ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

田無

2013年10月30日 23時26分58秒 | 訪問地周辺探索

29日に田無にある施設を訪問しました。雨でしたが近くの田無山総持寺と田無神社に寄ってみました。

総持寺は、明治8年、3寺が合併して創建されたお寺で、関東三十六不動霊場の第十番札所に数えられ、新東京百景にも選ばれています。立派な山門と大きなケヤキのある境内では、だるま市、梅の市などが行われます。


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欅の木は、田無地域における最大級の単幹樹木で、市内の巨樹が近年とみに減少している中で貴重な存在です。天保13年(1842年)から嘉永3年(1850年)にかけて西光寺(現總持寺)の本堂を再建した折に、その落慶を記念して境内に植えた樹木の内の1本であると言い伝えられています。あまり大きいので、近くでは写せなかったので、外に出て撮りました。

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こちらは、田無神社です。



創建が鎌倉時代と伝えられている田無神社は、本殿、拝殿が東京都文化財に指定されています。黄葉が美しいイチョウがある境内では、わんぱく相撲田無場所や青空骨董市などが行われます。

 

大鵬が協力して作られた土俵です。

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本殿

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安政5年(1858年)に建築したもので、全面に極めて優れた彫刻があり、江戸の堂宮建築の高度な水準を示す貴重な建物となっています。



田無神社の御神木はイチョウです。





 

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愛宕神社・出世の階段・虎ノ門ヒルズ

2013年10月28日 20時59分06秒 | 近郊散策

会社では、あまり昼休みをとらないのですが、今日は日差しにつられて、昼休み散策をしました。目指す場所は愛宕神社です。



 



 

 愛宕神社に上がる急な石段は「出世の石段」と呼ばれています。
その由来は講談で有名な「寛永三馬術」の中の曲垣平九郎(まがき・へいくろう)の故事にちなむようです。

興味のある方はこちらのページをご覧ください。http://www.atago-jinja.com/trivia/

階段を上ったところに社殿があります。

 

 社殿の脇に池がありました。

この池は小判水の滝というらしいです。

社務所の前にシロネコさんがいました。

愛宕山を下りて環状2号の地下工事現場から虎ノ門ヒルズを見てみました。

ヒルズは地下を2号線が通るそうです。



                                                                    



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閻魔大王(法乗院)・心行寺(江東区深川)

2013年10月27日 19時22分24秒 | 訪問地周辺探索

江東区深川にある施設を訪問しました。こちらは3年振りです。

施設の近くにこは、渋沢榮一宅跡がありました。今の仕事についてから何かと渋沢榮一に関係する社人に出合います。
先の堀からスカイツリーが見えますが、左手のビルは渋沢倉庫(株)のビルです。会社のHPには、澁澤榮一について「日本資本主義の生みの親で、当社の創設者。 1864年(元治1)、のちの将軍一橋慶喜に仕え、明治維新後、新政府の大蔵省高官を経て実業界に転じ、1873年(明治6)日本最初の銀行を創設(第一国立銀行)。以来、株式組織にもとづく近代経済発展の最高指導者となった。」と書いてありました。澁澤氏の出身地の深谷は私の実家の隣町になります。
今回は、これを紹介するのが目的でなく、訪問を終えて駅に向かう途中でこんなものに出合いました。

深川えんま堂の閻魔大王です。

今日(26日)たまたま、孫の中学校の文化祭に行ったところ、演劇部がえんま大王の裁きのところ(常盤明原作の審判の合間)という演台を演じていました。

★ランドマーク法乗院:法乗院ゑんま堂は、寛永6年(1629年)深川富吉町(東京・江東区)に創建され、同18年に現在地に移りました。開山は覚誉憎正、本山は十一面観音で有名な大和長谷寺です。 当山は、弘法大師四国八十八ヶ所霊場の写し霊場として、江戸時代中期の宝永年間(1751-64)に江戸に設けられた御府内八十八ヶ所の第74番目札所であり、江戸三えんま『深川ゑんま堂』として古くから人々に親しまれてきました。

江戸の時代には、当山正面に通じる道にゑんま堂橋(史跡)が架けられ、現在の清澄通りがなかった当時は、深川の中心道だったと伝えられています。 また、里俗に為永春水『春暁八幡佳年』、河竹黙阿弥『梅雨小袖昔八丈』などの江戸町人気質を盛り込んだ代表的江戸文芸や芝居の作品中にも当山は描かれており、当時の様子を伺い知ることが出来ます。なかでも『髪結い新三』の「ゑんま堂の場」は、当山が描かれた名場面の一つです。(お寺さんのHPより)

その奥にも寺がりました。

心行寺です。

★ランドマーク心行寺:双修山養源院と号し、元和2年(1616年)京橋八丁堀寺町に創立。開山は観智国師の高弟、光蓮社団誉一路屋道上人、開基は岩国城主吉川監物の室養源院殿である。寛永10年(1633年)現在地深川寺町に移転した。「御朱印地・拝領地寺社帳」によれば、当時は間口四十二間、奥行四十二間、千七百六拾四坪の境内地で現在もほぼ当時の面影をとどめている。往時は影窓院・正寿院の2つの末寺があったが、その後合併された。旧本堂庫裡は大正12年9月関東大震災により焼失、その後昭和7年に再建された本堂庫裡も昭和20年3月戦災のため再度烏有に皈した。現本堂は浅香富三氏設計により奈良平安朝様式に現代風を加味して昭和42年完成したものである。(お寺さんのHPより)本堂


これは、影窓院地蔵です。この石造地蔵菩薩立像は、当時に影窓院と正壽院の二つの塔頭があり、影窓院にあったので、この称号があるそうです。結緑地蔵として縁むすび、願いごと成就の地蔵尊として参詣者で賑わうそうです。

こちらは【五重石塔】です。元亨4年(1324年)3月24日の銘あり。江東区に現存する最古の金石文だそうです。

【宝筺印咒塔(川口直供養塔)】
直は文化文政の頃の名妓、清元節の名人で、のちに『川口』という料亭を開いた。夫の忠七は笛の名手であった。

七福神にはあまり興味がないのですが、こちらは深川七福神の福禄寿だそうです。福禄寿は、心行寺の六角堂に安置されています。 福禄寿は星宿の神、南十字星の化身といわれて、長寿をつかさどる人望福徳の福神であります。
一説には、中国の宋の時代、嘉祐年間(1056~)に実在した道士であると言われています。
福禄寿は、背たけが低く、頭がきわめて長く、白髪童顔の姿をし、年齢数千年といわれ、杖を右手に、左に長命の鳥、鶴を従え、円満な人格を人々に授ける福神であります。
また、福(幸福)と禄(財)と寿(長命)の3つの福徳を授ける福神ともいわれてきたそうです。

私は信心が少ないので、功徳はないかと思いますが、この3つがあればいつまでも幸せになれそうです。あとは「えんま大王」の裁きを待つことにします。

 

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大阪キタ・ミナミとネコさん

2013年10月25日 22時06分18秒 | 訪問地周辺散策

大阪に出張でした。一日目は堂島にある施設の訪問です。ちょっと早めに出てキタを散策しました。キタというと曽根崎警察という感じがしています。次が近松門左衛門の曽根崎心中のお初天神(露天神)です。『曽根崎心中』は、元禄16年4月7日(1703年5月22日)早朝に大坂堂島新地天満屋の女郎「はつ(本名妙、21歳)」と内本町醤油商平野屋の手代である「徳兵衛(25歳)」が西成郡曾根崎村の露天神の森で情死した事件を題材にしています。この事件以降、露天神社はお初天神とも呼ばれるようになりました。「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜」で始まる、お初と徳兵衛が命がけで恋を全うした美しい人間として描かれています。当日は何かの撮影をしていて、皆が振り返ってみていました。境内にいたネコさんです。

北新地を抜けて堂島アバンザに向かいました。

この裏手にこんなものがありました。堂島薬師堂は古く推古天皇の時代から当地にあったと伝えられ、「御堂のある島」=「堂島」が由来であるといわれています。戦後、毎日新聞社が増築した際、敷地内に祀られていた薬師堂を敷地東向いの社有地に移設しました。そして、堂島アバンザを建設するにあたり、奈良・薬師寺と地元の堂島薬師堂奉賛会の要請もあり、かつてあった場所に戻ったのです。

 
この周辺にもネコさんがいるらしくネコに餌をやらないでくださいと書いてありました。

1匹出てきて木の陰に入りました。

二日目は南船場で会議でしたが、宿から難波に向かい、こちらは3度目になる法善寺です。苔に覆われた水掛不動さんここにはネコさんが5~6匹ほどいました。賽銭箱に乗っているネコさんは舌が出ていました。今年の2月に行ったときは社がありその上にネコさんが乗っていましたが、社が取り払われていました。社の所にいたネコさんは手持無沙汰のようでした。その奥にもいました。

こちらにもいました。

こちらは法善寺横丁です。ここ来るときはいつも雨のような気がします。歌詞です。この歌が強烈な印象でどうしてもここに来てしまいます。

難波の駅に戻ったら、ミナミのグランド花月には修学旅行の高校生が団体で入っていきました。

かに道楽の本店戎橋から道頓堀です。


心斎橋筋商店街を歩いて目的の南船場に向かいました。

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栗林公園・高松港

2013年10月10日 22時58分38秒 | 訪問地周辺散策

台風一過で暑い水曜日になりました。昨日と今日はそれぞれ2施設ずつの訪問です。午前中の訪問を終えて近くの栗林公園に寄ってみました。50年ほど前に高校の修学旅行で京都・奈良・屋島・栗林公園・金毘羅様を訪れました。ということで50年ぶりの栗林公園です。台風一過の好天でしたが、暑い日差しでした。松の名木が中心です。栗林公園は、室町の手法を残す石組みの地をもとに、江戸時代、讃岐高松藩の歴代藩主により百年余りの歳月をかけて完成、下屋敷として利用されていました。現在では、特に重要な文化財庭園として国の特別名勝に指定され、また日本に関する旅行ガイド「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」では「わざわざ旅行する価値がある」を意味する三つ星に格付けされているそうです。

芙蓉峰から見た園内北湖

飛来峰から見た園内南湖

空を泳ぐ鯉をイメージして撮ってみました。

ウイキペディアでは「紫雲山を借景として6つの池と13の築山を巧妙に配した大名庭園で、回遊式庭園の南庭と近代的に整備された準洋式の北庭からなっている。面積は約75ヘクタールと特別名勝に指定されている庭園の中では最大の広さである。1625年頃、讃岐領主生駒高俊によって、南湖一帯が造営され、1642年入封した松平頼重に引き継がれ、以後高松松平家5代約100年をかけて完成した。明治政府の管理下におかれた後、1875年に県立公園になり一般に公開された。1953年には特別名勝に指定された。」と書かれています。

こちらは高松中央公園です。菊池寛です。ウイキペディアより「香川県香川郡高松の生まれ1916年に京大卒業後、時事新報社会部記者を経て、小説家となる。1923年に私費で雑誌『文藝春秋』を創刊し大成功を収め、富豪ともなった。日本文藝家協会を設立。芥川賞、直木賞の設立者でもある。太平洋戦争中、文芸銃後運動を発案し、翼賛運動の一翼を担ったために、戦後は公職追放の憂き目にあい失意のうちに没した。「我々は誰にしても戦争に反対だ。然し、いざ戦争になってしまえば協力して勝利を願うのは、当然の国民の感情だろう」とは戦後の本人の弁である。」
もう一つの施設を訪問し、

最終の航空東京便まで時間があったので、玉藻公園にも3年ぶりに寄ってみました。

月見櫓から見た高松港

高松港は鉄道連絡船の宇高連絡船(岡山県玉野市の宇野線宇野駅と香川県高松市の予讃線・高徳線高松駅との間)が運航されていたところです。

宇高連絡船は1988年(昭和63年)4月10日、本四備讃線(瀬戸大橋線)が開業したことから、前日限りで廃止されました。(写真はウイキペディアより)現在は宇高航路として四国フェリーがフェリーを運航しています。高松港からフェリーが出発するところです。

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