ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

隅田川神社(水神社)

2015年10月25日 22時54分07秒 | 歴史の小道

リハビリ病院は隅田川沿いにあります。周辺にある隅田川神社を散策してみました。この辺は水神の森と言われていたようです。

★ランドマーク水神の森跡荒川の下流、鐘ヶ淵を越え大きく曲がったこの地は、隅田川の落ち口(終点)で、かつては鬱蒼とした森が広がっていました。人々からは水神の森とも浮洲の森とも呼ばれて親しまれていました。
昔、ここから入江が始まり、海となっていたことから「江の口」、すなわち「江戸」の語源ともなったといわれています。
水神の森は「江戸名所図会」にも描写されているとおり、川岸にあった水神社(隅田川神社)の鎮守の森でした。川を下ってきた人々は隅田川の入口の森として、川をさがのぼる人々にとっては鐘ヶ淵の難所が近いことを知らせる森として、格好の目印となっていました。
その後、震災・戦災にも焼失を免れた森は戦後の開発で失われてしまい、隅田川神社自体も百メートルほど移されて現在地に鎮座しました。  平成十九年三月墨田区教育委員会

墨田川神社の鳥居です。拝殿の後ろは高速道路になっていて柱が見えます。前には狛犬なら狛亀(石亀)が一対がありました。さらにお百度参りの碑があります。

奥には亀神が鎮座しています。

昔からこの神社は、河川交通の要衝にあり、墨田川の総鎮守として、船頭や荷船仲間に厚く信仰されていたため、河川交通の象徴として「亀」が神使とされ、「水」が神紋とされたと思われます。
移転再建された社殿からは、首都高速道路のため、川面は全く見えません。水神宮の碑です。

錨が飾ってありました。

 

この辺りは隅田宿跡だったようです。

 

★ランドマーク隅田宿跡近年の研究では、隅田川河岸には中世鎌倉街道が通過し、街道沿いに「隅田宿」と呼ばれる、江戸時代以後には消滅した「幻の町」が存在し、梅若伝説はその町を舞台に成立したことが明らかにされつつあります。こうした新たな歴史研究の成果は、梅若伝説が、一般にイメージされがちな物寂しい川原を舞台に生まれたものではなく、商人たちの往来で賑わう中世の都市的な環境のもとで育まれた伝説であることを示しています。
 近世に入ると梅若伝説を主題とした「隅田川物」と呼ばれる一連の歌舞伎・浄瑠璃の芸能作品が普及しました。その影響は、合巻・黄表紙・読本や浮世絵など近世の文学・芸術の諸分野に及び、それらの作品の魅力が隅田川流域に文人墨客を誘致する大きな要因になったのです。(すみだ郷土文化資料館資料より)

名所江戸百景「隅田川水神の森真崎」

広重の絵で

手前に向島の土手の桜を大きく描き、水神の森、隅田川神社、対岸の真崎、そして遠景は筑波山だそうです。

広重:名所江戸百景
真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図

 

江戸切絵図より水神、梅若塚、木母寺と古スミ田川(内川)を挟んで向かい側が関屋の里になります。

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聖橋・鳥越神社、東京都慰霊堂

2015年10月23日 20時09分04秒 | 身辺出来事

脊柱管狭窄症の手術した三楽病院に診断書を受け取りに行きました。医療保険に申請するものですが6000円以上もかかりました。御茶ノ水駅の階段が大変なので、リハビリを兼ねて自転車で行ってみました。6㎞弱ということで、最後の登りさえ無事越えられればと思い決断しました。ガード沿いを登りましたが、荒川にかかる橋を登るよりは短い感じでした。帰りは聖橋を渡って神田明神側に行ってみました。

聖橋からみたところです。この写真で思い出すのは田舎の中学生のころ社会の教科書に都市交通発達のものとして載っていたことです。教科書を見る前から知っていたので印象がありました。

聖橋は放物線を描くアーチ橋で、形式は鉄筋コンクリートアーチ橋。関東大震災後の震災復興橋梁の1つで、昭和2年(1927年)に完成したものです。名前は東京府(現:東京都)が公募し、両岸に位置する2つの聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことから「聖橋」と命名されたそうです。

湯島聖堂と道路を挟んだところにある東京医科歯科大学にはこんなものがありました。調べてみたら「記念壁画レリーフ」ということで「中央はヴァチカン宮殿「署名の間」に描かれているラファエロ作「アテネの学堂」であり、対話による教育の原点を表しています。左は医学の父ヒポクラテス像とあるべき医師の心得とされる「ヒポクラテスの誓い」、右は1846年マサチューセッツ総合病院で行われた歯科医師モートンによる世界最初の全身麻酔公開実験を描いたロバート・ヒンクリーの作品です。
これらの壁画レリーフは、「教育」「研究」「診療」を題材としており、医歯学総合研究科・保健衛生学研究科の誕生により大学院重点化大学となった本学が、21世紀を迎えた今日、世界的拠点となるべく歩み始めたことを記念して作製されたものです。」と医科歯科大のHPに書かれていました。

神田明神は前に2度来ているので鳥居の写真のみでした。湯島の地名につられて湯島天神をと清水坂下まで行ってみましたが、またの上り坂であきらめて蔵前橋通りを帰途につきました。

途中で鳥越まつりで有名な鳥越神社寄ってみました。

鳥越祭りは鳥越神社の例大祭として毎年6月の中頃に行われます。大神輿の渡御と提灯行列で、千貫神輿といわれる御神輿の列の先頭には、猿田彦(天狗)や手古舞連、子供たちの持つ五色の旗が歩きます。夜祭りになると、提灯をつけた元祖提灯神輿は、高張り提灯に囲まれ宮入りします。その荘厳かつ幻想的な様は、人々の心をふるわせるそうです。祭りがあまりすくでないのでまだ、見たことがありません。

本殿

通りの名前がついている蔵前橋です。

手前に浅草御蔵跡の碑がありました。

橋の欄干には相撲の像がありました。両国に行く前はここ蔵前に国技館がありました。上流は厩橋と吾妻橋です。

橋を渡って墨田区側にくるとすぐに横網町公園、慰霊堂があります。

東京都のHPに「東京都慰霊堂は、大正12年(1923)9月1日に発生した、関東大震災による遭難者(約58,000人)の御遺骨を納めるための霊堂として、東京市内で最も被害の大きかった被服廠跡(現在東京都横網町公園)に昭和5年に建てられました。慰霊堂の設計は、築地本願寺や湯島聖堂を手がけた伊東忠太氏(1867~1954)によるものです。

当初は「震災記念堂」と名付けられましたが、昭和20年3月10日の東京大空襲などによる犠牲者(約105,000人)の御遺骨も併せてこの霊堂に奉安し、昭和26年9月に名称を「東京都慰霊堂」と改め、現在約163,000体の御遺骨が安置されています。毎年2回(春季-3月10日、秋季-9月1日)慰霊大法要が行われています。」と書かれています。慰霊堂は工事中でした。庭のイチョウももう少しで色付くようです。野外ギャラリーです。

何十回と訪れているのですが初めて見るものがありました。

こちらは前回も見ました。

震災記念堂に、大正12年9月1日の関東大震災の慰霊と昭和20年3月10日の東京大空襲の被災者を慰霊しています。それぞれ慰霊の日には屋台が出るので、保健所時代は毎年屋台の衛生監視で出かけていました。

当時はあまり中を見る機会がありませんでしたが、退職してから時々訪れています。

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スカイツリーとテニスコート

2015年10月18日 22時40分52秒 | 身辺出来事

リハビリを兼ねて大横川親水公園にあるテニスコートにリハビリの先生の応援に行ってきました。応援の甲斐あって予選を突破し、本戦入りです。応援席からのスカイツリーコートの周りの花です。

自転車に乗るのもリハビリなので、スカイツリーのビューポイントの一つに行ってきました。北十間川、スーパーオリンピックの前からの景色です。

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多聞寺

2015年10月15日 20時51分57秒 | 訪問地周辺

リハビリの外来に自転車で行ってきました。病院の近くに多聞寺というお寺さんがあるので、行ってみました。前に一度散策していますが、病院の近くなので再訪しました。

山門です。

多聞寺は「天徳年間(957-960)には墨田千軒宿、今の隅田川神社付近にあって、大鏡山明王院隅田寺と称え、本尊は不動明王でした。降って天正年間(1573-1591)には41代鑁海上人が、ある夜、夢に毘沙門天(多聞天)尊像を感得して以来、毘沙門天を本尊とし、隅田山吉祥院多聞寺と改称したといいます。なお、明治維新までは隅田川神社の別当寺でした。
多門寺は区内の最北端にあり、関東大震災、戦災ともに遭わなかったので、昔日の面影を残す数少ない寺院となっています。
明治45年には、永信講として「地蔵尊密言流念仏」が発足しましたが、戦時中に中断したのち昭和26年に復活し、毎月24日に催されています。
また、境内の狸塚の前には弥陀三尊の板碑(年紀不明)があり、他に弥陀一尊(花瓶)のものが保管されています。(すみだの史跡文化財めぐりより)」

六地蔵

映画人ノ墓碑

 「故坂斎小一郎(共同映画株式会社創立者)氏の遺族ハツ夫人が墓地資金を提供し、日本映画の民主的発展のためにつくされた映画の仲間の生涯を顕彰し、追悼する共同の墓碑建立に役立ててほしいとの申し出がありました。
 その意志を尊重し、映画を愛する人々と団体によって本会が組織され、この墓碑が建立されました。1992年4月29日」

榎本健一さんや片岡千恵蔵、音羽信子さんなどが入っているようです。

同じ、1992年今井正監督によって映画「戦争と青春」が作られ、そのロケ地に多聞寺の墓所が使われたことのようです。

平和観音像です。

東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨もおいてありました。

ここに来ると、いつも平和な日本にと願わずにはいられません。

多聞寺は、隅田川七福神の毘沙門天となっています。

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回向院

2015年10月12日 20時09分28秒 | 社寺仏閣

リハビリを兼ねて近郊を散策しています。保健所の時代に愛猫が亡くなったのだけれど、どこで葬っていただけるのかという電話がたびたびあり両国の回向院でやってもらえますと答えていました。何度か訪れていますが、詳しくは散策していませんでした。

今回じっくりみることができました。由緒書きです。

江戸切絵図

江戸名所図会に描かれている回向院です。

こちらは回向院御開帳の図です。大人の塗り絵より。墨田区で作ったものもありました。

★ランドマーク回向院お寺さんのHPでは「回向院は、今からおよそ360年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。

この起こりこそが「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」として現在までも守られてきた当院の理念です。」とありました。ということで動物の慰霊に関する碑がたくさんありました。猫の供養塔です。これは小鳥の碑奥には古い供養塔がありました。

参道を入ってすぐの左手に「力塚」がありました。さすが大相撲の発祥の地と思いました。

「力塚の碑は、昭和十一年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものですが、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑として、現在も相撲と当院とのつながりを示す象徴になっています。」

のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬する。

横難横死(おうなんおうし)とは、予期しない災難や非業の死をとげること、だそうです。

これは関東大震災の横死の碑

海難者の碑

 有名人の墓として武本義太夫の他
 
ここで最も有名なのは鼠小僧の墓です。
墓石の前にある石を削って持っている金回りがよくなるとか持病が治るといわれてます。

こちらは水子塚

1793年(寛政5年)、老中・松平定信の命によって造立された「水子塚」は、水子供養の発祥とされている。2月第一土曜日14時から水子塚の前にて水子総供養を、その他は隔月毎に本堂にて水子供養を行っているそうです。

江戸市民に知られていたこの矩形の板石の塔は、正面に小作りながら端正なお顔の地蔵菩薩坐像が浮彫りされ、その下に「水子塚」という大字が刻まれています。

塩地蔵「右手に錫杖、左手に宝珠を持たれており、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから、「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。

腐食がひどく年代など判明しませんが古いもので、「東都歳時記」所載の江戸東方四十八ヶ所地蔵尊参りには、その四十二番目として数えられています。」

帰りがけに和服を着たご婦人がたくさん集まっていました。

ここから両国橋に向かいました。

 

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