣を紹介したもので、1000を超える項目が649の挿図とともに紹介されています。寛政年間(1789~1801)に編集が始まり、約40年かけて完成。天保5年(1834)・7年(1836)の2回に分けて刊行されました。実地調査によって書かれた記事と長谷川雪旦の精緻な画は、江戸後期の江戸の様子を知ることのできる貴重な史料となっています。

   レジャーの少なかった江戸時代、寺社への参詣は庶民にとっての行楽で、門前には茶屋・土産物屋が並び、有名寺社の門前町には遊女屋・芝居小屋もありました。四季折々の花見・紅葉狩り・雪見や、祭礼で大いに賑わったと伝えられています。

拝殿

社務所です。

鳥居

これも一茶の句だそうです。形代(かたしろ)は夏祓いに用いる紙製の人形。これで身体を撫で、罪やけがれをこれに移して、身代りに川へ流した。ということのようでで、身代わりの人形が流れていくのをみて子どもがバイバイしている様子をうたったもののようです。

同じような意味で昔はいろいろなものを川に流しました。古くなったひな人形、七夕の笹飾りなどなどです。

最近は遠出の機会がなくなったので、江戸時代の観光地を感じながら江戸名所図会めぐりをしています。

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御茶の水 水道橋 神田上水懸樋跡 江戸名所図会めぐり

2018年06月26日 23時13分20秒 | 江戸名所図会めぐり

御茶ノ水の駅側にある脊柱管狭窄症を手術した病院に3か月に1回検診に行きます。痛み止めの薬など3か月分をリックいっぱいにもらってきます。帰りがけに水道橋駅まで歩いて行き周辺を散策しました。病院から水道橋に向かった下り坂の線路側に案内板があったので、道路を渡って見に行きました。

思わぬものが立っていました。神田上水懸樋跡の案内でした。神田川の反対側にあると思っていましたが、ここにもありました。

★ランドマーク神田上水掛樋跡: 神田上水は、井の頭・善福寺・妙正寺池を水源として小石川の大洗堰で分水、水戸藩邸内を経てこの位置で神田川を掛樋で渡り、江戸北東部の市街地に給水しました。人口の密集する江戸の下町は、埋立地が多く、井戸を掘っても良質な水を得られませんでした。徳川家康は、江戸入府に先立ち家臣の大久保藤五郎に命じて水道の開発にあたらせ、これが神田上水のもとになったようです。

 江戸時代この辺りには、江戸の上水の一つである神田上水が通り、また神田川を越えるための懸樋が設けられていました。

  神田上水は、江戸で最も早く整備された上水といわれます。徳川家康は、江戸への入府に先立って家臣の大久保藤五郎に上水の開鑿を命じ、大久保藤五郎は慶長年間(1596~1615)に神田上水の整備に着手します。井の頭池・善福寺池・妙正寺池からの水を集めて現在の文京区関口あたりで堰を設けて上水を分水し、余水は神田川として流しました。

  上水は、小日向台から小石川後楽園を通り、神田川に達します。神田川を越えるため、水道橋の少し下流から、この辺りへ懸樋で渡したといいます。

  上水は、この先は埋樋で供給されました。供給範囲は、南は京橋川、東は永代橋より大川(隅田川)以西、北は神田川、西は大手町から一橋外までといわれます。この一帯は埋め立てられた場所が多く、井戸を掘っても良い水が得られなかったようです。懸樋は、万治年間(1658~1661)に架け替えられたため、俗に万年樋と呼ばれました。

昭和51年3月設置 千代田区教育委員会

案内板と神田川の間には中央線の線路があります。森のように見えるところが対岸になります。

御茶ノ水方面

水道橋方面です。

この坂を下って神田川に向かいます。

今の水道橋から神田川の上流を見ています。

下流御茶ノ水方面です。

水道橋の所に由来の碑があります。

描かれているのは江戸名所図会の御茶の水 水道橋 神田上水懸樋です。

御茶ノ水方面(下流)にむかい坂を昇ります。振り返って今の水道橋を見ています。

坂の途中に神田上水の碑があります。

★ランドマーク神田上水:神田上水は、井の頭池の湧水を水源とする江戸時代初期につくられた日本最古の都市水道です。

  文京区関口に堰を設けて上水を取り入れ、小日向台下の裾をとおり小石川後楽園の中をぬけ、水道橋の東側で神田川を掛樋(かけひ)でわたし神田・日本橋方面に給水されていました。 文京区土木部公園緑地課

ちょうどこのあたりが神田川と神田上水が交差する場所だったようです。さらに下流には

御茶ノ水の分水路の碑、これは「神田川分水路事業」の一環で建設されたものです。

その上(下流)のところに神田上水懸樋(掛樋)跡の碑がありました。対岸に中央総武線の電車が見えます。

 ★『神田上水懸樋(掛樋)跡』 文京区長 遠藤正則 書(所在地 文京区本郷) 

 江戸時代、神田川に木製の樋を架け神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していました。明治34年(1901)まで、江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として、大きな役割を果たしました。

  この樋は、懸樋(掛樋)と呼ばれ、この辺りに架けられていました。

  この絵は、江戸時代に描かれたもので、この辺りののどかな風情が感じられます。平成8年(1996)3月 東京都文京区

 江戸名所図会の塗り絵「わたし彩(いろ)大人の塗り絵」より神田川の先に富士山が見えています。

今はビルに囲まれていて遠くは見えません。

浮世絵ではたくさん取り上げられています。

歌川 広重 2代  東都三十六景  お茶の水 です。

広重 富士三十六景 東都御茶の水 富士が中心です。

広重 富士三十六景 東都御茶の水 です。

広重 名所江戸百景 水道橋駿河台

この絵の下の橋が今の水道橋の所のようです。こんなのもありました。

江戸図屏風・右隻第6扇中上(神田、神田川、水道橋、吉祥寺、高林寺御茶水)

 

水道橋と思われるところに懸樋が見えます。

矢印のある上の図はhttp://hiroshige100.blog91.fc2.com/blog-entry-71.htmlさんからのものです。

こちらの切絵図では水道橋と懸樋(上水樋)が別に描かれています。

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新宿御苑・6月下旬の花々

2018年06月22日 15時13分41秒 | 季節の花

鍼灸治療で曙橋治療院に行ってきました。久しぶりに新宿御苑に寄ってみました。ちょっと花枯れの季節ですが赤い花が競っていました。

★ランドマーク新宿御苑:新宿御苑の敷地は、天正18年(1590)に豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が江戸城に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けた江戸屋敷の一部です。

 東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶ広大な土地で、のちの甲州街道や青梅街道になる江戸から西にのびる街道と、鎌倉街道が交差する要所であったことから、この一帯の警護など軍事的な目的で家康が信頼できる家臣に与えたとされています。

 内藤氏7代清枚は元禄4年(1691)に三万三千石の信州高遠城主となりました。内藤家の屋敷地はその石高に比べてあまりにも過分であったため、その後かなりの部分を幕府に返上しましたが、明治5年にはまだ十万坪以上が残されていました。  新宿御苑は、この内藤家の九万五千坪余と、当時すでに私有地化していたものの、もとは内藤家の屋敷地であった隣接地を合わせた十七万八千坪(58.3ha)の土地に誕生することとなりました。.

 また、現在大木戸門を入った突き当たりにある玉藻池を中心とする日本庭園は、安永元年(1772)に玉川上水の余水を利用して完成した内藤家の庭園『玉川園』の一部です。

 このようなことから、新宿御苑のルーツは内藤家の江戸屋敷と言えます。

 

サンゴシトウ:サンゴシトウはアメリカデイゴを片親とする交配種で、シドニー植物園で作出されました。挿し木で増やせることから世界中に広がり、日本でもアメリカデイゴ同様、街路樹や公園樹としてよく植栽されています。すっと伸びた枝に、ラッパのような形の花がたくさん咲いているのが特徴です。色も形も情熱的な印象です。

★アメリカデイゴ:アメリカデイゴは南アメリカ原産で、日本には明治時代の中ごろに導入されました。海外から来た赤いマメの意で「海紅豆(カイコウズ)」の和名がありますが、アメリカデイゴの名が広く知られています。花が美しいことから、街路樹や公園樹としてよく植栽され、鹿児島県では県木にもなっています。花は水道のカランの下に受け皿があるように見えて、とてもユニークです。

 
 
ユリズイセン(中の池)
 
 ムクゲ(千駄ヶ谷休憩所横)
 
★タイサンボク(Magnolia grandiflora)は北アメリカ原産のモクレン科の常緑高木で、明治時代に日本に渡来しました。直径が15~25cmもある国内最大級の純白の花を咲かせます。タイサンボクという名前は、漢字で「泰山木」と書きますが、これは大きな花や葉、樹形の美しさを、世界遺産に指定された中国・山東省にある名山「泰山(タイシャン)」にたとえたことに由来します。
 
 
 
ヤエクチナシ(桜園地など)
 
バラ園ちょっと盛りを過ぎたのと雨もようであまり元気がありませんでした。
 
 
これはヤブミョウガでしょうか。
緑が深くなっています。
 
この謎の卵の正体は、ヒマラヤスギの松ぼっくり。ひとつが大人の手のひらくらいの大きさで、秋に花が咲いたあと実ができます。いまは宝石の翡翠を思わせる緑色ですが、これから2年をかけて茶色く熟します。
資料は新宿御苑のHPから
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妙勝寺(江戸川区江戸川)江戸名所図会めぐり

2018年06月20日 14時22分35秒 | 江戸名所図会めぐり

天気が良かったので念願だった江戸川区の妙勝寺に行ってきました。住まいから少し離れているので、リハビリサイクリングにしては遠いのでなかなかいけませんでした。ひたすら新大橋通り進んで環状7号線まで行きました。

環七からちょっと入ったところにお寺さんがありました。こちらは裏口でした。

表に回って

古川親水公園の所から撮りました。

★ランドマーク古川親水公園:昔、船堀川、橫川などと呼んでいた河川がありました。この川は、もとは利根川とよばれた江戸川の旧河道でした。

天正18年(1590)8月、江戸に入府した徳川家康は、小名木川の開削とあわせて旧河川を連結するなどの改修をして江戸川と結ぶ水路(船堀川)をひらきました。行徳の塩を江戸に運搬するためで、この運河は行徳川とも呼ばれました。その後、江戸の繁栄とともにこの水路を利用する舟運が盛んになりましたが、屈曲が多くて、その頃よく使われていた高瀬舟の航行には支障をきたしていました。寛永6年(1629)この支障をなくすために、今の三角(新川橋)のところから東へ、江戸川まで一直線に新しく水路を開削しました。

行徳や上総方面からの舟荷はもっぱらこの新しい川から、小名木川を経て江戸へ入ることになり、その頃から「新川」とよび、元の川は「古川」とよび、元の川は「古川」とよばれるようになりました。 

長い間、田園地帯の水源・水路として活用されてきた古川の流れにも、昭和30年代(1955)後半になると、都市化の波が押し寄せました。周辺に住宅や工場が増え、家庭の雑排水などが流れ込み、やがて悪臭を放つドブ川同然となってしまいました。

昭和48年、都会の中では回復不可能と思われていた“清流”がよみがえり、昭和495月には「全建賞」を受賞。また、昭和575月にはナイロビで開催された「国連人間環境会議」で紹介されるなど、国内はもとより世界各国で大きな反響をよんだ画期的な国内の親水公園第1号です。(江戸川区郷土資料室・区役所HPより)

江戸名所図会より二之江妙勝寺

図会でも寺の前に古川が描かれています。

キャプション:ニ之江より今井・舟堀・桑川のあたりに産する海苔を、世に葛西海苔と称す。本草にいはゆる紫菜の類にして、 浅草に異なり。

山門です。脇に由緒書きがありました。

★ランドマーク妙勝寺:日蓮宗で本覚山成就院と号し、中山法華経寺の中本寺として14か寺の末寺を抱えていました。土地の人から「じょうじん」(成就院)とか「黒門寺」と呼ばれ親しまれています。

 寺伝によると、弘安7年(1284)堀江の浦(葛西沖)に漂着した難破船に残っていた少年を、二之江村の漁師が救い上げました。少年は平家の末裔で、中山法華経寺の二世日高上人の弟子となり、のちに成就院日尚と号して古川べりの妙見社のかたわらに小堂を建てました。これが本寺の始まりで、徳治2年(1307)3月のことといわれます。

■紙本墨書大曼荼羅(区登録有形文化財)

 天保14年(1843)三十二世日信の代に、小島(現・西葛西)に住む控井権右衛門が寺に寄進したと記録されています。日信はその鑑定を法華経寺百一世日道(~1850)に依頼し、2幅とも日高、日祐上人の真筆であると認めた証文が残っています。

 平成3年3月 江戸川区教育委員会

山門を入ると右手に釈迦堂です。お釈迦さまと四菩薩が安置されているそうです。

仏陀の言葉 慈しみの碑がありました。

その先に鐘楼があります。

鐘楼堂は12月31日の除夜の鐘の祭には大勢の方で賑わうそうです。

鐘楼の奥に見えるのが開山堂です。開山した成就院日尚聖人を祀った御堂だそうです。

★妙勝寺縁起:弘安7年4月(1284)下総国堀江の浦に漂着した難船にのこされていた童子を、当村二之江村漁師の五郎が救い上げて育てたところ、童子は後に中山法華経寺2世、日高上人の弟子となり、成就院日尚と号して当村古川べりの妙見社のそばに草庵をいとなみ、一寺を建立した。即ち開山の日尚上人で時は徳治2年(1307)春3月のことであった。中山法華経寺の末寺・葛西の融水頭であり、中本寺として14ヶ寺の末寺をかかえていたという記録がある。安置する宗祖大士像は中山法華経寺3世日佑上人がある夜、宗祖聖人が微妙な音声で読経している夢を見て、自ら夢中感得のお姿を彫って開眼供養をして日尚上人に与えられたものである。安政地震で倒壊したが、かつては水神宮があり、現在開山堂に祀られているが、この本尊は日尚上人が難船で漂流している時、深く水神に祈誓して波浪の難をのがれたので報恩の為、彫刻して日高上人に点眼を乞い、以後は一乗の法味をささげたものとされている。地元の有力な檀信徒の外護も代々続き、大木に囲まれた中にある。大伽藍、客殿は威風堂々として風格を備え、民間に開山上人の院号、成就院がなまった”ジョウヂン”の呼名で親しまれている有数の名寺である。

 境内を散策してみました。本堂

水子観音像:水子となった尊い生命を供養する観音様です。

手水舎に水屋です。

駐車場からの入り口のところに浄行菩薩像です。

霊廟です。昭和27年に日蓮宗開宗七百年を記念して建立された合奏式墓地として永代供養をしているそうです。

アジサイはちょっと盛りを過ぎていますがあちこちに咲いていました。白ユリもありました。

駐車場の出入り口にはノウゼンカズラが咲いていました。

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二之江神社・蓮華寺・西光寺(江戸川区江戸川)

2018年06月19日 23時57分53秒 | 社寺仏閣

妙勝寺の前にある二之江神社を散策しました。妙勝寺と古川親水公園の対岸、二之江小学校の隣にありました。

★ランドマーク二之江神社:旧二之江村の鎮守で香取神社と称し、明治6年、村社となりました。創立年月は定かではありませんが、経津主命を祀り、現在地にありました。

 八幡神社は寛文年間(1661-1673)の創建で、誉田別神を祀りました。もとは地元妙勝寺の境内社であって、三十番神ともいわれましたが、昭和42年12月香取神社と合祀して、新たに二之江神社としました。(江戸川区教育委員会掲示より)

★二之江神社のケヤキ 江戸川区登録天然記念物:境内にあるケヤキの古樹です。樹周4.6メートル、高さ:4メートル(平成19年5月当時)。樹齢500年以上といわれています。現在、区内で最も大きなケヤキです。

ケヤキを探しましが見つかりませんでしたが、

この花の奥に見える補修してある木のようです。古川べりに立っていました。江戸名所図会では香取神社は描かれていませんが右下隅の木がケヤキでしょうか。

古川側は神社の裏でしたので、表から見ました。二の之江神社鳥居です。

入った左手に力石が

手水舎

狛犬です。

二之江神社拝殿

拝殿の右後ろ末社の後ろの木が巨木のケヤキのようです。

従前は真言宗蓮華寺別当ということのようです。こちらが蓮華寺の山門です。

★ランドマーク蓮華寺:新義真言宗で海照山普門院と号し、本尊は聖観世音菩薩で行基の作といわれています。
寺伝によると、むかしこの地に観音堂があって村人の信仰を集めていました。永享10年(1438)に栄源法印が不動明王を背負って遍歴したのち、永住するようになったので、人々が協力してお堂を建て、蓮華寺と称したのが始まりといわれています。
建物は安政2年(1855)の地震、大正6年の津波や関東大震災で全壊の厄災にあいましたが、昭和47年に鉄筋建築の現在の本堂が完成しました。
虫除不動
本堂に、不動明王立像が安置されています。昔から「虫除不動」といわれて、子どもの癪の虫に霊験あらたかであるとして、広く人々に信仰されました。(江戸川区教育委員会掲示より)

本堂

墓地

 

★ランドマーク西光寺:浄土宗で常報山弥陀院と号して浄興寺の末であった。天文元年(一五三二)常蓮社西誉報阿元光老和尚の開山。往時この地が海岸の茅地であった頃、開拓の時漂着していた仏像を掘り出して祭ったのが寺の始まりであるという。寺院の北側一帯を「阿弥陀耕地」と称していた。本尊は木造阿弥陀如来座像で二十三世の時に修復した。また両菩薩は延享四年九月第十三世珍誉上人の代に当所の須賀藤左衛門が寄進したという。門前の道端に地蔵尊の石仏がある。昔は古川を通過する舟人が塩を投げて必ず礼拝したといわれるが、永い風雪に形が崩れている。(「江戸川区史」より)

★西光寺地蔵尊の石佛

本堂

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