江東区深川にある施設を訪問しました。こちらは3年振りです。
施設の近くにこは、渋沢榮一宅跡がありました。今の仕事についてから何かと渋沢榮一に関係する社人に出合います。
先の堀からスカイツリーが見えますが、左手のビルは渋沢倉庫(株)のビルです。会社のHPには、澁澤榮一について「日本資本主義の生みの親で、当社の創設者。 1864年(元治1)、のちの将軍一橋慶喜に仕え、明治維新後、新政府の大蔵省高官を経て実業界に転じ、1873年(明治6)日本最初の銀行を創設(第一国立銀行)。以来、株式組織にもとづく近代経済発展の最高指導者となった。」と書いてありました。澁澤氏の出身地の深谷は私の実家の隣町になります。
今回は、これを紹介するのが目的でなく、訪問を終えて駅に向かう途中でこんなものに出合いました。
深川えんま堂の閻魔大王です。
今日(26日)たまたま、孫の中学校の文化祭に行ったところ、演劇部がえんま大王の裁きのところ(常盤明原作の審判の合間)という演台を演じていました。
★ランドマーク法乗院:法乗院ゑんま堂は、寛永6年(1629年)深川富吉町(東京・江東区)に創建され、同18年に現在地に移りました。開山は覚誉憎正、本山は十一面観音で有名な大和長谷寺です。 当山は、弘法大師四国八十八ヶ所霊場の写し霊場として、江戸時代中期の宝永年間(1751-64)に江戸に設けられた御府内八十八ヶ所の第74番目札所であり、江戸三えんま『深川ゑんま堂』として古くから人々に親しまれてきました。
江戸の時代には、当山正面に通じる道にゑんま堂橋(史跡)が架けられ、現在の清澄通りがなかった当時は、深川の中心道だったと伝えられています。 また、里俗に為永春水『春暁八幡佳年』、河竹黙阿弥『梅雨小袖昔八丈』などの江戸町人気質を盛り込んだ代表的江戸文芸や芝居の作品中にも当山は描かれており、当時の様子を伺い知ることが出来ます。なかでも『髪結い新三』の「ゑんま堂の場」は、当山が描かれた名場面の一つです。(お寺さんのHPより)
その奥にも寺がりました。
心行寺です。
★ランドマーク心行寺:双修山養源院と号し、元和2年(1616年)京橋八丁堀寺町に創立。開山は観智国師の高弟、光蓮社団誉一路屋道上人、開基は岩国城主吉川監物の室養源院殿である。寛永10年(1633年)現在地深川寺町に移転した。「御朱印地・拝領地寺社帳」によれば、当時は間口四十二間、奥行四十二間、千七百六拾四坪の境内地で現在もほぼ当時の面影をとどめている。往時は影窓院・正寿院の2つの末寺があったが、その後合併された。旧本堂庫裡は大正12年9月関東大震災により焼失、その後昭和7年に再建された本堂庫裡も昭和20年3月戦災のため再度烏有に皈した。現本堂は浅香富三氏設計により奈良平安朝様式に現代風を加味して昭和42年完成したものである。(お寺さんのHPより)本堂
これは、影窓院地蔵です。この石造地蔵菩薩立像は、当時に影窓院と正壽院の二つの塔頭があり、影窓院にあったので、この称号があるそうです。結緑地蔵として縁むすび、願いごと成就の地蔵尊として参詣者で賑わうそうです。
こちらは【五重石塔】です。元亨4年(1324年)3月24日の銘あり。江東区に現存する最古の金石文だそうです。
【宝筺印咒塔(川口直供養塔)】
直は文化文政の頃の名妓、清元節の名人で、のちに『川口』という料亭を開いた。夫の忠七は笛の名手であった。
七福神にはあまり興味がないのですが、こちらは深川七福神の福禄寿だそうです。福禄寿は、心行寺の六角堂に安置されています。 福禄寿は星宿の神、南十字星の化身といわれて、長寿をつかさどる人望福徳の福神であります。
一説には、中国の宋の時代、嘉祐年間(1056~)に実在した道士であると言われています。
福禄寿は、背たけが低く、頭がきわめて長く、白髪童顔の姿をし、年齢数千年といわれ、杖を右手に、左に長命の鳥、鶴を従え、円満な人格を人々に授ける福神であります。
また、福(幸福)と禄(財)と寿(長命)の3つの福徳を授ける福神ともいわれてきたそうです。
私は信心が少ないので、功徳はないかと思いますが、この3つがあればいつまでも幸せになれそうです。あとは「えんま大王」の裁きを待つことにします。