ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

眞性寺・巣鴨

2016年05月31日 22時41分59秒 | 社寺仏閣

自宅ではあまり歩く機会がないので、リハビリを兼ねて江戸六地蔵のひとつ巣鴨の眞性寺に出かけて見ました。

巣鴨駅から見て、とげぬき地蔵の商店街の入り口の左手にあります。とげぬき地蔵には3回ほど来て、ここにお寺さんがあるいうことはわかっていたのですが、散策したことはありませんでした。

正面に大きな座地蔵が見えます。

入った右手に地蔵の案内看板が出ています。

江戸六地蔵尊の一つとして知られるこのお寺は、真言宗豊山派醫王山東光院眞性寺と申します。起立年代不詳。元和元年(1615年)境内には松尾芭蕉の句の石碑があります。大きな傘をかぶり、杖を持つお地蔵様。江戸の六街道の出入口に置かれ旅の安全を見守ってくれました。 (巣鴨は中山道の出入り口でした)関八州江戸古地図、江戸絵図ほか多くの文献から眞性寺界隈は交通の要として賑わっておりましたことが伝わっております。(巣鴨地蔵通り商店街のHPより)

江戸名所図会より、下の通りが中山道で左手の門から入ったところの左側の盛土の上に乗っているのが地蔵さんでしょうか。

中山道はタネ屋街道という看板が入り口の左手のところにかかっていました。

真性寺の由緒書きです。

★ランドマーク眞性寺:江戸六地蔵の一つと知られる醫王山東光院眞性寺は真言宗豊山派に属しており、奈良県の桜井市初瀬の総本山長谷寺の末寺です。開基(寺の始まり)は不明分ですが、聖武天皇(在位:724年2月4日 - 749年7月2日)勅願。行基菩薩が開いたものと伝えられています。

_「地誌御調査上」(文久9年1826年)によれば、今から380年前、元和元年(1615年)に祐遍法印により中興開基(一度哀運にあったものを再建)が行われたのが記録として残っています。時代的には大阪夏の陣で徳川氏が勝利し天下を掌握した年です。
 同書によれば、当寺は元禄の頃から田端東覚寺の末寺であったのですが、正徳元年(1711年)にはそこを離れ、京都御室御所仁和寺の末寺になったといいます。そのご明治33年に至って仁和寺を離れ、真言宗豊山派総本山長谷寺の末寺になって今に至ります。(巣鴨地蔵通り商店街HPより)

 

江戸六地蔵 - 旅の無事を祈るお守り役 -

 境内の左手に、高さ2m68cm、蓮花台を含めると3m45cmの大きなお地蔵様が、蓮座に趺座しています。これを称して江戸六地蔵尊といい、江戸御府内に6箇所造立されている地蔵尊の一つです。
 眞性寺の地蔵尊は江戸深川に住んでいられた地蔵坊正元という方が願主となって、宝永3年(1706年)造立の願を発してから14年間の間に、大凡同型の地蔵尊菩薩像6体を造立された中の一体で、4番目に作られた唐銅製の座像です。眞性寺の地蔵尊が完成したのは正徳4年9月(1714年)です。

 その他の六地蔵は、東海道の尊像として品川寺(第一番)、奥州街道沿いの東禅寺(第二番)、甲州街道沿いの江戸三大閻魔の寺として有名な太宗寺(第三番)、水戸街道沿いの霊巌寺(第五番)にあります。第六寺は廃寺となり消滅した千葉街道沿いの永代寺にありました。

地蔵さんの脇にも

子安地蔵だそうです。

どちらも線香で煙っていました。

芭蕉の句碑がありました。

脇の門です。本堂です。

社務所の前にこんな像がありました。

弘法大師の像でしょうか。

社務所の前から見た地蔵さんです。

地蔵通りを抜けると、徒歩10分庚申塚があると書いてありましたが、今の足では少し無理と思いあきらめて帰ってきました。

昔は庚申塚の所は賑わっていたようです。江戸名所図会より

下の古地図で左手の茶屋と書いてあるところです。今は都電が通っているので、そのうち散策しようと思っています。

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素盞雄神社・熊野神社、荒川区

2016年05月30日 10時58分10秒 | 社寺仏閣

以前東京のお祭りの名所ということで、わざわざ訪ねましたが、今回は千住大橋を渡ると橋の袂にある素戔雄神社に偶然出合いました。その前に千住大橋を降りで来るとこんな標識がありました。

熊野神社門前に材木問屋があったと書いてあり、鳥居が見えたので右手の坂を下りました。

鳥居の前は施錠してあり中には入れませんでした。

仕方なくアップで撮ってみました。

★ランドマーク熊野神社創建は永承五年(一〇五〇)、源義家の勧請によると伝えられる。
大橋を荒川(現隅田川)にかける時、奉行伊奈備前守は当社に成就を祈願し、文禄三年(一五九四)橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行なった。以後、大橋のかけかえごとの祈願と社殿修理が慣例となった。
また、このあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並んで川岸とよばれ、陸路奥州道中と交差して川越夜舟が行きかい、秩父・川越からの物資の集散地として賑わった。(荒川区教育委員会掲示より)

古地図を見ても熊野神社がよくわかりませんでしたが、天王社の川寄りにクマノと書いてあるところのようです。千住宿から橋を渡ってきたことになります。材木問屋があったという隅田川とクマノ神社の間を通って左に折れるとこんな建物がありました。中には橋本左内像がありました。

ここの脇に自転車を止めて先に行くと鳥居がありました。古地図のアキ地と書かれているところから神社に入ってみました。

左手に神楽殿がありました。まだ、前に来たところとは気づきませんでしたが、

この赤い社で思い出しました。この前はこの日光街道側から入ったので、風景が違って見えました。

中に入っていろいろと思い出しました。

★ランドマーク素盞雄神社区内で最も広い地域(町屋地区・南千住地区・三河島地区)の61カ町に氏子を持つ神社です。

 この素盞雄神社のある千住は、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅へ出発した地点として知られ、「奥の細道」には「千じゅと云所にて船をあがれば前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝぐ」と記されています。 この時芭蕉が詠んだ「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の矢立初めの句碑(松尾芭蕉の碑)が境内にあります。

 また、3年に一度の大祭で2日間かけて氏子域を渡御する二天棒の千貫神輿は、左右に振りながら担ぐ神輿振り姿が圧巻です。

祭りの準備をしていましたが、今年の天王祭は6月2日-4日のようです。例大祭です。

江戸名所図会では小塚原天王宮と書かれています。

この絵の奥から入って神楽殿、本殿、正面にある鳥居はこちらになります。鳥居から見て右手に塚があるのが富士塚になります。

こちらは瑞鉱石

浅間神社となっています。裏側日光街道から入ったところに石が置いてあります。

塚の向かいには庚申塔があります。

古地図では右側の大橋に通じる日光街道から入ると

突き当り奥にイチョウの大木あります。

イチョウの木の周りに

千住大橋と芭蕉が旅立つところ様子が書かれています。

こちらは南詰になります。

こんなふうに書かれているようです。

境内のアジサイはまだ少ししか咲いていませんでした。

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源長寺・掃部宿・千住大橋

2016年05月24日 11時38分01秒 | 歴史の小道

千住駅前に行きたかったので、リハビリ病院を終えて千住に向かいました。病院の裏から綾瀬橋を渡って墨堤通を千住に向かって行きました。JRの高架下に通っている道路を潜り抜けて苦労してどうにか日光道の入り口らしきところに着きました。

角に源長寺がありました。

★ランドマーク源長寺:浄土宗稲荷山勝林院源長寺と号す。慶長三年(1598)この地に住み開拓した石出掃部亮吉胤により、同十五年(1610)一族の菩提寺として開かれたが、千住大橋架橋等に尽くした郡代伊奈備前守忠次を敬慕してそのその法名にちなむ寺号を付して開基としている。本尊は、阿弥陀如来。
墓地に、石出掃部亮吉胤墓(区指定記念物)大阪冬の陣西軍の武将矢野和泉守墓、女行者心静法尼墓、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠、その他千住宿商家の墓碑が多い。また草創期の寺子屋師匠だった多坂梅里翁の筆子塚、一啓斎路川句碑等がある。

 もとは地蔵尊像を本尊としていた。今の本尊は閻魔大王像。戦災で山門、本堂、庫裏を消失し、1971年、鉄筋コンクリートで再建された。

こちらの地蔵尊は昔からのものでしょうか。

建て直された本堂です。

馬頭観世音

大欅の切り株が

何が書いてるのかわかりませんでしたが、脇に高札が

多坂梅里先生の追悼碑と書かれています。

本堂の脇を抜けて墓地へ入り口のところに、

墓地の中に入ると

矢野和泉守正倫の墓:矢野和泉守正倫て知らない人なので調べて見たら「墓豊臣家中老であった中村一氏の家臣。関ヶ原の戦いで中村家が伯耆の国持大名になると3千石が与えられ伯耆江美城代になっていますが、中村一忠(一氏の息子)が亡くなり中村家は改易となり浪人。その後中村家再興のために大坂城へ入城しますが、大坂冬の陣の今福の戦いで力戦虚しく東軍の佐竹義宣隊に敗れ討ち死にしています。

この敗北直後に木村長門守重成が活躍し、ある意味彼の引き立て役みたいになってしまった人ですが、中村家は鳥取藩主池田家の家老に仕えることとなり形の上では陪臣ながらお家再興を果たしています。なぜ彼の墓が千住にあるのか不明ですが、ご子孫の方などが後に建てたのかもしれません(墓は牧野氏の名がきざまれた礎石にありますし)。」というようなことが書いてあるHPを見つけました。

次にところには

石出掃部亮吉胤の墓がありました。

 

こちらはここまでに通ってきた墨堤通りの堤を作った人のようです。「胤の字で分かるように千葉氏一族です。経歴は北条家の家臣であったなど諸説あるようですが千住掃部宿(現在の千住仲町)の開拓や千住大橋架橋、家康に願い出て荒川に2kmに及ぶ掃部堤を築くなどこの地の開拓に尽力した人物で、幕府にその功を賞され子孫は代々千住掃部宿の名主を務めています。」

昔から千住に住んでいた商家などの古いお墓があります。

無縁仏はこちら集められています。

千住の駅の方面に向かうとこんな広場があります。千住掃部宿の紹介です。

千住宿は奥州街道・日光街道第1宿 日本橋から8.7km 草加宿まで8.7kmのところにあります。

駅前で用事を終えて大橋の方に戻ってみました。

橋から千住宿に向かうところは「やっちゃ場」だったようです。今でも都立の千住市場があります。

奥の細道の芭蕉像があります。

周りにはドクダミの花が満開でした。

千住宿の方を振り返ると

先には千住大橋が見えます。

渡ったところに碑や案内がありました。

浮世絵で名所江戸百景「千住の大はし」が描かれています。

山は筑波山のようです。

江戸名所絵図会ではこのように描かれています。鬼平犯科帳にも時々登場します。

次はこの橋の手前左側にある天王宮に向かいました。

 

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キンシバイ・タチアオイ・カシワバアジサイ

2016年05月23日 23時04分29秒 | 季節の花

リハビリ病院の行き帰りに道端の花を撮ってみました。

ビヨウヤナギではありません。キンシバイでした。

ビヨウヤナギです。

タチアオイ

後日撮ったものを加えます。

 

カシワバアジサイ

後日のカシワバアジサイです。満開になりました。

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仙寿院

2016年05月22日 10時53分49秒 | 社寺仏閣

鳩森八幡宮から会場に向かう途中に仙寿院がありました。

鳩森八幡宮から出て、坂をおりたところは新国立競技場の建設現場です。明治公園のあった場所です。

いつも通っているところで、

右側にトンネルがあることはわかっていたのですが、散策したことはありませんでした。じつはこの上が墓地だったのです。この写真を撮っている場所は昔お団子屋さんがあったあたりだそうです。物の本に「仙寿院の参道下、現在のビクタースタジオ付近には、江戸時代から明治元年まで『お仲だんご』という団子屋があった。『お仲だんご』は、江戸名所図会や歌川広重の浮世絵にも描かれており、美人と評判のお仲さんや竹の皮で包んだ「古代餅」などから、仙寿院などを訪ねる人々などのあいだで人気を博していた。」と書かれていました。

階段の上に仙寿院があります。

★ランドマーク仙寿院由緒書きより「当山は、正保元年(1644年)紀伊の太守徳川頼宣の生母お萬の方(法名養珠院妙紹日心大姉)の発願により里見日遥(安房の太守里見義康の次子)を開山として創立された。従って江戸期は、紀伊徳川家、伊予西条松平家の江戸表における菩提寺祈願所として、十万石の格式をもって遇せられ、壮大な堂宇と庭園は江戸名所の一つに数えられ、新日暮里(しんひぐらしのさと)とも呼ばれていた。
お萬の方は、徳川家康の側室で紀伊徳川家の祖、頼宣水戸徳川家の祖、頼房の生母でもあり、また法華経の信仰篤く日蓮宗門の大外護者として知られている。
開山里見日遥(一源院日遥上人)は、後に飯高檀林へ招かれ多くの法弟を育成し、更に越後村村田妙法寺へ瑞世した。日遥を祖とする千駄ヶ谷法類は、当山を縁頭寺とする。
江戸期において隆盛を誇った当山も明治維新の変革によって衰微し、明治十八年には火災によって全山焼失、その後里見日玞により復興されるも、昭和二十年戦災で再び全山焼失した。更に昭和三十九年東京オリンピックの道路工事などによって寺観は一変したが、昭和四十年には本堂・書院を再建、昭和五十九年には書院・客殿を増改築し、昔日には遠く及ばずながら復興し現在に至っている。」

仙寿院は正式名称は「法霊山仙寿院東漸寺」ということらしく

東禅寺と書かれた石碑がありました。

千駄ヶ谷トンネルは前回の東京オリンピックのための道路拡張で墓の下を貫通したようです。

上には墓地が

おおきなイチョウの木がありました。

神宮第二球場のネットが見えます。

こちらが本堂

本堂の脇に標札がありました。

墓のところに布袋尊があります。

仙寿院は鬼平犯科帳にも時々出てくる場所です。

江戸時代、この地は谷中の日暮里に風景が似ていることから「新日暮里(しんひぐらしのさと)」とも称され、浮世絵や『江戸名所図会』にもしばしば登場している。日暮里があまりに有名になったために、西方に新日暮里ができたのである。また、桜の名所として知られ、桜の季節には遠方からも花見客が集まり、酒屋や団子・田楽の店などが現れて賑わったという。ことだそうです。

江戸名所図会の塗り絵です。その様子がよく表れています。

また、鬼平犯科帳には鳩森八幡宮や仙寿院が時々登場します。「鬼平犯科帳   21-1「泣き男」(文庫版p12 新装版p12)より」

ともかく細川は、這うようにして千駄ヶ谷八幡宮の境内に入り人目を避けた後・・・・・・近くの仙寿院という寺の門前を流れる小川に架けられた橋を渡ったのはおぼえているが・・・・・

右下に小川と橋があります。

仙寿院 庭園桜

私は当日会場に向かうのに橋を渡らずに左手に行ったことになります。

古地図にある鉄砲場の方からくる道が仙寿院の下を貫通したことになるのでしょうか。

地下鉄の外苑前から会場に向かう途中で、水野左近と書かれているところの高徳寺や熊野社も訪れたことがあります。

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